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たとえば、細い枝からひっそりと落ちていく花の一片だとか。
風で揺れる水面に映る山並みが消える瞬間だとか。
そんな夢だ。
不確定で曖昧で、けれどどこまでも美しいとしか形容できない非現実。
けれど、ユティアは願う。どうか悪夢を見させてください、と。
現実のほうがほんの少しでも幸せなら、目が覚めたときほっとする。良すぎる夢を見てしまったら、もうそこからきっと抜け出せない。
* * *
「……やっぱり来たな。かなりの数だ」
「さすが、早いね」
寝静まった夜にそんな声が近くで聞こえて、ユティアははっと目が覚めた。いろいろ考えすぎて寝つきが悪かったせいもあるが、どこにいても深い眠りにつくことのできない生活に慣れすぎていて、ちょっとした物音でもすぐに気づくようになっていた。
だが、いつもの固い地面でなく、何枚もの布を重ねた寝台のおかげで、前のように身体が痛くなかった。花の蜜のような香りも部屋に広がっていて、ほとんど眠っていないのに疲れはないことにも驚いた。
暗闇の中、ぼんやりと窓際に立つカディールとシオンの背中が、月明かりで浮かび上がっている。
「一日くらい、ゆっくり寝かせてさしあげたかったけれど」
「しょうがねえな。ここにいるのはもうばれてるんだろ」
カディールがユティアのほうに近づいてくるのがわかって、ユティアは反射的に飛び起きた。もらったばかりの腕輪がくるりと半回転した。まだ、誰かがそばにいることに安心できずに警戒心ばかりが先に立ってしまうのだ。
「……おっと、起きてたのか。ならさっさと行くぞ」
「え?」
「聞いてたんだろ。あんたの追っ手が来てんだよ」
カディールに乱暴に手をひかれて、ユティアは立ち上がった。まだ足に少し違和感はあるものの、神殿にいた神使いたちの治癒という力によって、痛みは不思議なほど消えていた。
すでにカディールはすべての荷物を手に持っていて、窓枠を簡単に飛び越えると、ユティアの腰をつかんで抱きかかえ、外に出した。
部屋の中ではシオンがすくっと立っていた。右手をかざすと、中指の指輪が長い杖に変化した。
それに驚いている間もなく、風に揺れる布の帷の向こうで、何人もの男たちが抜き身の剣を構えてシオンを取り囲んでいくのが見えた。ユティアには彼らが見えているのに、彼らにはこちらが見えていないようだった。
「ちっ」
カディールの舌打ちを聞いて、ユティアは視線を部屋の中から外に戻す。いくつかの影がこちらに向かってきているのを見つけて、カディールが左手で背中の剣を抜いたところだった。男たちは、剣や弓を持っていた。
「離れるなよ!」
声が出なくて、ユティアはただ何度も頷く。
彼は左手で剣を持ち、右でユティアをかばいながら、彼らを次々となぎ倒していく。
血の、匂いと、痛みによる叫び声が。
すぐ近くにあった。
(……ひとが、しんでいく)
この恐怖だけは、何回体験しても慣れることはなかった。
貧民街での二年間と、屋敷で奴隷にされた三年間、周りではよくひとが死んでいた。
馬に轢かれたり、どうでもいいことで争い殺しあったり、飢餓だったり、した。
目を逸らして見ないようにしていても、金属の打ち合う音や弓が風を切る音が聞こえる。
(―――耳も、閉じてしまいたい)
カディールによって、十人近い男たちすべてが地面に臥せって動かなくなって、剣を収める音だけが響いた。
「終わったぞ」
それを聞いても安堵することはできなかった。
カディールはそれを気遣う余裕もなくユティアの腰をつかんで、今度は馬の背に乗せた。カディールもすぐにその後ろに飛び乗って走り出した。
彼の腕に支えられ、馬の背にあっても安定しているが、暗闇の中では何も見えなかった。
「シ、シオン、さんは……」
「あいつは敵を眠らせて、あの部屋に閉じ込めるんだと。たしかに予想以上の大人数だからな、全員をいちいち相手にしてられねーし。準備してたから問題ないはずだ」
呆れたような口調。
(眠らせて、閉じ込める?)
そんなことができるのは魔道使いだ。貧民街にも、そういう力を持った子供たちがいた。彼らはその力でほかの子供たちよりもうまく生きていたと思う。
「本当ならシオンのほうがあんたの守りには向いてるんだけどな」
カディールはぽつりとユティアのわからないことを呟いた。聞き返したかったけれど、暗い夜にかなりの速さで走る馬に振り落とされそうで、もう何も言えなかった。
カディールは強いくらいの力を右手にこめてユティアを抱きしめ、左手のみで器用に手綱を操っていた。
ユティアも無意識のうちにカディールの腕を強く握る。
どんなに慣れたと思っても、夜の暗闇は恐ろしい。
寒くないのに身体が震えてしまう。
人売りとは違って、彼らは本気でユティアを殺そうとしているということも思い出したくない。
(空想の中の、おにいさまのともだち……)
蒼い瞳。乱暴だったけれど、優しかった。いつも兄と笑っていた。そんな世界がまさか現実だったなんて、思いもよらなかった。
(クレイ……カディ……)
言われてみればそんな名前だった気がする。
(じゃああの空想は全部、ほんとうだったの? 『おにいさま』がいて、大きなお屋敷に住んでいたの? 母さま……)
何も教えてくれなかった。
けれど、母もこの空想の話を楽しそうにしてくれた。それは、空想ではなく、記憶の中の風景だったのだろうか。
ユティアは少し怖くなって、カディールから離れるように身じろぎした。けれど、カディールは変わらず強い力でユティアを支えている。痛くはなかった。むしろ心強さを覚えてしまうほどだった。
ユティアの手首には少し大きすぎる腕輪が、馬にあわせて上下に動いていた。カディールに兄のものだからと渡された。魔道力の込められたものだからきっと守ってくれるとシオンに言われた。
たしかに母に教えられた空想の中の兄は、この綺麗な腕輪をしていた。これを見たら思い出した。
(現実にいた、おにいさま……)
馬は小さな町を離れて、小川を越えたところで止まった。その先は木が覆い茂る丘になっていた。
カディールは自分が降りたあと、ユティアを降ろしてくれた。
「こちらです、カディール、リディアーナ様」
ぼんやりと空を見上げていたユティアに、木々しかなかったところから、突然シオンの声が聞こえた。けれど、カディールは驚かなかった。むしろシオンの声に振り向いたユティアのほうに目を向けていたのだが、ユティアはそれには気づかなかった。
「行くぞ」
カディールは右手でユティアの手を、左手で馬の手綱をひいて、丘を少し登っていった。
木の陰にシオンの姿がすぐに見えた。
彼を置いて馬を走らせたはずなのにという疑問は、魔道使いなのだからということで納得することにした。ユティアには想像できないような力がきっと、あるのだろう。
カディールとユティアがシオンの背のほうに立ったあと、シオンは持っていた長い杖を地面にトンとつけた。ユティアよりも背の高い先端に、いくつもの銀色の宝玉が光っていた。
「闇に同化せよ」
地面に強く差し込んだわけでもないのに、その杖はシオンが手を離しても倒れなかった。不思議そうにその様子を見つめるユティアの視線に気づいたシオンが、振り返って笑顔を返した。
「もう大丈夫ですよ」
その言葉は、不思議と安らいだ気分にさせた。
ほっと気が抜けると、押し殺していた恐怖と、身体の震えが止まらなくあふれ出す。
「……ほ、ほんとに?」
膝から力が抜けて倒れそうなところを、カディールが支えた。ゆっくりと地面に腰を下ろした。
「ユティア」
「こ、こんなことがずっと……続いてくの? わたし、ずっと、狙われるの?」
殴られる恐怖よりもずっと、いまのほうが恐ろしい。
「そのために俺たちが来たんだろーが」
「ほんとうにわたしが……そ、その……おひめさま、なの? なにかの間違い、とかじゃなくて……」
空想が現実だったなんて、それこそ夢に見たことだ。
いっそ目が覚めずに、あの煌めくような夢の中で生きていきたいとさえ思ったほど。
「俺はあんただから来たんだ」
カディールの強い右腕が、ユティアの頭を軽く包み込む。
言葉はそっけなかったが、体温は暖かかった。
それでも不安だった。
「でも、いつまで? こうして、逃げたり、戦ったり……」
ひとがしんでいったり、する。
「俺にもわかんねーよ。でも俺がいる限り、絶対守ってやる。殺させねえ」
「根拠のない自信に聞こえますけれど、でも私も貴女にそう誓いたいと思っています」
「―――でもっ」
顔を上げた。
暗闇だったが、目が慣れたのかカディールの顔がよく見えた。
「―――あ」
ユティアの瞳に映ったのは、頬の傷だった。深くはないようですでに血は固まっていたが、よく見ると左右の腕にも多くの切り傷があった。
「ああ、気にすんな。別にたいしたことじゃ―――」
「でででもっ、カディール、さんの、傷、こんなにたくさんで」
見ているだけでも、痛い。
(わたしを捨てて、逃げればいいのに)
そうしたら、彼は傷つかなかった。
誰もが自分を守ることだけで精一杯だった世界しか、ユティアは知らない。自分が怪我してまで助けてくれることが現実とは思えなかった。
「カディールは体力だけがとりえですから、姫君が気になさることはないんですよ」
「誰が体力だけだ!」
傷などないかのように、カディールは腕を自由に動かしていた。
ぽかんと二人を見上げていると、カディールがユティアの頭を軽くたたいた。
「あんたさ、こんな傷くらいでびびってたらどうすんだよ、この先。俺けっこう怪我多いし」
「それは自慢することではないでしょう。……リディアーナ様、たしかにカディールは考えなしに動くところがあって怪我ばかりですが、そうとう丈夫ですししぶといですし諦めも悪いですし」
「それは褒めてんのか?」
二人の会話があまり緊張感なく穏やかだったので、ユティアも少し息をついた。深刻なことはなさそうだった。
「カディールの役目は貴女を守ることですから、遠慮なく楯にしていいのですよ」
「……なんかお前に言われると違う気がするぞ」
二人は言い争いながらも楽しそうだった。シオンの穏やかな様子は、理想の兄に少し似ているかもしれない。
「―――じゃあ、シオンさんは」
カディールは空想の中にいるけれど、どれだけ思い出そうとしてもシオンの姿はない。
「ああ、彼がエリシャでクレイ様の護衛騎士になる前からの、いわゆる幼馴染です。クレイ様と面識はありませんから、姫君はご存知ないと思いますが」
二人の雰囲気はまるで違うが、だからこそ息も合っているのかもしれない。
「……ていうかさー」
カディールがユティアのほうに視線を戻して覗き込む。
「え?」
「カディールさんはやめろ、カディールさんは! 虫唾が走る!」
「君は姫君に失礼すぎるよ」
本気で言っているわけではないのだろう、シオンが笑っていた。
「……じゃあ?」
「カディでいいから。前もそう呼んでた」
「―――う、うん」
反論しても怒られるような気がして、ユティアは勢いで頷いていた。
(……前、も)
そんな時が本当にあったのだろうか。
「夜のうちはここにひとまず身を隠せます。まだ日の出まで時間がありますから、リディアーナ様はお休みください。いろいろあってお疲れでしょう」
「―――あ、あの。シオン、さ、ん」
「シオンでけっこうですよ」
「……わたしも、できれば……ユティアのまま、が、いい」
二人がそうなら、自分もまた、もとのままの名前がいい。
敬称をつけられて、長い名前で呼ばれても、姫であると信じられるわけではない。そんな扱いに慣れていないから、どうしていいのかわからなかった。
「―――わかりました。ユティア」
その返事にほっとする。虚像はだって、似合わないから。