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7 梔子と浜木綿


 海に、行かない?と僕は唐突に切り出した。


 つい今まではクサノオウの入手方法について話し合っていたというのに。話題転換に空子ちゃんは一度首を傾げる。


「海ですか?」

「うん。海。いつだったか、話したでしょう? 江ノ島の、水族館に行こうよ」

「もう三時ですが」


 駅の時計を見て空子ちゃんが眉を寄せた。今から電車に乗って行ったとしても一時間は掛かる。けれど僕は「行こうよ」と強く言った。空子ちゃんが僕を見上げる。様子がおかしいことに気付いたのだろう。普段なら僕は引く。


 それが、二人の間の暗黙のルールのようだった。だけど僕はそれを故意に破る。空子ちゃんは白い顔を少し青くした。変化を恐れる子供のようだ。


 僕はそこで助け舟を出した。


「あ、ごめんね。お父さんが心配する?」

「いえ。父は、今日は外泊するので大丈夫だとは思いますが…」


 馬鹿だなぁと僕は笑う。

 逃げれそうだったのに。


「じゃあ行こう?」


 僕は空子ちゃんが戸惑っているのをいいことに、そのまま腕を引いた。途中、光子サンのバイト先に行って、居座ってた一政に車を借りる。


 一政は何も言わなかったけど、光子サンは、最悪お父さんにはこっちにいると口裏を合わせるから、と空子ちゃんと約束していた。


 僕は、光子がなぜ女になったのか悟った。きっと空子ちゃんを守るためだ。僕は光子に一度深く頭を下げて、空子ちゃんとお店を後にして江ノ島の水族館に行った。


 空子ちゃんはいつもと同じ様子でガラス球みたいな目をして魚がたくさんいる水槽に見入ってた。色とりどりの綺麗な魚が水槽で気持ち良さそうに泳いでいる。


 とても広い水槽だけれど、もしかすると狭いのかもしれないということは考えないことにした。分厚いガラスに手をつけて空子ちゃんは見詰め続けている。


 水族館の中は薄暗い。水槽の水の光がぼんやりとブルーライトに照らされたように暗い室内を照らした。


 黒い絨毯を踏んで、僕は空子ちゃんに近づいた。


「綺麗だね、空子ちゃん」


 言うと振り返って空子ちゃんは答える。喜んでくれているのかはわからなかったけれど、少し嬉しそうに見えた。


「魚はいいですね」

「空子ちゃんは魚じゃ何が一等好き?」

「普段は飛魚ですが、今はマンタがいいと思っています」


 飛魚は見渡しても見つけられないからだろうか。


 マンタは悠々と水槽の上の方を泳いでいる。長い尻尾だと思った。この位置からはマンタの腹しか見えない。


 頭のほうはどうなっているのだろうかとどうでもいいことを考えた。手前ではイソギンチャクが奇妙な動きをしている。


 この大きな水槽には何種類の魚がいるのだろう。マグロの群れが先ほどからぐるぐると泳ぎまわっていた。


「マンタって魚だっけ」


 僕は魚の話を振ったのだ、と思い出して首を傾げる。けれど空子ちゃんが言うのだから間違いはないのかもしれない。しかし、空子ちゃんが振り返って首をかしげた。


「知りませんよ、そんなこと」

「空子ちゃんでも知らないことがあるんだね」

「当たり前でしょう」


 空子ちゃんが笑った。僕も嬉しくなる。


 植物には詳しいけれど、魚には疎くてよかった、と思った。ガラスドームを泳ぐ鰯や鮪の群れを二人でぼんやりと眺めていた。平日だというのに、水族館には人がいる。


 けれど、カップルが多い。僕らも、同じように見えてはないだろうかと期待をしたけれど、ガラスに反射して映ったのは精々近所のお兄さんと一緒に遊びに来た子供だろう。


 水族館を出て、二人でスカイラークに入った。ご飯を食べて、それじゃあ帰ろうかと車を止めた水族館の駐車場に向かう。


 八百メートルほど離れた場所に向かうため、ゆっくりと歩道を歩いた。僕の隣を空子ちゃんが歩く。空子ちゃんは海岸側に、僕は道路側に。潮風が少し冷たかった。もうすぐ梅雨が終わって夏が来るんだと思い出す。


 そういえば僕はまだ空子ちゃんが傘を広げている姿を見ていない。


「どうしたんですか」


 半分くらい行ったところで、訊ねられた。一歩先で止まった僕は不意に問いかけられて戸惑いながら振り返る。立ち止まって、空子ちゃんは僕を見詰める。真っ直ぐ向けられる黒真珠に、僕は言葉に詰まった。


「あなたが無理を言ってまでわたしを連れ出した理由です」


 なんだったか、と自分でも思い出してみたけれど、ちゃんとした理由なんか無かったのだと辿り着いて恥ずかしくなる。いや、理由はあったかもしれない。けれど、それを空子ちゃんに告げることはできないのだ。だから無かったと自分を辱めることで終わらせる。


「心配してくれるの?嬉しいなぁ」


 ごまかそうとしたけれど、空子ちゃんは許してくれなかった。「真辺さん」と強く名前を呼ばれて苦笑する。言ってしまえば何か変わってくれるのだろうか。浅ましい期待をした。立ち止まったまま、進みたい言葉を吐くのは奇妙な錯覚を起こす。僕は車が三台ほど通り過ぎてからやっと口を開いた。


「僕は、キミが好きだよ」

「知っています」


 頷く空子ちゃんに、本当ならそれだけでよかったはずなのに。僕はさらに続けた。どうしようもない感情が溢れてくる。


 叱られると分かっていて自分の罪を告白する子供のようだと思った。笑う余裕はないけれど。


「キミは、お父さんが好きなんだね」


初めて空子ちゃんの瞳が揺れるのを見た。だけど驚きに目を見開いたのは一瞬で、すぐにいつもと同じ、ぼんやりとした顔に戻った。


「光子から聞いたんですか」

「…どうして、お父さんなの?」

「光子から聞いていないんですか」

「答えてよ、空子ちゃん」


 空子ちゃんが黙った。怒鳴ったわけじゃない。でも、空子ちゃんは項垂れた。その姿を見て僕は自分がなんて酷いことをしているのだろうかと自己嫌悪に陥る。


 もういいよ、と笑おうとして、その前に空子ちゃんが小さく「待って」と言った。僕が降参することが分かったのだろう。僕は驚いて、声を飲み込む。


「あなたのこと、嫌いじゃありません」


 ゆっくり三十秒数え終わるくらして、空子ちゃんが俯いたまま呟いた。初めて聞く空子ちゃんの心情なのにあまり嬉しくなかった。僕は、そう、と頷く。


「でも、お父さんを好きでいるのは当たり前なんです。そういう風に、できてるんです」


 顔を上げた空子ちゃんは、笑っていた。


 あきらめたような笑顔だった。お金がなくて、おもちゃを買ってもらえない子供が、申し訳なさそうな顔をする母に向ける笑顔によく似ていた。そして夕日の沈む海に視線を向けて黙った。僕は、その顔を見詰めて眼を細める。


 どうしていいのかわからなかった。ただ、言わなければならないことだけは解った。一度深呼吸をして、今までこんなに気持ちを込めたことがないってくらい、心の底から声を出した。


「大好きだよ。空子ちゃん」


 自分の目から涙が出てきた。なんだか涙が止まらない。何で泣いているのか自分でも解らなかった。だけど、きっと悔しくて泣いてるとか、悲しくて泣いてるとか、それとも嬉しくて泣いてるとかではないんだと自分でも解っていた。僕は空子ちゃんが大好きだ。愛しているというのとは少し違うと思うけれど、ものすごく、大好きなんだ。それを思うと涙を止めることはできなかった。

情けないな。二十一歳にもなって。好きな子の前でボロ泣きするなんて。


 かっこ悪いなぁ。相変わらず空子ちゃんは海を見ている。


「知っています」


 夕焼けに赤く染まった顔を向けて空子ちゃんは答えた。知っていますよ、と繰り返して目を伏せた。相変わらず、涙は止まりそうにない。馬鹿だなぁ、僕は。ばかだなぁと何度も思う。潮風が冷たかった。





「それでは、さようなら。大悟さん」


 空子ちゃんはいつものように礼儀正しく頭を下げて言った。そして背筋をしゃんと伸ばしてくるりと身を翻すと、いつものように綺麗な歩き方で門の前に向かっていった。


 朝日に照らされた黒いワンピースの裾は刺繍された朱紅色の石榴の花が揺れていた。




終  

花言葉

  

空木:神秘

黒百合:恋。のろい。

紫陽花:移り気。あなたは冷たい人。無情。

梅:高潔。忠実。

碇草:あなたを放さない。

桔梗:変わらぬ愛。誠実。従順。

ハイビスカス:貴方を信じます。新しい美しさ。

朝顔:儚い恋。固い約束。

南天:私の愛は増すばかり。

おしろいばな:信じられない恋。臆病。内気。

菊:高潔。清浄。

貝細工:永遠の思い出。悲しみは耐えない。

杜若:幸運は必ずくる。

たちあおい:あなたの美しさは気高い。温和。

梔子:わたしは幸せです。

浜木綿:どこか遠くへ。

柘榴:円熟した美しさ。

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