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9 西堀さんとベーカリーバイキング

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 ニートになって二か月が過ぎた。十一月になり寒さが本格化すると、僕は外を出歩くこともなくなり、深夜に目を覚ましてはひたすらスマートフォンを眺めるだけの生活を送った。目が疲れると眠るし、起きればスマートフォンに触る。食事は冷蔵庫に入っている食パンやソーセージを火を通さないまま食べた。どうしても野菜が食べたくなった時には、野菜室に入ったキャベツやレタスの手でちぎって食べた。葉物がない時にはニンジンを一本部屋へと持ちかえり、三日かけて齧った。砂糖と塩を小ぶりなボウル皿に盛り、枕もとに置いて指や野菜ですくって摂取した。糖分やミネラルには困らなかったし、栄養バランス自体は悪くなかったと思う。動くのが億劫なので、食糧調達はすなわちトイレに用を足すついでであり、空腹を感じてもトイレに行きたくなるまで我慢した。アルコールを摂取していないと気が狂う思いだったから、部屋の中にはビールの缶が山積された。問題が起きたのは十一月の半ばだった。一週間ぶりのシャワーを浴びて、風呂上りに鏡を見たときに、恐ろしいほど顔が膨らんでいた。最初はアルコールと運動不足でむくんでいるのかと思ったが、次の日目覚めたとき(つまり夕方)にもう一度鏡を見ても首の下や頬の周りの丸みは解消していなかった。

 メールというのはいつも見計らったようなタイミングで来るものだ。その日の夜、西堀さんから呼び出しの連絡があった。「たまにはそちらから報告しようという気になりませんか(半ギレ)」との事だった。僕は一週間後に設定し、せっせと筋トレやランニングをして体重を戻そうと躍起になった。


 ベーカリーバイキングはこれまで来たしゃれた飲食店よりも、主婦層が多かった。子連れではないので、ママ友同士でランチをしているのだろうか。次に多いのは女子同士、その次が恋人たちだった。百貨店の地下にしてはかなり大き目の店舗で、入り口横の案内板に禁煙128席、喫煙47席とあった。白木作りの机が並ぶ中、僕と西堀さんのテーブルは取り放題のサラダを満載した皿で埋め尽くされた。僕は絞り切れなかった腹の肉を撫でた。

「ニートの生活がうらやましいと言ったけれど、一部撤回するわ。ニートといえど、目標を持たなくてはいけないわね。残さず全部食べるのよ。いい?私と同じように食べるの」

 西堀さんは背筋を伸ばしながらせっせとサラダを口に運んだ。ほんの少しドレッシングを掛けたレタスやキャベツやらよく分からない小さな葉物野菜をノンストップで食べ続けている。時折、うん、とか、むぅ、とか言って眉を上げてうなずいたりしている。西堀さんは野菜に関しては食欲旺盛だった。その仕草は寄木よりよっぽど草食動物みたいに見えた。タテガミが細くやわらかな葦毛の草食獣…。

「でもよかったじゃない、寄木くん、晴れてニートになれて」西堀さんが言う。僕は自分の皿へ目を移す。

「ニートになるのはめでたくないよ」

「私にとってはめでたいの」何でもないように西堀さんは言う。「とにかく、やり直す機会があると言うのはいい事よ。私も早くドロップアウトして仕切り直したいものだわ」

「西堀さんはまだ辞めないのかい」僕はフォークを持ってレタスに刺した。

「今辞めても出ていく先がないでしょ。いいからさっさと食べなさいよ。私次取りにいくわよ」西堀さんは三皿目を片づけて言う。まだ食べるのか、と僕は思う。

「そんな事より、問題は平内さんね」西堀さんはグラスの水を一口飲んだ。喉が上下に動く。「彼女、なかなか手ごわいかもしれない」

「何か言ってるの?」僕は言う。確か平内さんは、社内紛争があって、契約社員が辞めて、仕事のしわ寄せが来ててしんどいって話だったはずだ。

「何も言ってこないのよ。こちらからまず連絡してみたんだけど、返事がロクに来ないの。寄木くんもフリーになったことだし、また四人で集まって飲みに行きましょうよ、って誘ったんだけど、いつに設定しても都合がよろしくないの。彼女、なかなか難しいところあるでしょ。人あたりはいいけど、本心は出さないっていうか、一線を引いてるというか。最近、その一線が曖昧になって、素が出てきているって言ったらいいのかしら」

「メッキが剥がれてきてる?」と僕は言ってみた。

「そんな風に言って無いでしょ」西堀さんは語気を強めた。「何?あなたも平内さんと連絡取ったの?」

「いや、特に何も」何かあったのはもう二年以上前だ。一緒に学校から帰って、話が盛り上がらなくて、別れ際に平内さんが溜息をついた。何だかそんなことをまだ気にしているなんて馬鹿馬鹿しいけれど、いまだに記憶に残っている。

「でもま、メッキというのはあえて否定はしないけど」西堀さんは小声で言って口元を紙ナプキンで拭った。「それでね、ひとつ提案があるんだけど」

「僕が平内さんを説得しに行くの?緊張するなぁ」

「そんなの逆効果よ」西堀さんは言いきる。はぁ、そうすか。

「あなた、大学時代のSNS、まだアカウント残ってるでしょ」

「まぁ確かに、最近ずっと更新してないけど」

「あれって、誰が閲覧したか、履歴が残るようになっているじゃない。それでね、平内さん、毎日のように私のところに見に来てるのよ。ほら、わたしSNSに練習がてらちょっとした文章を載せているじゃない」

 西堀さんは大学時代から一貫して詩のような、短い散文のようなものを書き続けている。実生活では何の役にも立たないが、こういったSNSの世界は短文で成り立っているようなものだから、美しい文章を書く彼女のアカウントはフレンドがずいぶん多い。サークル内でも人気者だったが、規模や質でいえば、SNSの世界の方が彼女は顔が広かったし、親密な関係を築いているようだった。

「彼女、たぶん私だけじゃなくて、同じサークルだった人や高校時代の友達なんかにも足跡を残して回っているのよ。心が辛い時、知っている人が何をして、考えているのかって、見るだけでちょっと励みになるでしょ。頑張ってたり、苦しんでたり、怠けてたりするのを眺めるのって」

「そうかもしれない。昔、ブログを開いたりするのって、バイトで疲れてる時とか、一日の終わりが多かったかも」

「でしょう?」彼女は自分の説が支持されて満足げに胸を張った。胸の形が強調されて、僕はぼんやりと喉から胸元に掛けて眺めていた。

「それで、お願いだけど、SNSに下山くんのいまのニート生活を書いてアップしてほしいの。太ったとか、むくんだとか、そういうのはいいのよ。何時に起きて、何して、それについてどう思うか。そうね、結びに明日は○○しよう、なんて書くといいわね。短くていいの。四行か五行でいいわ。そしたら必ず平内さんが反応するはず。少なくとも閲覧履歴は残るわ。そしたら私に連絡を頂戴。もういちど平内さんを誘うわ。下山くんも来るけど、どう?って」

「うまくいくものかな」僕が言う。

「そういうキャラだもの、間違いないわ」西堀さんが言う。


 僕は西堀さんの言うとおり、その日のうちに手短に文章を書いた。寝てしまうとまた怠けて手を付けなくなりそうだったからだ。内容はこうだ。

「会社を辞めて二カ月たった。寝て起きてビール飲んでスマホを見ている。いろんな変化があるけど、とりあえず夕方に目が覚めるようになった。一か月前までは夜の散歩をしていたけれど、今では風邪を引きそうでそれもできない。ある人から、ニートも目標を持つべしと言われた。僕はニートなんだろうか。明日は塩の皿に塩を補充しなくては」

 次の日、大学時代のサークル仲間やバイト仲間から八件もコメントが付いていた。多くは仕事を辞めた事への驚きだったが、大抵は塩の皿とは一体何なのかというツッコミだった。西堀さんもコメントをくれた。そして目論み通り、平内さんも閲覧した。彼女はコメントも残した。

「なんだか良い生活だね」

 やはり仕事が辛い人には憧れに見えるらしい。

 西堀さんから飲み会の日時の連絡があったのは次の日の朝だった。僕は眠気に漂いながら、平内さんを引っ張り出す事に成功した西堀さんの勝ち誇った笑顔を想像した。


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