第六十七話 黒狼の行方
アニスは抱きしめていたエリオットを離さないまま、今度はテーブルの上に置いてあるベルを鳴らした。決められた回数を鳴らされて、ベルは通話できる魔導具へと変化する。
「はい、お嬢様。どうなされましたか?」
「ボブ。聖女様のお部屋にこのまま通話をいただけるかしら?」
「それは可能ですが。お待ちください」
今度はきれいな音色の鈴虫が鳴くような音がした。
数秒と間を置かずに、女性が応対する。多分、聖女の侍女だろう。アニスは自分の名を告げて、シオンライナを呼び出していた。
「アニス様。どうされました?」
「聖女様、この国でしばらくいらっしゃるのですよね?」
「その予定ですが……?」
「私の部下たちを預かってほしいのです。できればそのまま、国外へ連れて行っていただきたい。対価は彼らの能力次第。どうでしょうか?」
「また急な申し出ですね。本来ならばお断りするところですが……」
通話口の向こうで一言二言、聖女が誰かと会話をしている。
そして、何かの確認をしたのだろう。いいですよ、と告げた。
簡単な挨拶をして、通話を終えるとアニスは「どう?」と待機していた刺客二人に微笑みかけた。
オネゲルがありえない、という顔をして見せる。エルテューレはもはや覚悟を決めたようだった。
「じゃあこれで決まりね。今から聖女様の元に行ってもらうわ、部屋番号は――」
こうして、アニスは自分の身に振りかかる困難をさっさと弾いてしまったのだった。
ついでに腕の中にエリオット抱えて、ずっと離さないまま、二人はそれぞれの生い立ちについて話をした。
過去のこと、今こうしていることの奇跡、そしてこれからのこと。
未来について語るとき、エリオットは必ず、一度は悲しそうな顔をしてみせた。
その度に、アニスは彼に言って聞かせた。
大丈夫、あなたにつきまとう不安は、私が必ず魔弾で弾いてあげるから、と幼い弟を見守る姉のように語りかけた。
* * * *
一月が経過した。
その間、アニスはエリオットを部屋に迎えることが多くなった。
まだ夜を共に過ごしたことはなく、アニスもまだ前婚約者のことが心にしこりとなって遺っていたりして、あくまで二人は恋人未満友人以上の存在だった。
だが、それまで手料理だの男性のために何かをすることに、アニスが彼との触れ合いによろこびを見出していたには間違いない。
ボブが実は皇帝の弟だったり、血筋的にはエリオットの叔父に当たるなどいろいろと驚きの真実が隠されていたが、それらは特にアニスとエリオットの関係に、波紋をもたらすようなことはなかった。
「明日は朝食以外、ちょっと会えないかもしれないの」
「どうして? どこかに出けるのか?」
「そうじゃないけど。ちょっと独りになりたくて」
「珍しいね」
要領を得ないアニスの返事に、エリオットは首をかしげることしかり。
そのうち、彼女の元婚約者が処刑された日から明日で一月だということに、ようやく思い至った。
「サフラン元殿下の?」
「彼の一か月目の命日だから。ホテルからは出ないけど、祈りを捧げたいの」
「……いいよ。君がそうしたいなら、俺はそれを受け入れる」
「ありがとう、エリオット。感謝してる」
魔石工房の業務を終えたエリオットが、いつものように仕事着のままアニスの部屋を訪れた食事の席で、そんな話になった。
エリオットの心境は複雑だった。
まだ、前の恋人のことを思っているのだろうか?
忘れられないこと、そんなにあるのか。俺のことは、どう考えてくれているんだろう?
複雑な思いが胸の中で生まれては消えていく。
ありもしない想像してしまい、それを打ち消して、彼女は大丈夫。信じてよい女性だ、と自分に言い聞かせた。
帰りの際、珍しく。いや、この一月で二回目といってもいい、アニスはキスをエリオットに与えた。
惜しみのない母性愛に満ちた抱擁と、情熱にあふれたキスだった。
年上の大人の女性として彼女は振る舞い、様々なことを自分に教えてくれる。
早く、彼女に見合う大人の男にならなくては。エリオットは、パタンと閉じた扉に向かって静かに拳を握りしめていた。
聖女シオンライナが、ホテルギャザリックのロイヤルスイートに滞在して、一月。
シオンはアニスから預かったオネゲルたちを連れ、王都の周囲で魔獣と精霊がやらかした魔法決戦の後始末にてんてこまいで、なかなかその身を休めることがなかった。
アニスの元部下たちはとても優秀で、シオンライナの片腕としてその能力を存分に発揮した。
そんな彼らの働きをもってしても、分からないことがひとつだけあった。
それはあの一夜の決戦で、消えてしまった二つの魔石に関することだった。
「新芽は溶岩の中で溶けてしまったのかもしれないよ? それに、ローズ・ローズの魔石はあれだけ巨大だった。あれは溶けないだろうし、そうなるとどこかに眠っている可能性があるわ」
エルテューレは聖女に頼まれた役割を果たす傍らで、そんな言葉をオネゲルにかける。
すると、オネゲルもまた不可思議だとぼやくのだ。
「魔石だけじゃない。あの黒狼にしてもそうだ。辺境伯様は、あの会話でさもリンシャウッドが生きていると知っているようだった。だが、女神すら行方が分からないというのはどうなんだ?」
アルテューレがシオンライナから聞いた話では、死者の行方を女神に尋ねれば、その多くは明らかになる、というものだった。
二人はアニスに改めて忠誠を誓った身だ。
その意味で、アニスを殺したリンシャウッドことが許せないでいた。
ついでに、高額な失せものを探し出す魔法を使う神官に多額の寄付をしても、あの炎の精霊の魂が閉じ込められた魔石の行方も分からなかった。
神官は、真っ暗闇に呑まれている。まるで、闇の神の胎内にでもいるように、見当たらない、と言っていた。
闇の神。闇属性の黒い狼の獣人。どれもこれもが何か見えない一つの糸で繋がっているように思える。
だが、その見えない糸は、どこをどう探しても見当たらないのだ。
そんな二人が、リンシャウッド捜索を半ばあきらめかけた頃。
もう一人の人物が、それなりの確信を持って、リンシャウッドを探して動き出していた。アニスだった。




