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王都サルナードを離れるとユティアが聞いたのは、リトルセたちが神殿から戻ってきて三日が過ぎた午後だった。
「でも、あさってって……」
ずいぶん急な話だった。
「カディールには今、いろいろと必要なものを買い揃えてもらっています」
それは、本当に何も準備していなかったということだ。シオンの決断もまた、急だったのかもしれない。
もともとは、サイロン家の名とその権力による保護を求めて王都の滞在を決めた。だが、たしかに屋敷の中にいれば安全かもしれないが、イデアや排魔という存在は想像以上に厄介だったのだ。
白鷺と名乗った少年が国の第一王子だということもまた、大問題だ。
ただの変人が求婚してきただけなら無視すればよいが、さすがに第一位の王位継承権を持つ王子となれば、リトルセが以前指摘したように勅命を持って側室に迎えるという可能性もないわけではない。滅亡したとはいえ、ユティアはエリシャ王家の姫君。身分になんら障害はなかった。
アスティード王子から離れる有効な手は、ユティアがこの国を出ることだ。いくら彼が自由気ままに街を歩いていようとも、さすがに他国にまでは現れないだろうから。
「それで……エリシャ領に、行くの?」
以前の計画ではたしか、そうなっていた。
そこは、ユティアが覚えていない、ユティアの故郷。
「ええ、そのつもりです」
シオンは優しげな面差しのまま、だが揺るぎない口調で断言した。
「すでにリトルセ殿とカリス殿にはお話してあります」
「……うん、わかった」
抑揚ない口調とともに、ユティアは頷いた。
「ジュリアス殿が今夜、夕食に招いてくださるそうですけれど、ユティアは普段通りに、ただ美味しいものを食べれるのだと楽しみにしていてくださいね」
ユティアが彼を苦手としているのはシオンも知っているから、冗談のようにそう言ってくれた。クラウド家の本邸にまだ招かれたことはないが、サイロン家より大きいのだろうということは想像できる。コスティ大河のほとりにあった別邸ですらあの規模だ。
シオンの決定に口出しするつもりはない。ふいに湧き上がってきた未知の感情のために、そんな我が侭は言えない。ユティアのために行動してくれていることなのだから。
知らず唇をかみしめてうつむいた彼女の頬に、滑らかな指がそっと触れる。
ゆっくりと顔を上げた。
「すみません。急な話で寂しい思いをさせてしまいましたね」
「―――さみ、しい?」
そうなんだろうか。この気持ちは。
この感情の名前がわからないまま、またうつむいてしまう。
リトルセと別れるのはたしかに寂しいと思う。けれど、母のときのように、そして今まで見てきた子供たちのように、永遠の別れとは違うのだから、またいつか会える日もあるだろう。
ここ数日は大変なこともあったけれど、ユティアはこれほど穏やかに毎日を過ごしたことは記憶になかった。母といたときですら生活が苦しかったし、貧民街では寒さや飢えが常に付きまとい、奴隷にされてからは殴られてばかりだった。
(いまのわたしのまわりは、優しいものばかりだから……)
それが変わってしまうのが……。
(―――こ、わ、い)
ここはユティアが見る限り平和だったから。
けれどその平和すら、きっとカディールとシオンが硝子を扱うようにそっと丁寧に、守ってきてくれたのだろう。だからユティアは、リトルセとともにお姫様のようにいられたのだ。
(でもここは、わたしの居場所じゃない)
居心地はいいけれど、落ち着けない。ここでは生きていけない。ユティアはそれをどこかで悟っている。
だから、シオンが気遣わしげにこちらを向いているのに気づいて、もう一度顔を上げた。
「たくさん我慢させてしまうことになってしまいますし、エリシャ領はここ以上に危険かもしれません」
それでもユティアは、二人についていくともう決めた。
どのみち母がいなくなってから、ユティアの居場所は世界のどこにもなかった。だが今は、カディールとシオンがいる。
彼らが作ってくれた、ユティアの生きる場所。
(大丈夫。わたしは二人がいればどこにいてもきっと……)
守られている、安心できる―――そんな思いを抱くことはなかったから、ユティアは戸惑いを隠せないけれど。
シオンの翠の双眸を真っ直ぐに見つめ返して、ユティアは頷いた。
「わたしは見てみたい。自分の国だというところを……」
これは嘘ではないはずなのに、胸の奥底のユティアにも届かないところが少しだけ痛んだ。