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ユティアは正門からレクトと外に出て、誰もいない裏道のほうに回った。
「へえ、あのひとに買われたのかぁ」
レクトに実は隣国の姫なのだと説明しても、自分でも嘘のような話に聞こえるのでやめておいた。そうでなくても、他人に自分の素性を明かすのはカディールたちに禁止されていて、通常はカディールと兄妹ということになっている。レクトには誤解されたが、ユティアも訂正する気はなかった。
「でも贅沢させてもらってんじゃん」
レクトは、ユティアが最後に覚えている彼の姿とたいして変わらないぼろぼろの格好を今でもしている。けれど、ユティアのそれは簡素だが真新しい少女の服。そんな格好で昔の知り合いに会うのは少しおかしい気がした。
「レクトは?」
「ああ、おれはしばらく奴隷やらされてたけど、逃げた」
「え……そうなんだ」
彼は逃げることができたのだ。捕らえられても絶望することなく。
「じゃあ、いまは?」
カディールたちと過ごしていると、そんな世界もあったことを忘れてしまいたくなる。けれどきっと、ここにも飢餓に泣いている子供たちはいる。
「あー……うん、いっしょにいる仲間とさ、食べ物分け合ってるよ。毎日市場にいるんだ」
レクトは少し顔をゆがめた。旅人として神殿の部屋に泊まっているユティアには、変わり映えのない毎日を話したくないのかもしれない。
それでも、一人ではないというのは、少しだけ救われる。未来のない、生活をしていても。
「あ、そーだ。おまえも逃げて来いよ。ここにいるやつらみんないいやつだし、もうぶたれたりしねーからさ」
「……あのひともぶったりは、しないよ」
言葉はきつかったり、ぶっきらぼうだったりするけれど、基本的にカディールは優しい。そして、シオンは女性のように穏やかだ。カディールは気をきかせたのか、二人とは離れているが、どこかで視線を感じていた。あまり聞かれたくない内容だった。
「そんなの最初だけかもしんないだろ」
「奴隷とか、そんな……扱いじゃない、から」
「じゃあ、愛人ってこと?」
「っ!」
ひどい言い方だ。けれど、そう思われてもしかたない状況だったから、ユティアは反論すらできずに下を向いた。それを肯定と受け取ったのか、レクトはさらに言葉を続けた。
「おまえ昔は、奴隷なんてぜったいやだっつってたじゃん。それなのにそんな高いものもらったからって使われていいのかよ」
レクトの視線は、右手首にある銀の腕輪に向いていた。純銀で細かい鷹の絵が描かれているそれは、見るからに高級品だ。
「これは、そんなんじゃないよ」
伸ばされたレクトの手から避けるようにして右肩をかばうと、レクトは少し驚いたようだった。だが、反対の腕を強くつかまれた。
「前みたいにさあ、それ売ったらけっこう金になるじゃん。おれ、この町でもそういうの売れるところ知ってるからさ」
「や、やめて……っ」
振りほどこうとしてもがいたとき、ふいにその腕が解放されて、よろめいたところを別の腕に支えられた。
「そこまでにしとけよ。度が過ぎると俺も、手加減しねぇからな」
カディールがレクトの手をユティアから無理矢理引き剥がして、軽い力で押した。それだけでも子供と大人の体格差があり、レクトは後ろに倒れてしまう。
「……な、なんだよ。邪魔すんのかっ」
「そりゃこっちが言いたい」
レクトは反論しかけたが、カディールに見下ろされて口をつぐんだ。カディールの背中に隠れたユティアに少し視線を投げたが、諦めたように立ち上がり走ってどこかへ行ってしまった。
「ったく、たちが悪いな」
「……―――」
その言葉に、ユティアはうつむいた。
カディールはそんなユティアの様子を気にするでもなく、軽く促して神殿に入っていく。
薄汚れた服を纏った者など一人もいない、清潔な世界。
その中を抜けて、階段を上っていく。
「そうそう、シオンも戻ってきてるぞ。あんたに―――」
カディールは、三階までの階段を上ったところで振り返った。けれど、ユティアは二階からそれを見上げたまま、追いかけて足を動かすことができなかった。
(―――たちが、悪い。それは、わたしも同じだ)
ユティアはほとんどを一人で生きてきたが、それでもレクトは、交流のあった数少ない知り合いの一人だ。仲間、と呼べないこともない。
「どうした?」
彼にはきっとわからない。
当たり前のような、この生活に慣れているのだから。
(レクトとわたしは、同じ―――)
いつかきっと、それをカディールが知ったら、レクトのように軽蔑されて突き放されるのだろうか。卑しいもののように、いらないもののように。
「おい、ユティア!」
カディールはいつのまにかユティアの目の前にいた。
「どーしたんだよ?」
「―――な、なんでもな……」
言いかけたところでカディールに額をこつんと叩かれた。
「ばかだな。何でもないなら、何でもない顔できるようになってから言えよ。俺でもわかるぞ、あんたの嘘」
はっとして顔を上げると、彼の苦笑がすぐ近くにあった。
彼の紺碧の双眸は、嘘がない。
穢れていないからだ。
肩に触れられて、思わずユティアは一歩下がった。
触れたところから、この醜い感情が溢れ出て彼に知られてしまう気がした。
「ユティア?」
「わたし、は……」
食べ物があまりにもなくて、空腹を我慢できなくて、貴族や金持ちの商人から盗んだこともある。
(―――知られたく、ない)
飢餓で倒れていく子供たちを見てきた。その恐怖から、そうやってなんとか逃げて生き延びてきた。
悪いことだとわかっていた。けれど、空腹で何日も泣いた。
そうやって死んでいく子供たちを見て、食べ物の分け前が増えるかもしれないとどこかで囁く自分の醜い声を聞いていた。
(……やっぱり、お姫様になんかなれないよ。ここはわたしが生きていい場所じゃ、ない)
物語にある姫君はそんな悪いことはしない。
豪華な服を着て、美しく笑っている。誰にでも平等の慈愛を降り注ぐ。
理想の貴婦人。
「昔の知り合いに会って、いろいろ思い出しちゃっただけ、だから」
何も言いたくなくて、ユティアはそう取り繕った。これは、嘘ではなかったから。
「仲良かったのか? そうは見えねえけど」
ユティアは勢いよく首を横に振った。
利害だけでつながっていた。
お互い、生きるために。ただ、それだけのために。
「俺たちといるより、そっちに戻りたいのか?」
「……戻りたく、ない」
ついこの前まで感じていたすべての辛さは、ここにはないのだから。
「じゃあ、何が不満なんだ?」
「……え?」
この気持ちは、不満というのだろうか。
(なんの心配もなく、食べていけるのに)
何かに脅えたり、苦しんだり……そんなことから解放されたのに。
「あまりユティアをいじめないでくれるかな」
はっと顔を上げると、いつのまにかシオンが部屋から出てきて、ユティアたちを見下ろしていた。
「全部見てたくせによく言う」
カディールはユティアをつかんだ手を離した。
「君も女性に優しくする術を学んだほうがいいよ」
「だって、はっきりしねーからさ。悩みとかあるんだったらさっさと言えばいいだろ」
「……だから君は粗暴だと言うんだよ、カディール」
シオンの呆れた口調と、カディールの憮然とした表情。
この数日で、これらのやりとりが彼らの日常なのだと気づいてしまった。最後にカディールはそっぽを向いてしまうことが多いのだが、今回もやはりそうなった。