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「今、なんて……?」
かすれた声。
それでも無意識のように、唇が動いていた。
何を言われたのかわからなくて、ただ。
「……私は、降伏すべきだと思うのだ。カディ」
左手に持っていた剣を落としそうになった。ぎりぎりのところで、踏みとどまった。しゅっと一振りしたその金属が、いつもより軽やかにすら感じた。
「クレイ―――なに馬鹿なこと言ってるんだ?」
連日の戦で心が弱くなっているのか、それとも狂い始めているのか、その両方なのか……。
どちらにしろ、カディには正気の言葉ではないように聞こえた。
「―――このように、我がエリシャの大地を穢してまで守るものはあるのか?」
その問いかけに、カディは返す言葉をすぐに見つけられず口を噤んだ。
文字通り最後の砦となっているこの大離宮の屋上からは、東西南北の景色を望むことができる。クレイの灰色の双眸が、壊れかけた街壁の向こうにある遠くの山を見つめた。
美しく紅葉していた山々の景観は、わずか三日で焼け野原に変わった。炎を放たれて、それを消火する余裕も逃げる体力も残っていなかった民たちが、大勢焼死したという。
国力は弱まり、物資は民にまで届かない。
日々悪化していく戦況に、兵も気力を失いつつあるのを感じていた。
「カストゥールは大国だ。……我がエリシャ王国の民を受け入れてくれるのなら、それで民が生き延びられるのなら、私はそのほうがいいと思うのだ」
大地を削る、嵐のような強い風。結わずに流した彼の長い髪が、その表情を隠した。
「生きてさえいれば、いつかきっと、希望や夢をまた、得られるのではないか……? 民が餓えていくのを……苦しんでいるのを、もう見ていられぬ……」
嗚咽を堪えるように、クレイは声を絞り出す。
覚悟がまだ、揺れている。
「でもあんたは王だ」
「わかっている」
「本当にその意味が……っ」
わかっているのかと最後まで言葉を続けられなかった。
カストゥールは、すでにエリシャの王族をすべて処刑した。先王の兄弟とその家族……女子供にいたるまで、王位を継ぐ可能性のある濃い血脈は、すべて排除した。
彼が降伏すると決めたら、たしかに戦は終わるかもしれない。
けれど、そのときクレイは王ではなくなるのだ。
生きてさえいれば―――カディはその言葉がクレイにこそ必要なものなのだと思っている。
「わかっているよ……」
顔を上げた彼の表情が、すべてを受け入れようとしていることを示していた。
「三年前……私は王位を継ぐべきではなかったな」
それが戦争を長引かせた。
彼を担ぎ出した重臣たちも、今ではそれをうすうす感じているのだが、口には出せないでいる。
「なら、エヴァン王国のように従属すればよかったのか? なんの抵抗もしないで奴隷みたいに……っ」
かつて同盟を結び友好的であった国の名前に、クレイはカディにもわずかにしか感じ取れないほどの悲壮を見せた。
絶望ではなく、ただ純粋な切なさだったのかもしれない。
どちらの選択肢が正しかったのかなんて、今でも誰も、わからないのに……。
「そんなことは―――」
カディはその言葉を聞いていなかった。クレイも途中で言辞を飲み込んだ。
まったく気配を感じさせずに、二人の目の前に五人もの男が現れたのだ。こんなことはもう珍しくなくなっていて、カディも驚かなかった。
(魔道王国が……っ)
純粋な力だけでは対抗できない。
それがカストゥール王国。
「ルーフェイザ王っ! 討ち―――」
血にまみれたその剣を握った男は、鼓舞の言葉を最後まで続けることができなかった。カディの剣が一閃し、同時に三人が声も上げる間もなく絶命していた。
そして次の瞬間には、手首を返した彼の剣技の前に、残りの二人も床に倒れた。
「カ、ディ……」
座り込んだ彼の双眸は、光を失い、彷徨うように護衛騎士の姿を探している。
カディはクレイの左手を握り締めた。震えてはいなかったが、その額が力なくカディの肩に落ちてくる。
血を嫌い、争いを嫌う、この戦乱を生き抜くためにはあまりにも弱く、優しい王。
だが、カディももう、手加減をして敵を逃がすわけにはいかなかった。彼を生かすためには誰かを殺すしかないのだ。
「俺は認めない! あんたがいるから俺はここにいるんだっ」
カディに生きることを教えたクレイが、逃げようとしている。それが許せなかった。そしてなにより、クレイの決断が客観的に間違いではないかもしれないと気づいてしまった自分自身が許せなかった。
「あんたは殺させない」
「―――ありが、とう」
弱い光で、クレイはカディを見上げた。
平和な世の中ならきっと、稀代の英君と讃えられただろう、叡智を秘めたまっすぐな瞳だった。
そこに一抹の希望が落ちてきたような気がして、カディは眉根を寄せた。
危うい……なにか。
壊れかけたものを必死でつかむかのように。
潤いのないひび割れた大地に、ひっそりと生えた一本の苗。
「それならば、その力で私の義妹を、守ってほしい」
「義妹?」
こんなときに何を言い出すのかとカディは瞠目した。クレイはエリシャ王族最後の生き残りだ。従兄弟にいたるまでもう誰も、残ってはいないというのに。
「私はもう、お前に守ってもらわなくて……いいよ。戦を、早期終結できるのは、私しかいないからね」
先ほどよりも柔らかな、だが強い口調に、彼が必死で覚悟を決めようとしているのだとカディも悟った。
彼が王として決意したのなら、それにはもう、反駁できない。
カディがクレイを守って落ち延びるのは、今の段階ならば容易だろう。だが、あとに残された民や臣を、クレイはきっと省みずに生きていくことはできない。そしてカディは、クレイを罪びととして生き永らえさせることを選べない。
「お前はもう、覚えていないかもしれないが……私には義妹が、いる」
「何を言って……」
「もう、四年になるな。義母上と義妹は父上のご采配で、エリシャを去った。すでに長い戦乱になると予期しておられたのだろう」
戯言には、聞こえない。
遠い記憶を、呼び起こす。
まだ幼かった二人が、よく城を抜け出して向かった先は……第三離宮。
「義母上は身分のない方であったから、離宮に住んでいたな。私はよく、義妹に会いに行った。お前も何度か一緒に来てくれたよ」
「そういえば……」
そんなこともあったかもしれない。
もうあまり覚えていなかった。すぐに戦況が激化して離宮には行けなくなり、日々に追われて思い出に浸る余裕がなくなったから。
「カストゥールはその子を探している、きっと……。だからどうか、私の代わりに殺させないで、ほしい」
最後の我が侭。
個人としての望みなど、何一つ叶わなかった王の、ひとつの灯火。
「名前は?」
カディはもう、それすら忘れてしまっていた。
「義妹、の、名前は……」
クレイに顔を近づけて聞いたささやくような声を、カディは何度も反芻して今度こそ忘れないよう胸に刻み込んだ。




