プロローグ
白――。
それは色である以前に、虚無の名であった。
ただ白が広がり、ただ白が支配する。そこには起点も終点もなく、世界は一枚の空白として凍りついていた。
やがて、その沈黙を裂くかのように音が滴り落ちる。
「スッ……シャ……」
筆が紙を削ぎ取る。かすれた囁きが、空白を侵す最初の異物となる。
骨ばかりに痩せ細った手が、かろうじて筆を握っていた。
指先は血の色を忘れ、透きとおる皮膚の下で浮かぶ血管だけが、生の最後の徴を訴えかけている。
その傍らには、黒とも赤とも判じがたい液体を湛えた壺。
絵具の匂いに混じって、鉄の匂い――生きものの血が放つ生臭さが漂う。
――カンバスの上に、瞳が生まれた。
ただの一筆にすぎぬはずが、すでに人の眼差しを孕んでいる。
美しい。されど、禍々しい。
そこに映るものは、画家の切なる祈願か、それとも呪詛か。
「美しいものを描きたかった。ただ、それだけだった。」
白の虚無に、かたちが滲み出る。
頬の輪郭、首筋の線。
紙よりも白い肌は、光を反射し、幻のようにまばゆさを放った。
筆を握る手が震える。それは疲労ゆえか――いや、狂気の芽吹きであった。
次の一筆で、瞳と唇が結ばれる。
そこに顕れたのは、ひとつの到達――「理想」という名の美であった。
完成と同時に、その瞳は鏡と化し、描いた者を映し返す。
いや、映すのではない。覗き込むのだ。
誰よりも正しく、誰よりも静謐に。
カチリ――乾いた音が室内を裂く。
額縁に収められたその瞬間、絵はただの物に還るはずであった。
されど空気は急速に凍り、沈黙が刃となって肌を削ぐ。
静寂の中、瞳がふと揺らいだ。
笑んだのか。いや、違う。ただ観察している。
画家を、世界を、そして未来までも。
完璧であったがゆえに、それは存在してはならなかった。
画家は筆を置く。
血に濡れた手を額縁へ這わせ、銘板へと伸ばす。
だがそこに名は刻まれていない。
滴る赤を指先でなぞり、文字を綴ろうとした。
――だが、止まる。
「誰にも見せてはならない」と掻き消された痕跡だけが残された。
この理想に、名は不要であった。
闇に沈む部屋の中で、ただ額縁だけが幽かな光を帯びて浮かび上がる。
その内に閉じ込められた“彼”は、ただ静かに、真正面を見据えていた。




