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回避行動なんて取りません  作者: 章槻雅希


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わたくし、悪役令嬢だそうですの!

 物心がついたときには、前世の記憶がございました。正確にいえば、2歳を過ぎた頃には、自分が自分以外の誰かとして生きていた記憶を持っていることを自覚しておりましたの。授乳が終わり、オムツも取れた後でよかったと思いますわ。なにしろ、前世の記憶があるからといいましても、赤ん坊の身体で自由に行動できるわけではございません。羞恥心を覚える年齢になってから、言葉もろくに話せず、排泄の世話まで人任せだった頃の自分を思い出すのは、中々に居た堪れないものがございます。まあ、今となっては笑い話ですけれど。


 それはともかく、わたくしは早い段階で、自分が異世界に転生したのだと悟りましたの。


 何しろ、この世界は妙でございましたから。服装は18世紀から19世紀あたりのヨーロッパ風。夜会に出る女性たちのドレスは、まるで『ベルサイユのばら』の世界から抜け出してきたかのように華やかで、普段着は『シャーロック・ホームズ』や『風と共に去りぬ』を思わせました。


 それなのに、衛生環境が妙に整っております。ベルサイユ宮殿といえば、建物の中にトイレが極端に少なくて困ったという話を聞いたことがございます。ところが、この世界では各部屋に水洗トイレがあるのです。


 しかも、お風呂まで部屋ごとに備えつけられております。温水が出るカランに、シャワーまで完備。素晴らしいですわ。


 貴族のお屋敷だからという理由だけでは説明がつかないほど、生活環境が快適でございましたのよ。


 勿論、その一方で不思議なことも多々ございました。移動手段は基本的に馬車。都市部の道路は石畳ですが、都市を離れれば、砂利道ならまだましなほうで、草が生えていないだけの土の道も珍しくはございません。


 但し、都市間や国家間の移動には転移魔法陣が使われます。荷物を運ぶにはマジックバッグがあり、魔力の大きな者なら異空間収納も使えます。ですから、わざわざ自動車や船、飛行機を発達させる必要がなかったのでしょう。


 化粧品や美容用品はそれなりに充実しておりますのに、薬といえば薬草が中心。


 更に、トイレもお風呂も魔道具で動いていて、上下水道もきちんと整備されています。下水の掃除はスライムが担っているそうです。


 魔法があり、魔物がいる。それでいて、妙に現代的な生活環境が整っている。


 ――これ、絶対に乙女ゲームか、それに類するライトノベルの世界でしょう。


 そう考えるのは、ごく自然なことだったと思いますのよ。


 そして、わたくしは予想どおり、王族の血を引く公爵家に生まれました。


 ベロワイエ公爵家。エーベル王国において、王家と縁戚関係を結ぶ名門中の名門でございます。


 父はクリストフ・エルキュール・ド・ルヴェリエ。ベロワイエ公爵家の当主であり、領民からは頼れる領主様と慕われ、王城では国王陛下の信頼厚い臣下として知られております。母はオリアーヌ・オドレイ・ド・ルヴェリエ。社交界の華と称えられる美貌の持ち主で、王后陛下と並び立つ社交界の頂点に君臨するお方です。


 そして、お兄様が三人。長兄マティアス、次兄ユルリッシュ、三兄ラザール。


 わたくしが生まれたとき、既に一番上のマティアスお兄様は10歳でございました。末っ子のわたくしとは年齢が離れておりますが、その分、兄たちは揃いも揃ってわたくしを甘やかしてくださいます。父も母も兄たちも、わたくしをたいそう可愛がってくださるのです。


 そして、もう一人。


 わたくしの父方の再従兄にあたる、第二王子シルヴェストル・エティエンヌ・ド・バシェ。わたくしより2歳年上で、幼い頃から何かとわたくしを構ってくださる、優しいお兄様です。ええ、優しいお兄様ですの。少々、わたくしに構いすぎるきらいはございますけれど。


 わたくしが庭で花を眺めていれば隣に座り、絵本を読んでいれば一緒に覗き込み、お昼寝の時間になれば当然のように隣で眠ろうとなさいます。わたくしが5歳になった今でも、それは変わりません。


「フランシーヌ、今日は私と庭を散歩しようか」


 ある日の朝食後、シルヴェストルお兄様はそう仰って、わたくしの前に手を差し出されました。


 ピジョンブルーの髪に、ローズダストの瞳。王家の血を示す色彩を持つお兄様は、将来たいそうな美男子になるに違いございません。7歳の今でも、既に整った顔立ちをしていらっしゃいます。但し、わたくしに向けられる表情は、王族らしい威厳とは無縁でございました。まあ、再従兄の幼女を散歩に誘うのに、威厳など必要ないのでしょうけれど。


「よろしいですわ。お兄様、今日は薔薇園に参りましょう」


「君がそう言うなら、そうしよう」


 差し出された手を取れば、シルヴェストルお兄様は嬉しそうに微笑まれました。その様子を、食堂の向こう側からマティアスお兄様が眺めております。


「シルヴェストル殿下は、フランが生まれたときのことを覚えていらっしゃらないでしょうね」


「何の話だい、マティアス」


「フランが生まれたとき、私は10歳でしたからね。あの小さな手を初めて握ったときの感動といったら……」


「私だって、フランシーヌが生まれた頃から知っているよ」


「殿下は2歳でいらっしゃいましたから、記憶には残っていらっしゃらないでしょう」


「……マティアス」


 シルヴェストルお兄様の声が、ほんの少し低くなりました。マティアスお兄様は、涼しい顔で紅茶を口に運びます。このような光景は、我が家では珍しくもございません。


 どうやらマティアスお兄様は、わたくしを長年可愛がってきた実績について、シルヴェストルお兄様に対して優位に立ちたいご様子なのです。大人げないと申しますか、何と申しますか。けれど、わたくしを可愛がってくださるのは嬉しいことですから、ここは黙っておきましょう。


 ちなみに、次兄のユルリッシュお兄様は、そんな二人のやり取りを眺めながら、にこにこと微笑んでおりました。何を考えていらっしゃるのかは、よく解りません。解りませんが、あの笑顔を浮かべているときのお兄様は、だいたい何か企んでいらっしゃいます。


 三兄のラザールお兄様は、朝食を終えると騎士団での稽古に向かわれました。まだ11歳ですが、将来は近衛騎士になるのだと張り切っていらっしゃいます。


 そんな兄たちと、父と母と、そしてシルヴェストルお兄様。わたくしの世界は、たいそう幸福でございました。


 ――少なくとも、そのときまでは。


 その日の午後、わたくしは自室の書棚を整理しておりました。整理と申しましても、5歳児のすることですから、絵本を並べ替えたり、気に入った本を手前に置いたりする程度です。そのとき、侍女が運んできた本の中に、見慣れない題名がございました。


『王都の恋』


 その文字を目にした瞬間、わたくしの頭の奥で、何かが引っかかりました。


 王都。恋。エーベル王国。第二王子。シルヴェストル・エティエンヌ・ド・バシェ。


 ……あら?


 わたくしは本を手に取り、表紙をじっと見つめました。


 勿論、これは前世で読んだ本そのものではございません。こちらの世界に、前世で読んだ本がそのまま存在するはずはないのですから。


 けれど、その題名を見た途端、記憶の奥底に沈んでいた物語が、泡のように浮かび上がってまいりました。


 前世で読んだ、人気ライトノベルシリーズ『王都の恋』。さまざまな時代のエーベル王国を舞台に、身分も境遇も異なる男女の恋愛を描いたシリーズでございます。


 その第四作の題名は――。『王都の恋は艶やかに』。わたくしは、思わず息を呑みました。


 そうです。第二王子シルヴェストルと、平民の娘マノン・ボルドの恋を描いた物語。そして、その恋路を邪魔する悪役令嬢が登場する物語。


 その悪役令嬢の名前はフランシーヌ・オレリア・ド・ルヴェリエ。


 ……。…………。


「…………わたくし?」


 思わず声が漏れました。


 ええ、わたくしです。わたくしの名前です。フランシーヌ・オレリア・ド・ルヴェリエ。ベロワイエ公爵家の末娘であり、王族の血を引く公爵令嬢。そして、前世で読んだライトノベルでは、第二王子に執着し、ヒロインに嫌がらせを繰り返す悪役令嬢。


 何ということでしょう。転生した世界が、前世で読んだ物語に似ているかもしれないとは思っておりました。けれど、まさか登場人物まで一致するとは。


 わたくしは本を閉じました。もう一度、開きました。題名を確認しました。閉じました。開きました。


 ……何度見ても、題名は変わりません。これは夢ではございませんわね。


 わたくしは5歳児の小さな手で本を抱え、記憶を探りました。


 第4作。『王都の恋は艶やかに』。確か、物語は王立エクラタン学院への入学から始まるのでした。第二王子シルヴェストルは、そこで平民の娘マノンと出会います。マノンは貴族ではありません。王都のボルド地区に住む平民で、ボルドというのも貴族の姓ではなく、出身地を示す呼び名にすぎません。彼女は、ローアンバーの髪にリーフグリーンの瞳を持つ少女。そして、彼女と恋に落ちるのが、わたくしの再従兄であるシルヴェストルお兄様なのです。


 ……。いやいやいや。ちょっとお待ちくださいませ。シルヴェストルお兄様? わたくしを見つけるたびに構い倒し、庭の散歩にもお昼寝にも付き合おうとなさる、あのシルヴェストルお兄様ですか? わたくしが転んだだけで大騒ぎしそうな、あのお兄様ですか?


 確かに、お兄様は将来たいそうな美男子になるでしょう。王族としての資質もおありですし、優秀なお方です。


 けれど、わたくしの知っているお兄様は、わたくしのことをたいそう可愛がってくださいます。そのお兄様が、わたくしを捨てて、別の女性と恋に落ちる?


 ……。まあ、恋愛感情というものは、幼い頃の好意とは別物なのでしょう。わたくしだって、シルヴェストルお兄様を大切に思っておりますけれど、それが将来どうなるかまでは分かりませんもの。


 ですが、問題はそこではございません。問題は、わたくしが悪役令嬢だということです。


 前世の記憶が、少しずつ鮮明になってまいりました。原作のフランシーヌは、シルヴェストルに執着しておりました。彼がマノンに親しくすることを許せず、二人の仲を邪魔しようとします。マノンに嫌がらせをし、時には危害を加え、ついには取り返しのつかない事態を引き起こす。


 そして、物語の終盤。卒業を迎える頃、シルヴェストルはマノンにプロポーズするのです。フランシーヌは断罪され、罪を問われ、最後には命を落とす。


 ……。…………。


「わたくし、死にますの?」


 声に出してしまいました。


 勿論、返事はございません。部屋には、午後の柔らかな日差しが差し込んでいるだけです。


 わたくしは本をぎゅっと抱きしめました。5歳児の身体では、抱きしめるというより、胸の前に押しつけるような格好になってしまいます。


 けれど、そんなことはどうでもよろしいのです。わたくしは死ぬ。原作どおりに進めば、わたくしはシルヴェストルお兄様に執着し、マノンに嫌がらせをして、断罪される。そして、最後には処刑される。


 ……いえ。それだけではございませんでした。


 続編。そうです。『王都の恋は艶やかに』には続編がございました。題名は『王都の恋は秘めやかに』。前作の後日譚を描いた物語で、わたくしが処刑された後の出来事が語られるのです。


 その内容は、前作以上に悲惨なものでした。わたくしの両親は、娘を救おうとして処刑される。父は公爵として、王国の重要な領地を治めておりました。母は社交界の頂点に立つ女性で、王后陛下とも並び称されるほどの影響力を持っております。その二人が、娘を守ろうとしたために命を落とすのです。


 そして、兄たち。最愛の妹を殺され、両親まで失った兄たちは、王国を見限ります。長兄マティアス、次兄ユルリッシュ、三兄ラザール。三人は隣国コシェへと逃れ、エーベル王国への復讐を誓う。


 ……お兄様たちが? わたくしの、大好きなお兄様たちが? いつも遊んでくださるマティアスお兄様が。わたくしの欲しいものを先回りして用意してくださるユルリッシュお兄様が。わたくしを守るためなら剣を抜くことも厭わないラザールお兄様が。そんな未来を迎えるのですか?


 そして、ベロワイエ公爵家が王国から失われる。それは、ただ一つの貴族家がなくなるという話ではありませんでした。ベロワイエ公爵領は、エーベル王国にとって極めて重要な領地です。農業生産、流通、魔道具の生産。それらを支える行政能力と、長年にわたって築かれてきた仕組み。父が治める領地は、王国の食料供給にも、経済にも、軍事にも深く関わっておりました。


 その公爵家が離反すれば、王国の国力が大幅に落ち込むのは当然です。実際、続編ではエーベル王国の国力は半分にまで落ち込んでおりました。そこへ、隣国コシェが攻め込んでくる。


 ……。…………。


「だめですわ」


 わたくしは、ぎゅっと拳を握りました。


 五歳児の小さな拳です。けれど、今のわたくしには、それしか出来ませんでした。


「そんなの、だめですの」


 わたくしが死ぬのは嫌です。勿論、嫌です。


 けれど、それ以上に嫌なのは、お父様とお母様が亡くなること。お兄様たちが悲しむこと。そして、大好きな家族がわたくしのために命を落とすことでした。そんな未来、絶対に受け入れられません。


 わたくしは本を机に置き、椅子から降りました。足元が少しふらつきましたけれど、構ってなどいられません。部屋の扉を開け、廊下へ飛び出します。


「お嬢様? どうなさいました?」


 侍女が驚いて声をかけてきました。


「お父様はどちらですの!?」


「旦那様でしたら、執務室にいらっしゃるかと……」


 最後まで聞く前に、わたくしは駆け出しておりました。お父様の執務室は、廊下を曲がった先にございます。5歳児の足では少々遠いのですけれど、今はそんなことを気にしていられません。


「お父様ー!」


 扉を開けると、書類に目を通していた父が顔を上げました。


「おや、フラン。どうしたのだい?」


 父はすぐに椅子から立ち上がり、わたくしのもとへ来てくださいました。そして、わたくしを抱き上げます。


「どうした? 何かあったのかい?」


 優しい声でした。いつもどおりの、わたくしの大好きなお父様の声です。その声を聞いた途端、こらえていたものが一気に溢れてしまいました。


「お父様ぁ……!」


「おやおや。どうした、フラン。誰かに何かをされたのか?」


 父の表情が変わりました。先ほどまでの穏やかな公爵様のお顔ではございません。娘を泣かせた者がいると知れば、相手が誰であろうと事情を確認せずにはいられない。そんな父親のお顔です。


「お母様も、お兄様たちも……!」


「うん?」


「みんな、絶対に助けますのー!」


 ……。…………。


 言ってから、わたくしは少しだけ後悔いたしました。


 何をどう説明すればよいのでしょう。前世で読んだライトノベルの内容を説明する? わたくしが将来、悪役令嬢として断罪されると説明する? そして、お父様もお母様も、お兄様たちも、わたくしを救おうとして悲惨な目に遭うと説明する? 5歳児の口から、そんな話が出てきたら。


 ……。……お父様、信じてくださるでしょうか。


「フラン?」


 父がわたくしの顔を覗き込みました。


 その目には、心配が浮かんでおります。


「大丈夫だよ。お父様はここにいる。お母様も、お兄様たちも、みんなここにいるからね」


 そう言って、父はわたくしの背中を優しく撫でてくださいました。わたくしは父の首に腕を回しました。


 そうです。今は、みんないるのです。お父様も、お母様も、お兄様たちも。シルヴェストルお兄様だって、いらっしゃいます。


 わたくしは、まだ5歳。原作の物語が始まるまでには、10年もございます。


 10年。10年あれば、きっと何かが出来るはずです。いいえ、何かをしなければなりません。わたくしが何もしなければ、原作どおりの未来が訪れるかもしれないのですから。


 わたくしは顔を上げました。


「お父様」


「何だい?」


「わたくし、頑張りますわ」


 父は少し驚いたようでしたが、すぐに優しく微笑まれました。


「そうか。フランは頑張り屋さんだね」


 ……お父様。今は、まだ詳しいことは言えません。


 けれど、わたくしは決めました。わたくしが死ぬ未来も。お父様とお母様が処刑される未来も。お兄様たちが王国を見限り、隣国へ逃げる未来も。そして、エーベル王国が衰退し、コシェに攻め込まれる未来も。絶対に、変えてみせます。


 だって、わたくしは。お父様も、お母様も、お兄様たちも、大好きなのですもの。


 そのためなら、わたくしだって頑張りますわ。……まあ、出来れば、あまり面倒ではない方法がよろしいのですけれど。


 そのときのわたくしは、まだ知りませんでした。この世界には、わたくしが思っていた以上に、わたくしを甘やかしたい人々がいるということを。


 そして、わたくしがこれから考えることになる対策が、いかに彼らの愛情と相性の悪いものであるかということを。


 わたくしはただ、父の腕の中で決意しておりました。大好きな家族を、絶対に守るのだと。


 ――それが、わたくしの破滅回避計画の始まりでございました。


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