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はっと目を開けたらそこは、現実だった。
(やっぱり、夢……)
それは、母が作ってくれたおとぎの世界。
大きな屋敷に住む、お姫様の物語。それを自分と重ねて空想するのが、あのころは楽しかった。
実際には母とあばら家に住んで、藁で籠を編んで売る生活だったけれど。
お姫様には、穏やかで妹思いの兄と、乱暴だけど優しい友達がいる。
庭には池があって三人で魚を捕って遊び、少し遠くに出かけて使用人に怒られ、同じ寝台で昼寝をして同じ夢を見た。
空想の中ではどんなことも楽しかった。
(……でも久しぶりだなぁ、これを思い出すの)
母がいなくなって五年。二年は路上で生活し、そのあとの三年は奴隷扱い。いつのまにか、こんな空想の世界は忘れていた。なぜ今頃になって思い出したのだろう。
「お目覚めになりましたか」
誰かがいるとは思わず、ユティアはびくりと肩を震わせた。
窓から西日が差し込んでいて、少し薄暗い。何故こんな時間に自分が寝てしまっていたのかわからなかった。
(……お、怒られる、また―――)
あわてて起き上がったら、いつもと何かが違うことにようやく気づいた。
「え? な、なんで」
ユティアはやわらかい寝台に寝かされていた。いつもなら硬い床で眠り、翌日は疲れが取れないどころか、身体中の痛みを抱えていなければならなかったのに。
(そ、そんなことより……仕事)
夕方だというのに寝ていたと広まれば、またどんなことをされるかわからない。
「まだ起き上がらないで。足、痛いでしょう」
その優しい声がまさか自分にかけられてるとは思わなかったユティアは、この部屋にほかにも誰かがいるのだろうと思いながら、よろよろと立ち上がった。
「……っつ」
痛くても声を上げないことに、慣れていた。
そういえば足を怪我した。でもいつ。すぐには思い出せない。
とにかくあわてていて、ユティアは服の裾を踏んでしまった。バランスを崩して前に倒れるしかなくなった身体を、誰かの手が支えた。
(―――あっ)
反射的に身を引いた。
(ぶたれる……っ)
その場に両膝をついて頭を低くする。これももう、条件反射。
けれど、その震える肩に注がれたのは、鞭の嵐や罵声ではなく、優しく触れる手のひらだった。
「すみません。何のご説明もしていなくて。顔を上げてください」
すぐ近くで聞こえる穏やかな声が、自分に向けられているのだとようやく思ったユティアはおそるおそる顔をあげた。
(まだ、空想の夢……続いてたのかな)
だが、ユティアの目の前にある顔は空想の粋を超えた、まるで女神だった。長い睫毛の奥の優美な翠の瞳は、自分よりもよほど女性らしい光を放っていた。ゆったりとした長衣と長くまっすぐ伸びる銀色の髪の毛が、風を受けて柔らかに揺れた。
こんな綺麗な顔を想像すらしたことはなくて、ぽかんと見上げてしまう。すべての造形が完璧に整えられた芸術作品のような容姿なのだから。
けれど、なぜだろう、空想の女神であるはずなのに、その声音はあきらかに男性のもので不思議だった。
よく見ると、自分の着ている服もおかしい。いつものぼろ布ではなく、露出がほとんどない長いスカートの、女性の服だった。裾を踏めるほど長い服なんて、いままで一度も着せてもらったこともないのに。
「……夢の中なのに、こんなのって。……それともわたし、生きてないの?」
視界は少し暗いものの、まわりも変にはっきりとしていることにも気づいた。
どれが夢でどれが現実なのか……。
わからなくなる―――。
「ここは現実ですよ。ちゃんと生きてます」
「で、でも」
「シオン、買ってきたぞーっ」
こんな現実があるはずないと言いかけたとき、女神の青年のうしろにもう一人の男が現れた。
「ああ、ありがとう」
女神は何かを受け取り、それをユティアに手渡す。
「秋だから、いろいろな種類があってよかった。どれが好きですか?」
大きな籠。
その中にはすぐに食べられる果物がどっさりと入っていた。中には見たこともないものもある。
「……っ?」
食べていいのかと尋ねる余裕もなく、差し出されたそれを見て急に喉の渇きを思い出し、ユティアはむさぼるようにその籠にあった果物のひとつを食べてしまった。
が、二つ目に手を伸ばそうとしてから、はっと気づいて顔を上げる。手に持っていた食べかけのそれを、落としたことにも気づかずに。
(な、殴られる……また)
知らずに身を硬くする。謝罪の言葉などここでは意味がなかった。―――ただ、耐えるしかないのだ。
震える身を縮こませ、ユティアはそう覚悟して俯いた。
だが、いつまで待っても彼らは殴るどころか怒鳴ることもなかった。
「貴女の分ですよ。でもあとでちゃんとした食事もしましょう」
「―――え?」
女神は、慈愛の微笑を返した。これもまた、初めてのことだった。
(殴られ、なかった……?)
以前、もう捨てるしかない余りものの果物を勝手に食べただけで、散々殴られたあげくに三日は食事をもらえなかったことがある。
やっぱり夢かもしれないと、ユティアはまた混乱する。けれど、夢だというのに、空腹だった。
「おい、ぼけっとしてるけど大丈夫か? まだ寝ぼけてるだけか?」
女神の後ろにいた男が、ユティアに声をかけた。
「寝ぼけ、て、る?」
夢の中だというのに、奇妙な質問だ。
「どうやらまだ、夢うつつのようで」
男がユティアに近づいてきて、じっと顔を近づけてきた。
彼の双眸は、今までユティアが見たどんなものよりも美しい青の色をしていたけれど、その物言いはかなり乱暴だった。
「やっぱり、現実じゃない……」
こんな綺麗なものは、この世界に存在しない。
「は? なんでそうなるっ」
あきれたように男がつぶやく。
「ちゃんとご説明さしあげなかった私たちも悪いんだよ、カディール」
「じゃあお前がしろ、シオン」
青年は窓のほうに寄りかかり、外をちらりと眺めながらもこちらを一瞥する。銀髪の女神が、そっとユティアを抱き上げて、寝台に座らせてくれた。
「ここは神殿といいます。私たちのような旅人が休憩する場所を、安く提供してくれるんですよ」
天神クリスナードに祈りを捧げる場所。
それが神殿だ。たいていどの国どの町にもあるらしいというのは、ユティアも知っていた。
神使いと呼ばれる人々が働いていて、天神と万物に感謝しながら質素な生活をしているのだという。どの国にも属さない代わりに、どの国の内政にも干渉しない。
「だから、とりあえずここにいれば少し安全です。ほんの一時ですが」
安全。
殴られたりしないという意味だろうか。
「私の名前は、シオンといいます。あちらの粗雑な男はカディール」
「粗雑はよけいだ、粗雑は!」
カディールと呼ばれた青年が、たしかに粗雑な物言いで反論した。
透き通った紺碧の瞳の彼は、大きな剣を背中に背負った、いかにも剣使いという簡素ないでたちで、長い赤茶色の髪の毛を後ろで束ねている。ぶっきらぼうだが、恐ろしいという印象はなかった。
「私たちはずっと、貴女を探していました。奴隷商人に連れ去られたと聞いて、その場所を探していたところ、運良く貴女を見つけたんですよ」
シオンはカディールを無視して話を続けた。カディールは会話に入る気がないのか、気にする様子もなく相変わらず窓の外を眺めていた。
「ここは、エヴァン王国のラタの町といいます。知っていますか」
ラタの町、これは知っている。けれど国の名前まで聞いたこともなかったから、曖昧にうなずいた。
「貴女はお母様と、七年前にこの町に来たのですよね」
「……どうして、それ、を」
あのころのことは、ほとんど覚えていない。
もう、母の名前もわからない。
五年前に死んでしまった。そのときの状況はもう、覚えていなかった。けれど、母がいなくなって、あばら家を見知らぬ人々に追い出されて、一人になった。
「十二年前。貴女がまだ三歳だったとき、カストゥール王国が、貴女とお母様の住んでいた国であるエリシャ王国と戦を始めました」
ぽかんとただ、シオンを見つめ返しただけだった。実感がない……というよりも、なぜそんな話をユティアにするのかわからなかった。
(戦……)
母が、戦はよくないことなのだと言っていたことを、突然思い出した。そのときも実感がなく、幼いユティアは何のことか分からずに何度も聞き返して、そのたびに母は嫌な顔もしないで答えてくれていた。
今まで、生きていくことに必死で、母の言葉を思い出す余裕はなかった。ただ、母の顔だけはいつも、寝る前に思い出すようにしていた。
忘れないように、刻みなおすために。
「貴女とお母様は今から七年前にエリシャ王国を出て、かつて同盟国であったこのエヴァン王国に逃げ込みました。知り合いの方に後見していただく話だったのが、カストゥール王国を恐れて、反故にされてしまったのだと、最近やっと聞いたのですが……」
どうしてこんなに自分たちのことに詳しいのだろうか。それともすべて、何かの目的のためについている嘘なのだろうか。
シオンは寝台に座るユティアの隣に膝をついたまま、なお話を続けた。
「十年近く続いた戦は、もう終わりました。エリシャは負けたのです。……けれど、王妹殿下が生きていることをカストゥール王国は知っています。先ほどの男もその刺客」
「さきほど、の?」
「覚えていませんか? 遊里で……」
遊里という言葉をきいたとたん、ユティアの脳裏には鮮明にその映像がよみがえってきた。
「―――あ」
呼吸を忘れる。身体が震える。
あのときの恐怖。
全身を抑えられ、身動きも取れなくて。
息が苦しくなったとき、急に楽になったことだけは覚えている。
(たす、けて、くれた……の?)
この二人が。
そんなはずはないと思い直す。だって誰も、他人を助けたりしない。
「すみません、思い出させてしまって。……大丈夫です。ここならもう安全ですよ」
シオンはもう一度、同じ言葉を紡いだ。ユティアの震える指に、そっと自分の指を絡めて開かせた。
いつのまにか爪が食い込みそうなほど、手を握り締めていた。
優しすぎる、刻。
その体温。
ここは、夢ではなく現実なのだと、ユティアはやっと実感した。
この女神に、触れることができる……。
「そ、それで……わたし、なにを……すればいいの?」
「え?」
彼は心底驚いたように聞き返した。
無償の愛を、ユティアは知らない。
(見返りが、必要だ)
奴隷という待遇でしか、対価を返せない。安い宝石や小麦や果物なんかと交換されてしまうかもしれない。
それが自分の知る限りの、自分の価値だった。
「わたし、は……あまり役に、立たないけど……」
「何言ってんだ?」
大きな窓のそばに立っていた赤毛の青年が、機嫌を損ねたような声を出した。それを制した銀髪の青年が、ゆっくりと口を開いた。
「私たちは貴女様をお守りするためにずっと探していたのですよ」
何か急に、話が飛躍したような気がした。不思議そうに首をかしげる。
「よく、わからないけど……」
「だからお前の言い方はわかりにくいってんだよ、シオン」
カディールが窓際からようやく離れて、ユティアの隣に腰を下ろした。その勢いで寝台が沈み、ユティアの軽い身体が揺れる。
「あのな、ユティア」
紺碧の双眸がまっすぐにユティアを見てきた。
「あんたがその、生き残りの王妹殿下なんだぞ。それわかってるのか? 正式な名前は、リディアーナ=ユティア=エリシャ。俺はあんたの兄に頼まれて探してたんだ」
「……―――?」
何度か、まばたきした。
声が、出なかった。
返す言葉も、浮かばなかった。
二人の顔を交互に見つめ返すだけだった。
「こう見えても彼、王直属の最年少の護衛騎士だったそうですよ」
シオンはユティアを、姫君と呼んだ。
(……それって空想の中だけじゃ―――)
こんな冗談を今まで聞いたことはなかった。




