第六章 父たちの島 1
六月五日に平戸へ戻るとすぐ、イートンはジョアンの遺骨を家族のもとへ届けさせてくれるようにとコックスに頼んだ。
「俺をあの子の故郷の村に行かせてください。あの子の父親に謝らなければ」
「ミスター・イートン、君の気持は分かるが、まずはあのお嬢さんに報せなさい。――もちろん、辛いなら私から報せておくが」
コックスの口調は年長者らしい労りに満ちていた。
イートンはそのとき初めて、カメシャムのことを思い出した。
松東院にはミゲルも同行した。
正門の門番に取次を頼むとすぐに離れに通された。
風通しのよい板の間だった。
さほど待つ間もなく於亀が呼ばれてきた。
「エスクリヴォよう、御無事のお戻りで」
両手をついて深々と頭をさげる娘の髪が赤い組紐で束ねられていた。イートンは乾いた唇を舐めてから、同じように手をついて頭を低めた。
「カメシャム。アイスマヌ。ジョアン。イヌル」
ぎこちない日本語で告げるなり、於亀が顔をあげ、零れんばかりに目を見張った。
「死ぬる? あん子が? 増吉が? 何でそがん」
「――飯香浦でエスクリヴォが肥後者に襲われての」と、ミゲルが説明した。「弟御はあるじば守った。みあげた忠義やと飯香浦ん御奉行様にもお褒めにあずかった」
「御奉行様が」
於亀が繰り返した。ミゲルが頷いて話を続ける。
「こん通り、手負いやというのに、エスクリヴォは父御に形見ば届けると言うてきかん。松東院様んお許しば得られたら、春日まで案内ば頼めるか?」
訊ねられるなり於亀の顔が強張った。
殆ど恐怖に近いような顔だ。イートンは慌てていった。
「カメシャム、もし難しいならいいんだ。道を教えてくれれば、私が一人で行くから」
ミゲルが英語を通訳する間に、於亀の表情から怯えが薄れ、代わりに深い覚悟のような、何かを思い定めたような表情が浮かんできた。
話が終わると於亀はまっすぐにイートンを見据えていった。
『エスクリヴォ。来い。パードレのところへ』
パードレという言葉を、イートンは勿論彼女たちの父親を指すと理解した。
於亀に許可が必要なため、イートンは一度商館へ戻った。ミゲルのほうは松東院でまだ何か用があるらしい。夕方に於亀自身が出立の予定を報せにきた、
『エスクリヴォ、明日の朝来い。春日に行く』
於亀は何度も練習してきたようなポルトガル語で告げた。もしかしたらミゲルが教えたのだろうかと思うと苛立ちを感じた。
見れば於亀の艶やかな黒髪は黒っぽい紐で束ねられていた。弟の喪のためだと分かっていても心がざわつく。門を出る背を見送りがてら、イートンはついにこらえきれずに言った。
『カメシャム。ギリンだ。俺はギリンだ』
於亀は振り返らなかった。何か酷く思い悩んでいるように、顔を俯け、細い肩を落としてとぼとぼとした足取りで波止場へ去っていった。
翌朝、日本風の旅支度を調えて母屋を出ると、戸口の傍でリックが待受けていた。手に小さな白い薄紙の包を持っている。イートンが何と声をかけようかと躊躇っていると、少年がその包をずいと差し出してきた。
「エスクリヴォ、飴だ」
「飴?」
「俺が初めてここにきて毎日泣いていたとき、ジョアンが自分の給料で買ってくれた。俺は一人で全部食べた。とても高い飴なのに」と、リックが唇を歪めてうつむく。その仕草がジョアンにそっくりだった。
「俺はお松様の手伝いをして小遣を稼いで、ジョアンが帰ったら昇進の御祝にこの飴をやろうと思っていたんだ。だから家族にあげてくれ。ジョアンの姉さんや父さんに」
「分かった。必ず届けるよ。ジョアンの親友からだってね」
頭を撫でようとするとリックは体をよじって逃げた。そのまま母屋へ駆けこんでしまう。ややあって激しい泣き声が聞こえた。
イートンはそのとき初めて実感した。
ジョアンは死んだのだ。
あの子はもう二度と戻って来ないのだ。
重い足どりで門を出て波止場へ向かっていると、はす向かいの中国人頭領の屋敷の前へと卵の籠を抱えて向かってくる老婆が足を止め、目を見開いたかと思うと、干し柿のような顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
『エスクリヴォ! もう怪我はいいのか?』
『あ、ああ。有難う』
狼狽しながら礼を言うと老婆はますます笑い、まだ生暖かい卵をひとつ無理やり手に握らせてきた。
イートンは三年半前、初めてこの平戸に降り立った夏のことを思い出した。
できたばかりの商館の食料係として、朝夕町中を歩き回っては、少しでも安く良い品を買おうと躍起になっていた頃のことだ。
その頃、イートンは、平戸での物の値段の相場を覚えるために、いつも筆記用具を携帯して、卵でも魚でも甜瓜でも、買うたびに値段を書き入れて一覧表を作っていた。初めは胡乱そうに見ていた町人は、そのうちにイートンがメモを取り出すと白い歯を見せて笑うようになった。
そしてある日呼ばれたのだった。
――書記官! 今日は魚が安いぞ!
俺はあのとき心平戸を好きになったのだ――と、イートンは初めて気づいた。
ずっと辿り着きたかった何処かにようやく辿りつけたような気がしたのだ。
それから大阪に行った。あの大きな輝かしい町、美しい品を愛する商人たちの町で初めの仕事を覚えた――
波止場を抜けて漁師町を抜け、大久保の馬場へと続く坂道の口へ至ると、荷物を背負った於亀が同輩たちに囲まれていた。少し離れた辺りにミゲルも待っている。イートンは愕いた。
「ミゲル、君も行くのか?」
「途中の集落まで手紙を頼まれた」
「ドナ・メンシアから?」
「いや、ドナ・メンシアではない」ミゲルは口を濁した。と、於亀が顔を向け、妙にきりりとした声で云った。
『ギリン。よく来たな』
その声は凛然としていた。
何というか、これから戦場へ赴こうとする若い騎士みたいな凛々しさだ。
イートンは混乱した。
女心というものはどうもよく分からない。
なんだか俺とは何の関係も無いところで激動しているかのようだ。
「エスクリヴォ――」
ミゲルが控えめに声をかけてきた。「訊いていいのか分からないが」
「何だい?」
「その卵は何だ?」
「ああ、これは――」イートンは何か答えようとして諦めた。「まあね、卵だよ。そこの娘さんたちの誰かが貰ってくれないかな?」
「通詞どん、ぎりん、急ぐぞ! 暮るるまでに中野へ着くとじゃろ!」
坂の先から於亀が促す。
ミゲルが慌てて卵を受取り、じっとこちらを見ている娘の一人に渡してくれた。




