第二十二話 来るなと言われたので
「この進行表、写真を撮ってもいいですか」
ミアの指が、紙の端を押さえた。
テーブルに置かれた水のグラスには、溶けきった氷が一つだけ浮いている。店内は夕食時を過ぎていたが、駅へ向かう客が入れ替わるたび、自動ドアの音が短く鳴った。
「それって、事務所に知られたら……」
「契約違反になるかもしれません」
ミアの爪が、進行表の角を曲げる。
ここへ持ち出した時点で、十分に危ない。それでも写真を残すとなれば、端末を調べられただけで言い逃れができなくなる。
「嫌なら大丈夫です。撮りません」
「でも、証拠がないと」
「必要なところは覚えます」
もう一度、紙へ目を落とした。
別入口から単独で入り、指定された地点まで進む。
カリンとの合流は久世の指示を待つ。
自分から救援を呼ばない。
敵を倒せる状況でも、すぐには倒さない。
文字の並びまで、頭に残っている。
忘れろと言われたところで、たぶん無理だ。
「明日の撮影ですが」
進行表を裏返し、ミアの前へ戻す。
「危ないと思ったら、指示を待たずに逃げてください」
ミアは紙を受け取らなかった。
「でも、カリンさんが」
「ミアさんが怪我をする方が、迷惑です」
「私が勝手なことをしたら、またカリンさんの責任にされませんか」
久世ならやる。
本人の指示違反ではなく、カリンの指導不足として処理するくらいは考えるだろう。
鞄から自分の進行表を出し、第三通路の地図を開いた。ミアの紙の横へ置き、入口から非常口までを指でなぞる。
「それでも、逃げてください」
「でも……」
「その時に通れる道は、俺が作ります」
ミアの視線が、指先を追う。
第三通路は機材搬入と重なる。正面へ戻れなければ、整備用通路から第二控室の裏へ抜ける。鍵の位置までは確認済みだ。
店員が空いた皿を下げに来ても、ミアは地図を見たままだった。
やがて、曲げていた進行表の角を指で伸ばす。
「……分かりました」
店の外まで見送った。
ミアは改札へ向かう途中で二度振り返った。三度目には人の流れに隠れ、薄い色の上着も見えなくなる。
俺は元の席へ戻った。
冷めたコーヒーには手をつけず、カリンへ電話をかける。
三回目の呼び出し音で繋がった。
『相原さん?』
「今、大丈夫ですか」
『はい。何かありました?』
「ミアさんから連絡が来ました」
向こうで、衣擦れの音が止まった。
「明日の進行表は二種類あります。ミアさんだけ、別の動きを指示されてる」
単独で第三通路へ入ること。
カリンたちと救護班は遅れて入ること。
機材搬入が退路を塞ぐこと。
敵をすぐ倒さず、危険な場面を引っ張るよう書かれていること。
話し終えるまで、カリンは口を挟まなかった。
『私から久世さんに話します』
「それは駄目です」
『どうしてですか』
「ミアさんが漏らしたと分かります。それに、久世さんは明日の進行だけ変えて、別の場所に何か仕込みます」
電話の向こうで、短く息を吸う音がした。
『なら、私がミアの代わりに前へ出ます』
「カリンさんだけを助けても、駄目だったんです」
言ってから、テーブルの木目に爪を立てていることに気づいた。
指を離す。
「カリンさんが抜けようとしたら、今度はミアさんが前に出された。ミアさんを外しても、次の新人が入ります」
『だからって、相原さんまで巻き込まれる必要はありません』
「人を入れ替えて続けられるなら、誰か一人を逃がしても終わらないでしょう」
最初は、カリンを契約から抜けば済むと思っていた。
空いた場所に、こんな形で別の名前が入るまでは。
「現場そのものを止めます」
自動ドアが開き、酔った会社員たちの笑い声が入り込んできた。
カリンの返事は、すぐには聞こえなかった。
『相原さんは探索者じゃありません』
「知ってます」
『久世さんにも警戒されてる。契約違反を取られたら、今の仕事にまで影響するかもしれない』
「その可能性はあります」
『そんな言い方で入らないでください』
声の端が揺れた。
『相原さんは、あの人たちとは違う場所にいる人です』
「もう契約書に名前を書きました」
『一日の業務委託でしょう』
「名前があるなら、当日の仕事はできます」
『そういう意味じゃありません』
分かっている。
それでも、引けば明日の進行表どおりに現場が動く。
カリンの声が、少し強くなった。
『次の現場には来ないでください』
あの日と同じ言葉だった。
「分かりました」
返すと、電話の向こうで息がほどける。
「撮影に参加するためには行きません」
『……はい?』
「現場進行の仕事をしに行きます」
『同じです』
「担当が違います」
『屁理屈です』
「否定はしません」
隣の席が空き、店員がテーブルを拭き始めた。何度往復しても消えない汚れがあるらしく、同じ場所を布巾で擦っている。
「明日、久世さんには何も言わないでください。ミアさんの進行表も、知らないふりをしてください」
『本気で、あの進行を続けさせるつもりですか』
「途中で切り替えます」
『何に』
「こちらの進行に」
『こちらって、誰ですか』
口を開いたまま、声が止まった。
今のところ、俺とカリンとミアしかいない。
救護班もスタッフも久世側で、権限を持っている人間は一人もいない。
拭き終わった隣のテーブルだけが、妙に白く光っていた。
「これから増やします」
『そんな簡単に言わないでください』
「簡単だとは思ってません」
カリンはしばらく黙っていた。
『……明日までは、何も知らないふりをします』
「ありがとうございます」
『納得したわけではありませんからね』
「はい」
通話が切れた。
スマホを伏せると、店内の音が一気に戻ってくる。
食器の重なる音。
レジの電子音。
入口で予約人数を確認する店員の声。
今から明日の現場へ行かない理由を並べても、どれも途中でミアの進行表に行き着く。
スマホを取り直し、会社の勤怠システムを開いた。
「……有給、足りるかな」
残り七日。
思っていたよりあった。
二回くらいなら、まだ修羅場が増えても休める。
増えるな。
鞄からノートパソコンを出し、テーブルへ置く。
久世から渡された進行表。
ミアが持ってきた進行表。
自分で作った安全管理用の予定表。
三つを画面に並べた。
久世の進行表を複製し、修正箇所を赤字で打ち始める。数行進んだところで手を止め、ファイルごと閉じた。
これでは、久世が作った流れの中へ安全策を差し込むだけだ。
新規作成を選ぶ。
ファイル名の欄に、当日進行表・第二案と入力した。
しばらく眺めてから、消す。
代わりに打ち込んだ。
全員帰宅用。
二次会なら、人数が増れても店を分ければよかった。
今度は、帰り道そのものを用意しなければならない。




