10 平内さん、ゴミ箱があったら蹴り上げかねない勢い
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飲み屋の個室席の壁に背を預けながら、平内さんは眠いのだか不満なのだか分からないような顔で佇んでいる。四人でスペイン料理のバルに集まったものの、平内さんは徐々にトーンダウンし、三十分もしないうちに今のように茫然としてしまった。ターミナル駅の時計台に集合した時には、彼女はいつも通りに見えた。気安くて明るい、人当りのいい平内さん。西堀さんと平内さんが先を歩き、僕と寄木が後から続いて歩いていたけれど、その時も当たり障りのない話をしていたように見えた(僕と寄木はニートになって自慰の回数が増えたか減ったかについて語り合った)。それから、席についてボトルで白ワインを頼み、ひと口、ふた口と飲む間に彼女はだんだんテンションの高度を下げていき、ついに彼女の素性の湖へと不時着してしまった。かつて、サークル内で大勢の飲み会を開いたとき、彼女が座敷の隅でこんな風にグロッキーになっていた。
隣に座った西堀さんも気を使って声を掛けるけれど、その瞬間だけはふっと景気の良いテンションになり、すぐに元の茫然とした状態に戻った。話題も西堀さんとこの店に歩いて来るときに全て出し尽くしてしまったような感じで、自分から発信して何かを語る事はなかった。こんな状態なので、改めて僕と寄木がニート生活ぶりを疲労して彼女を誘惑するというのも気が引けて、仕方なく寄木の近代日本史トリビアを延々聞いている状態になった。場にふさわしいトークテーマが見つからない時、寄木のようなオタク気質の人間がいてくれると助かる。場の空気なんて関係なしに、自分の好きなテーマを好奇心たっぷりに語り続けてくれるのだから。
西堀さんがスマートフォンを片手に席を立ち、「ちょっと席を外すわね」と言って個室から出て行った。電話だろうかと訝しげに後姿(と綺麗な長い髪)を眺めていると、平内さんが身を乗り出した。
「ねぇ、下山くん、寄木くん」彼女は目が座っている。「今ニートなんでしょ」
聞いたことのないぶっきらぼうなトーンに、寄木も僕もうろたえた。僕は女性の二面性というのに弱い。恐怖すら感じる。寄木が、まぁ、うん、そうだね、と僕を見ながら答えた。
「じゃぁさ、今の生活のこと聞かせてよ」平内さんはますます押しが強くなる。
平内さんはかつて、サークル内では先輩の女子からは嫌われ、後輩の男子からは好かれる「取り繕い系女子」だった。人工的な気さくさや媚びたような可愛らしい振る舞いは、付き合う人を選んだけれど、基本的には大人しい女の子だったし、何よりキーボードの腕前は有能だった。めざとい先輩女子がいなくなってからは批判の対象になる事はなく、全体からの印象としては気のいい部員の一人だった。自分から積極的に発言はしないけれど、誰かがジョークを言うと笑顔と笑い声を場に添えてくれるようなタイプだ。目の前にいる様な、やさぐれた表情は今まで見たことがない。
「んんん、何から話せばいいんだろう」僕は言う。寄木は曖昧に笑っている。
「じゃ、塩」平内さんが言う。「塩って何?」
塩?と僕が頭の中でつぶやいた後で、それがSNSに書いた塩の皿の事だと気づいた。
「あれは塩分摂取用の皿なんだよ。枕もとに置いて、たまに指ですくって舐める」
「は?何でそんなことするの。宗教?」
「動きたくないからさ。食事の為にダイニングへ行ったり、母親と気まずく飯を食ったりするのが億劫だから、自分の部屋でなるべく済むようにしてる」
「それだって、塩なんてお腹にたまらないじゃん」平内さんの言葉使いは、普段の気さくさが取り払われると、なんだか男言葉のように聞こえる。そういえば彼女は弟が一人いたはずだ。
「冷蔵庫から食パンや生野菜やビールをくすねてきて、それを部屋に持ちかえるんだよ。それで間に合わせみたいにお腹を満たす。でもそんなことしてると、意外と塩分って摂らないもんなんだ。ただでさえビールでトイレが近くなるし。それで塩が恋しくなる」
「うそ、塩辛い物が食べたいなんて、入院患者じゃあるまいし」平内さんが愉快そうに軽蔑する。
「似たようなもんさ、塩が不足するとね、本当に喉が渇いたみたいに目が血走ってくるんだ。最初はどうすればいいか分からなかった。片っ端から冷蔵庫のものを口に入れたね。納豆を食べようとタレの袋を破った時、タレが指に飛んだんだ。それを舌で舐めとったら、もう、うまいのなんの。しょっぱ、何コレうまい、ってなって、これだって分かったんだ。そっからは、もっぱら塩の皿の出番だね」
「おかしい」平内さんは頬とお腹に手を添えてかすかに揺れながら笑っている。取り繕っている平内さんよりもずっと品はなかったけれど、魅力的に見える。僕らも合わせて笑っていたが、平内さんは途端に顔をりりしくして、寄木を真っ直ぐ見据えると、机を叩いて詰め寄った。
「ほら、寄木くんも何か話そうよ。エピソードあるでしょ」
僕らは再びたじろいた。寄木は母に料理を部屋まで届けてもらい、食後にキッチンまで食器を返すときに洗ってから帰るという事をしているようだった。母は息子を早々に部屋に帰らせないために、ダイニングテーブルにデザートを置いたり、週刊漫画の最新刊を置いたりして、なるべく長くいさせようとするそうだ。それを持って帰ろうとすると母は怒るので、なるべく早くデザートを食べ、早くマンガを読み終えようとするのだが、母も色々と趣向をこらして長引かせようとするので最近いたちごっこになっているとの事だった。平内さんは寄木を散々馬鹿にした後で、ぼそっと「うらやましい」と呟いた。彼女の両親は別居中との噂を聞いたことがある。
西堀さんが席に戻ると、平内さんはまた徐々にテンションを下げ始め、元の茫然としたたたずまいに戻ってしまった。自分が真夜中に貨物列車を傍観するエピソードを話しても、相槌をするくらいで特に目立った反応はなかった。タイミングを見てトイレに行くと、スマートフォンにメールが入っていた。西堀さんからだった。
「彼女、私がいない時はどんな感じ?」
送信時間は、彼女がちょうど席を外したあたりだった。彼女はわざと三人で会話する時間を作ったようだった。
「やたらニートの生活ぶりに食いついてた」と僕は入力して、しばらく追記したり、消したりしていた。
「やたらニートの生活ぶりに食いついてた。まだ働いてる西堀さんに負い目があって、辞めるって言い出しにくいのかな」
と書いてみて、これじゃ西堀さんを暗に批判しているみたいだと思い、書き直した。
「やたらニートの生活ぶりに食いついてた。これなら、帰りに平内さんに探りを入れられるかもしれない」
と書いて送信した。
西堀さんは店を出る前にメールを見たようで、店の前で解散する時に、寄木の袖を引っ張って「お先に」と言って行ってしまった。何も知らない寄木は酷くうろたえていた。僕と平内さんは茫然としていたけれど、僕が「帰りますか」というと、平内さんも「帰ろっか」と応えた。
ガード下の飲み屋街を駅まで二人で歩いていく。夜九時過ぎの電車のダイヤはまだまだ敷き詰まっている様で、数分おきに登りや下りの電車が通り過ぎる。周りはスーツよりも私服の若い大学生から社会人くらいの面々が多い。そういえば今日は土曜日だった。
「今日大丈夫だった?妙に疲れてそうに見えたけど」僕は言った。
「そう?ごめんね、空気わるくしちゃったよね」平内さんは言った。
「いいよ、そんなの」
「別に、西堀さんに腹が立ってるとかじゃないの。ただ、何となく素の部分を見られたくなくて」
「その気持ちは何となく分かるよ」なんとなく分かる。彼女の自然な優雅さの前では、平内さんの人工的な気さくさは後ろめたいかもしれない。「それより、やっぱり仕事はつらそうだね。前の飲み会でも、結構壮絶な状況だって言ってたし」
平内さんは肺の空気を総入れ替えするような深いため息をついた。僕は彼女のため息に反射的に怯えたが、この時のものは以前とトーンが違った。気詰まりというよりも、張りつめた胸の内圧を抜くようなものだった。平内さんはそのまま何も言わず、歩いている。僕もかけるべき言葉が見つからず横を歩く。
「ね、ちょっと吐きだしていいかな」平内さんは控えめに僕の袖を掴んだ。僕はとっさに後ずさりかけたが、何とか自分を押しと止めてリアクションを取らずに済んだ。こういう弱みを出すところも、振る舞いなのか素なのか、中々判断が付かない。
「結構最悪なこと言うけど、壁に話すつもりで言うから、気にしないでね」
「構やしないよ。俺なんてニートだし」
「ふふふ、それもそっか」平内さんは力なく微笑んだあと、うつむいて目を半分閉じたように脱力させて、語り始める。
「それで、会社の事だけど。あたし、すげー嫌われてるの。それなりに仕事は頑張ってるんだよ。自分で言うのもあれだけど、数学とか指の細かい動きとかそんなに苦手じゃないし、事務仕事の数字入力なんかは割と苦にしないの。あと、電話応対とかね。丁寧語とか、決まり文句とかをちゃんと言ってれば、そんなに問題にならないじゃない。ああいう、立場をわきまえて話す言葉って、私得意なの。でも、社内向けはだめ。あれって何なんだろ。親しすぎてもいけないし、かといって仕事付き合いでもいけないし。がんばって周りに合わせて場を壊さないようにしてるつもりなのに、なんか気に障るらしくって、あたしばっかり仕事を押し付けられてる。あなた得意そうだし、よかったらお願いしてもいい?なんつって。はぁい、わかりました、って言うけど、よくねぇよって。その人あたしよりずっと職歴長くて、歳も四十近いってのに。なんだよ良かったらって。昼ご飯も一人で食べてるし、残業も私だけが残ってる。男の営業の人は特に助けてくれない。もとはと言えば、営業の課長が悪いのよ。この人は五十歳前の巨体なおじさんだけど、気は小さいの。仕事はできる、人当りはいい、けれど内弁慶。なるべく責任を取ろうとしないで、すぐ事務の女の子に仕事を任せようとする。事務の女の子たちが仕事の量を減らしてほしいとか、人を増やしてほしいって言うんだけど、取り合わないのね。上司がそんな感じだから、部下のやり方も事務に任せる方向になっちゃうじゃない。下手に事務の女の子たちが有能だったから、それで回ってっちゃったのよ。課内の業績も良くなってるしさ。それで喧嘩になっちゃって、契約社員が一斉に辞めたの。どうだ、困るだろ、せいぜい苦しめって。困るのは私のような下っ端社員だっつーの。たまった仕事をそっちのけでさっさと先輩たちが帰るものだから、営業の人が私を捕まえてやらせようとするの。何とかお願いできないかな、とかお菓子片手に。断れるわけないじゃない。でも、それが原因で今の私は周りの女性社員からぼっちなの」
平内さんは首を振って、大きな声で、ぬわあ、と叫んだ。近くに自販機のゴミ箱があったら蹴り上げかねない勢いだった。
「最近、目が覚めるといつも眉にしわが寄ってる。意識がない時から、ストレスで緊張しているみたい。意識がはっきりしてくると、そのまま目を開かずにじっと暗闇の中で耐える。自分の中にすごく嫌な気持ちがあって、何とかそれをなだめすかせるまで、じっと待ってる」
「嫌な気持ち」僕は言った。
「そう、嫌な気持ち。もうなんていうか、どうせあたしなんて誰にも好かれねぇよ、とか、誰にも会いたくねぇし、何にも話したくねぇわ、とか。正直言うと今日だって、何で休日なのに人と会わなきゃいけねぇんだよ、って思ってた。ふふ、最低だね」
「ねぇ、平内さん」僕は言う。
「軽蔑した?」平内さんが言う。
「いや」僕は平内さんが掴んでいる袖を少し揺らした。「僕が言える事はひとつだけだよ」
「なあに」
「一緒にニートになろう」
平内さんは僕の腕を薄い胸に抱き寄せた。
「いいね、そういうの大好き」
僕は一人になった帰りの電車の中で、西堀さんにメールを送った。彼女、相当堪えてる。可能なら仕事を辞めたいと思ってるように見えた、と。西堀さんは喜んだし、彼女も彼女で寄木のねじを締めておいたようで、引っ越しやら家族への説明やら、当面の収入を得るバイト探しやらの進行計画を作らせたとの事だった。寄木のお尻を叩くのは、僕より彼女の方がよほど適役だったろう。
僕らがこれから始めようとする共同生活が、社会的にはどんな見方をされるにしろ、ひとまずは明るい第一歩のように思える。ねじ曲がってしまった心を元に戻して仕切り直すには、一人よりも同世代で共同戦線を組んだ方が監視にもなるし、競争になっていいかもしれない。平内さんが今日の話でずいぶん仕事を辞める方向に傾いたように思えるし、年明けには引っ越しになるかもしれないな、などと考えた。具体的じみてくると、肩の力が抜ける思いがした。




