19.きゅうてん
その日はいつもと変わらない、普通の日のはずだった。
西上さんと片山さんが世間話をしていて、そこに神崎さんが割り込むのも、最早見慣れた光景となっていたのに。
片山さんが西上さんに、残業を押し付けて――。
「片山さん!?」
とさ、と軽い音を立てて、片山さんが青い顔で倒れるまでは。
お店は暫く騒がしかった。
何せ、片山さんの意識が戻らない。普通の卒倒じゃなかった。けれど、心筋梗塞や脳卒中という感じでもない。片山さんに、特に持病がないことは、皆が知っていた。
神崎さんが率先して救急車を呼び、店長が騒ぐアルバイトたちを業務に戻らせた。片山さんが上がる時間と同じ時間までのシフトだった西上さんと、仕事の終わっていた神崎さんだけが、今は彼女の側にいる。
間もなく救急車が到着して、片山さんの口には吸入器が取り付けられる。呼吸が正常じゃない上に、脈もおぼつかないらしい。
僕は呆然としていた。……僕には、何も出来ないから、黙って片山さんを見守っているしかない。正直、こんなにきついとは思っていなかった。感情を表現できないことが――それを誰にも伝えられないことが、こんなに苦しいなんて。今まで、誰に分かってもらえなくても良かったのに、片山さんを心配する気持ちだけが、心の底をこれでもかと焦がす。じっとしていられなかった。
救急車には彼氏である神崎さんと――西上さんが乗り込んだ。お店のみんなは、そんな西上さんを応援するように見ている。神崎さんは若干眉をしかめながらも、制止はしなかった。少しだけ余裕が見てとれる。
狭い車内に救急隊員と担架、そして大の男二人が乗せられて、サイレンを鳴らしながら車が発進する。
そのとき、僕は唐突に理解した。片山さんがどうして、常々体調悪そうだったのかという、その訳を。
よくみれば分かることだった。神崎さんはゆっくりと、しかし確実に、片山さんの魂から「力」を吸い取っているのだ。一滴も零さないように吸収しようとするその様子には、偏執的な執着心が感じられた。
「執着」――これも本来、天に属するものが持ってはいけない感情のはず。
怖い。家に帰りたい。滲まない涙が零れそうになる。
片山さんの魂は、もうあと少しで「力」を吸い尽くされようとしていた。虫の息、というのはこういう状態のことを指すのかもしれない。本当に、あと少しで片山さんの魂は力尽きてしまうだろう。
力のなくなった魂は、命数が尽きていなくても死神が回収しなければいけないものの一つだ。西上さんは面倒くさそうに力尽きた魂を拾うけれど、神崎さんが片山さんに対して行っているこれは――その結果片山さんにもたらされるであろう結末は――明らかに意図的なもので、自然に起こりうることじゃない。
つまり、天の規定に反することだ。非常にぎりぎりのラインで、辛うじて罪に問えるか問えないか、というくらい巧妙なやり口ではあるけれど。
西上さんは怖い表情で、神崎さんは沈痛な――もしこれが演技だったら、僕の恐怖心は更に膨れ上がること間違いなしだ――面持ちで、片山さんを見つめている。
救急車のサイレンが、どこか場違いな音のように響いていた。