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どこからどこまでが、夢だったのだろう。
醒めるのが、怖い。
(だって、すべてが夢だったら)
もう向き合えなくなってしまうから。
でも、いつまでもまどろみの中にいられたら、本当に幸せなのだろうか。
(そんなもの、どこにもない)
だから何も望まずに、平凡に生きていけばよかった。
けれどリトルセは、エンディーンを、手に入れてしまった。
願いを叶える、神様のようなひと。
その大きな手が、ふと額に乗せられるのを感じた。
(あたたかい)
この心に残る、氷に固められた不安を溶かしていく、木漏れ日のように。
春の陽射し。
(……ねえ、エンディーン)
この名前の由来を、彼は知っているのだろうか。
エヴァン王国の、神話に出てくる勇者の名前。あのころ読んだばかりの本で、その話が一番好きだった。
(牢に閉じ込められた春の女神を、『エンディーン』は救ってくれるのよ)
春の女神が魔王に捕らえられ、花の咲かない世界になったとき。
それを救って、再び色とりどりの蕾が開く。
女神の世界を平和に導く勇者。
「……知っていますよ」
声に出していたのか、耳元でそんな返答があった。
リトルセがゆっくりと双眸を開くと、すぐ近くに望みどおりの表情を見る。こんなところまで、彼は完璧だった。
そう、リトルセに対して、完璧すぎた。
まるで望みを具現化したような存在で。
(『エンディーン』は物語のひとじゃないのに)
現実なのに、神話のような態度を求めて、彼もそれに応じた。
「何でも、わかってしまうのね」
だったらこの、最後の望みもわかってくれるだろう。口にはもう、出したくない。
奇蹟の中で、彼が生きていてくれることだけ。
今までの感謝とともに、祈っていこう。
「だったらもう―――」
「本当はもっと、言いたいことがあるでしょう」
「………………」
言葉を遮られて、何も言えなくなった。
悟られている。だから、何もないという嘘はつけなかった。
「―――言えない」
吐息に消えてしまいそうな囁きでしか、拒絶できなかった。
リトルセはエンディーンから瞳を逸らした。身体を傾けて、エンディーンに背中を向けた。その瞳を見ていたら、いつかきっと本音が漏れてしまうから。
「言ってください」
「だめっ。だって、こんなことを言ったら、エンディーン、また叶えてくれようとするもの」
自分を犠牲にして、すべてを投げ打って、リトルセのためだけに。
そうなることを望んでいるのに、そうなることが怖い。
エンディーンの手がそっと、頬に触れた。
昏睡していたときがまるで夢だったかのように、彼の体温は暖かくて、柔らかくて、優しい。むしろそのあと寝込んでしまったリトルセのほうが、今はずっと体調が悪かった。
けれど一時は本当に死にかけていたことを思い出し、リトルセは顔を向ける。
いつもより痩せた、彼の姿。よく見れば、顔色もまだそれほどよくない。寝台に腰掛けてはいるが、まだ本当は横になっていなくてはならない身だ。
その決断をさせてしまったのも自分だった。何から何まで、至らないことばかりだった。
まだ残る微熱で感情を隠す余裕もなく、あからさまに不安の表情を浮かべてしまったことに気づいたときは、もう遅かった。
長い間、ずっと堪えることができていたものが。
ゆっくりとその頬に流れる。
それに気づいて、リトルセはまた瞳をそらした。
「ご……ごめん、なさい……約束」
「先に破ったのは私です」
長い間ここにい続けて乾いた彼の指先を、そっと潤す涙。
「無断で、鍵を使いました」
「……そんなの、かまわない。私が、過去を縛っていたかっただけ、だから」
むしろなんの文句も言わずに理不尽なそれを享受していたことが、リトルセにはつらかった。
「では、今までの約束はもう、無効ですか?」
静かなその言葉は、リトルセには冷たく聞こえた。
けれど、逃げずに一つ頷いた。
これでエンディーンは自由になれる。
「笑顔でいる間だけ、そばにいてねって言ったのだもの。もう、好きなところに、行っても、いいのよ」
しっかりと、エンディーンの瞳を見て。
「本当はもっと、言いたいことがあるでしょう」
けれど彼は、同じ科白を繰り返した。
「好きなところに行っていいというのなら、私は私の意志でここにいます。ここを、私の唯一の居場所にしてくださいますか?」
優しい手が、頬に触れ、髪の毛に触れた。
その甘美のせいで、何を言われたのか理解できなくなるほど。
「ダメよ。私のそばにいたら、エンディーンは幸せじゃないはずだわ」
「もしそうだというのなら、私を幸せにする言葉をください」
どこまでも彼は、リトルセから望むままの一言を口に出させようとする。その頑なな愛情が、リトルセの想いを溢れさせる。
「本当は……」
言ってもいいのだろうか。
躊躇いつつ、口を開いた。ここまできたら、止められなかった。
その指に誘われるように。
言葉が自然と紡がれていく。
「欲しいのは、全部」
エンディーンそのもの。
「命だけじゃなくて、笑顔だけでもなくて、その全部。人生すべて。私が、欲しいのは」
我が侭なだけの子供じみた欲求。
こんなの叶えてもらうわけにはいかない。
リトルセの覚悟だけでは足りない。
英雄エンディーンにだって、できないことはある。
「わかりました」
だのに、エンディーンはあっさりと答えた。口元にわずかな微笑をたたえて。
「我が姫君。私は貴女のものです。いままでも、これからも」
その言葉に、リトルセは思わず彼の首に小さな両腕を回していた。
我が侭ばかりを言っていたのに、今でもこうして、飽きもせずここにいる青年は、その身体を優しく受け止めた。
けれど、リトルセは彼のものにはなれない―――。
二人はお互いの体温を確かめ合いながらも、そのことを知っていた。