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 あっとユティアが思ったときは遅かった。

 その両手に乗るはずだった高そうな絵柄の陶磁器の皿は、一瞬のうちに足元へ落下した。

 派手な音。

「……っつ」

 素足に破片が刺さっても、悲鳴を上げることはできない。

 広い食卓では、そんな様子を誰も何もなかったことのように、食事が続いていた。奇妙に豪華で、わざとらしいほどに異なる時間が流れる。

 取りにくいように皿を渡してきた主人は、こちらを振り返ることもなく客人たちと大声で品なく笑っていた。

 ユティアは残飯とわずかな血にまみれた破片を拾おうとかがんだとき、ようやく男が顔をこちらに向けてきた。

「すみません、教養のない子で。昨日買ったばかりなんですよ」

「いえいえ、まだお若いようですけれど、おいくつで」

「十五ですよ」

「あぁ、なるほど」

 客人たちが、気味悪いほど優しい瞳を一斉に向けてきた。ユティアはいそいで破片を集めて立ち上がる。破片で傷ついた足がずきずきと痛んだ。

(……だからわざと、怪我させたんだ)

 今日、このあと逃げさせないために。

「じゃあまたあとで」

 主人の一番そばにいた男が、ねっとりと絡みつくような視線でユティアを見上げた。それだけでせっかく集めた破片を取り落としそうになったが、なんとかこらえて逃げるように帷をくぐる。

「なにやってるんだいっ」

 廊下の角を曲がったとたん、問答無用で長身の女の容赦ない平手が飛んだ。傷だらけの足で立っていられずに、ユティアは床に倒れこんで、手に持っていた皿の破片が再び飛び散った。

「ったく、三年も騙してくれたかと思ったら、やっぱり迷惑ばっかりだねこの子は」

「―――……」

 卑しいものに対する視線で一瞥され、露出の高いひらひらとした服を大げさに翻しながら、女はユティアの腕をつかんで無理やり立たせた。

「……痛―――」

 女の握力が強かったわけではない。

 服に隠れて見えないが、そこにはぶたれて出来た無数の傷が、完治せずに残っていた。

「誰かっ? ここを片付けときな」

 甲高いその一声で、ユティアよりも幼い少年がどこからともなく現れて、散らかったものを片付け始めた。その様子を見向きもしないで、女はユティアを引きずるようにして歩いた。

 何度も転びそうになり、そのたびに女の罵声が飛んだ。

 廊下のつきあたりの部屋に連れてこられ、ユティアの背中を押して部屋に入れる。その空間の大半を占める大きな寝台に倒れこんだ。

「いいかい? そこで待っておくんだよ」

「―――え」

 女は部屋を出て行った。

「……ま、待っ」

 その部屋には珍しく布製の帷ではなく、分厚い木の扉がついていた。

 女はユティアを振り返ることなく部屋を出た。外から扉に錠が下ろされる音がした。

(逃げ、なくちゃ……)

 奴隷の少年が実は少女だとわかったとたん、この遊里に売り飛ばされた。この部屋にいればどうなるかなんて、少し考えればわかることだ。もう娼婦の意味もわからないほど幼子ではなかった。

 だが、体力を失っているユティアが少々押したくらいでは、その扉は当然びくともしない。格子の窓に錠はないが、ここは二階だ。飛び越えても地面はないし、たとえあったとしても、庭にも多くの男たちが警備という監視のもとにうろついているのを知っている。

 ユティアは扉に寄りかかるようにして額をつけた。

 立っているだけで、先ほどの傷が痛んで血がにじんできた。

 何故こんな目に……何度も考えてきた言葉が再びよぎると、涙まで止まらなくなる。

「……おね、がい」

 もう、かすれた声しか出てこない。

 扉を必死で叩いたが、外に聞こえるほどの音を出すことすらできなかった。

(誰か)

(―――あけ、て)

 縋るように、扉に体重を預けるようにして両手を置いた。

 体力も失っていて、空腹も手伝って、気が遠くなりそうになる。

 そっと双眸を閉じかけた、そのときだった。

 視界のすみで、なにかが淡い光を放ったような気がして、はっと目を見開いた。

(……扉、が)

 どこからの発光かわからないが、ただ輝いていた。

 小さな命の、灯火のように。

 少しだけ扉から離れると、かたりと小さな音が扉の外で聞こえた。

 不思議に思って押してみると、何の抵抗もなく扉は開いた。かけられたはずの錠が床に落ちている。

(―――誰、かいる、の?)

 おそるおそる扉の外をのぞいてみるが、そこに人影はない。まさか風などで金属の錠が落ちるはずもないだろう。

(……また、だ)

 ユティアのまわりでは、ときおりこんなことが起こっていた。

 寒くて凍えそうだった夜、突然近くにあった椅子が燃え出して怒られたし、のどが渇いて外で倒れたら突然雨が降ってきてびしょぬれになってやっぱり怒られた。

(―――今回は錠が壊れた、のかな。でも何で?)

 だが、その疑問はすぐに封印した。逃げるならこれほどの好機はない。

 ユティアはもう一度、頭だけを廊下に出して見回してみる。

「何をしているっ!」

 廊下の奥の角から、男の罵声が飛んだ。はっとユティアが身を縮めたときには、男はユティアに近づいて腕をつかんでいた。足元に落ちていた錠を一瞥する。

「お前が開けたのか?」

「―――ち、違……」

 先ほどの食事の席にいた三十代の男だった。下品な笑いばかりを浮かべる商人風の男たちばかりの中に、彼だけが剣を帯びて旅人のようなすっきりとした格好をしていたから、ユティアも覚えていた。

「ふん、何も知らなくても血筋は本物ということか」

 男はユティアを寝台に突き飛ばした。

(なに? ちすじ、って……)

 だがそんなことを尋ねることはできなかった。

 男が腰の剣をあっさりと抜いたのだ。

 鞘を離れたその切っ先は……ユティアのほうを、向いていた。

 何が起こっているのか、これから何が起こるのか、ユティアにはまるでわからなかった。この状況……何かがおかしい。剣。鋭利な、金属。首筋に近づいてくる。

「悪いね。あんたの命で大金が手に入る。仲間と組んでちゃ分け前も減るしな」

「―――え」

「それほど価値があるようには見えねえけど」

 はっとユティアはやっと気づいた。

 この男は、自分を殺そうとしているのだと。

 善意なんて、ユティアのまわりにはどこにもない。

 その切っ先が目の前にあって、ユティアは逃げることもできなかった。ただ、その剣と男を交互に見ることしか。

「でもまあ、その前に」

 男はあっさりと切っ先を床に落とす。

 太い指が、ユティアのあごをつかんで上を向かせた。

「少しくらい遊んでも悪くないな。ここはそういう場所だろ」

「……っや―――」

 剣を苦もなく扱う男の力は強くて、ユティアは顔を背けることもできなかった。

 乱暴に寝台に倒されて、その上に男がのしかかってくる。

 肩を抑えられて身動きすらできない。簡単に服を破かれてしまう。もともと着まわしたぼろ布のような服だった。

 恐怖で、声までも固まったように何も出てこなかった。

(い、いや……だ……)

 たとえ大声をあげたとしても、誰かに助けてもらえるなんて思っていない。そんな優しいところじゃない。

 だから逃げないと。

 自分で、なんとかしないと。

(―――こ、わい……)

 急に身体が熱くなった。

 内から湧き上がる、なにか。

 熱。

「なんだっ?」

 男が思わず両手を離してあとずさる。

 手が、全身が、光っているように感じた。実際に目で見えたものなのか、わからないけれど。

 自分の身体ではないように思えるほど、奇妙な光景だった。

 息が、できない。

 苦しくて、胸を押さえた。

 少し顔を上げると、男がこちらを見ていた。険しい表情だった。目が合うと、何かを思い出したかのように剣を握りなおし、大げさなくらいに振り上げた。

「ちっ、恨んでくれるなよっ!」

 ユティアの身体は、反射的に縮こまる。何ももう、考えられなかった。生きるとか、自由とか、何も思い浮かばなくて心が空になっていた。

 ただ、苦しい。

 本能だけがそれを訴えていた。

「―――ばぁっか! 恨むに決まってんだろーがっ」

 どこからか、別の声が聞こえた。

 誰かの手に肩を強いくらいに握られたかと思うと、胸元に抱きしめられた。同じタイミングで、耳元にキーンと高く、金属同士が打ち合う音を聞いた。

「頼む!」

 あまり強くない力で突き飛ばされた。後ろに倒れるかと思ったら、冷たい手が肩を支えた。

「はいはい」

 ずいぶんと落ち着いた、静かな声だった。

 高くもなく、低くもなく、どこか遠くから漏れる楽器の音色のようだった。

 近くにあった大きな白い布がすっと視界を舞い、裸に近かったユティアの全身が覆われた。

「大丈夫ですよ。大きく深呼吸して」

 耳元で囁かれる、美声。

 後ろで支えられ、背中をゆっくりとさすってくれた。

 熱いものがそれだけで急速に身体の中に消えていく。自分でもわけがわからない。

 顔を上げると、ユティアを殺そうとした男は、たくさんの血を流して床に倒れていた。もう生きていないのだろうとどこかで思った。

 空腹で死んでいった子供たちはたくさん見てきた。彼らよりもすぐ死ねる分、楽でいいのかもしれない。ぼんやりとした頭で、考えたのはそれだけだった。

「こいつを売ったやつもたたき切ってやるっ!」

「そんなことしても意味がないよ。それより早くこの場を離れたほうがいい」

「わかってるけど!」

 二人の男たちは、同時にユティアのほうを見た。

 剣を持った男の、深い青の双眸が、特に強くまっすぐにユティアを射抜く。

(……夢、かな。それとも、わたし、も、もう死んでしまってるのかな)

 だってこんな、綺麗なものを、この町で見たことがなかった。

 死んだら別の世界に行ってしまうと母が言っていた。ここがその別の世界なのかもしれない、

 だったらここで、母を捜そう。

(ああ、よかった……)

 新しい世界は、きっと美しいものたちで出来ている。

 ほっとしたら全身から力が抜けた。

「おいっ!」

「―――気を失ってしまったみたいだね」

 二人のそんな声を遠くで聞いた。


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