第五章 わき役たちの道行 四
イートンが最後に覚えているのは肩の真上に振り上げられた白刃の輝きだ。
次に意識を取り戻したときは闇の中だった。
頭の右がずきずきと痛んで酷い渇きを感じた。左の二の腕は痛いというより熱い。触れてみると包帯が巻かれていた。少なくとも治療はされているようだ。
着衣と持ち物を確かめると、巾着もあったし矢立もあった。命の次に大切な衣装櫃の鍵も革紐に吊るして首に架けられたままだ。
しかし腰のナイフと、ジョアンから借りた脇差はなかった。
「――で、此処は何処だよ。地獄の最下層か?」
掠れた声で呟いたとき、扉の開く音に続いて明かりが現れた。
日本風の紙張りの提灯だ。
黒で五弁花の紋が入っている。
大村の紋である。
イートンはほっとした。
どうやら奉行所らしい。
提灯を手にしているのはまだ若そうな侍だった。光が広がると自分が何処にいるのか分かった。
牢獄だ。
窓ひとつない。
左手に太い角材を並べた柵が嵌まっている。
奥に用便のためらしい蓋つきの桶があった。
『生きているかイギリス人?』
若侍が生硬なポルトガル語で訊ねた。イートンは頭を押さえながら頷いた。
『辛うじて。水をくれ。私はあの若い肥後人を殺したのか?』
『彼はまだ死んでいない。しかし、仲間たちは怒っている。貴方は此処にいろ。外に出ると殺される』
『分かった。仕方がない。私の木材はどうなった?』
『奉行所が護っている。貴方の船も』
『有難う。助かるよ』
『この港は無法な土地ではない。しかし、手が足りない。貴方は長崎に友人がいるか?』
『ああ』
『では手紙を書け』
『何と?』
『人出と武器を寄越してくれと』
『分かった。紙とペンを貸せ。私の通訳は無事か?』
『ああ。船にいる』
イートンは安心した。
やはりジョアンは巧くやってくれたらしい。
イートンは奉行所に請われるまま長崎の天野屋に手紙を書いた。馴染みの宿主は災難を気の毒がってかなりの数の傭兵を寄越してくれたらしい。後で来る勘定書を思ってイートンは暗澹たる気持ちになった。
若侍の説明によると、肥後人たちは川向こうで徒党を組んでイギリス人を渡せと要求しているらしい。
『大村で起こった事件は大村の領主が裁くのではないのか?』
『領主はいない。駿河にいる。平戸の領主もいない。肥後人たちは怒っている。貴方をどうしたらいいのか私には分からない』
『困ったな。奉行と話させてくれよ』
『奉行は私だ』
若侍が絶望的なことを言った。
イートンは打開策を考えようとしたが、肩の傷が疼いてどうにも考えがまとまらなかった。暗がりの中で自分の糞尿の臭いに包まれていると、六〇〇〇テールという数字ばかりが頭の中を駆け巡った。
そうして三日が過ぎた頃、若侍が難しい顔で牢獄へと降りてきた。
『イギリス人、平戸からカピタンが来た』
『商館長?』イートンは肝を潰した。『まさか、本当に?』
「悪いけどウィル、キャプテン・コックスじゃないよ」
不機嫌な声で告げながら現れたのは、これから宮廷にでも伺候しそうな身形の大柄なヨーロッパ人だった。
幅広のレースで縁取った真白い襟と真紅の羅紗のダブレット。
リボン飾り付きのバーガンディ色のブリーチズに白い絹のストッキングを合わせて、磨きたてられた黒い革のブーツを履いている。
極めつけは帽子だ。たっぷりカールさせた駝鳥の羽根付きの大きな赤い帽子。
その下に見慣れた楕円形の顔があった。
「――ビル・ネルソン?」イートンは呆気にとられた。「君何しにきたんだ?」
「何ってそりゃ、君を助けにさ。俺が助けに来ちゃいけないってのかい?」
ネルソンは拗ねた子供のように言い、ふと思い出したように、手にした平たい木箱の蓋を外した。「あと蝋燭を届けに。長崎のジョルジュ・デュロワからのお見舞いだよ。一〇〇本あるから、使った分だけ後払いでいいってさ」
ネルソンが言葉を切り、背後に妙に恭しく控える若侍に命じた。
『奉行。燈。貸せ』
――は。
ネルソンをよほどの身分の存在だと誤解しているのか、若侍が恭しく答えて提灯を差し出してくる。ネルソンは細い蝋燭を一本取ると、蝋燭の火を移して柵の間から差し入れてきた。
「点けておきなよ。暗いと気が滅入るだろう?」
「有難う」
思わず受取って床に据えると燈火が丸くなった。
柔らかく煙るサフラン色の明るみが土壁を照らすと、自分自身の長い影が伸びて折れ曲がった。
「ウィル、傷の具合はどうだい?」
「もうだいぶいいよ。熱も下がったし」
「熱があったのか?」
「少しだけね」ぎこちなく答えながら、イートンは改めて柵の隙間からネルソンの盛装を眺めた。「しかし君、こう、何と言うか――」
「いいよ、何も言わなくて」ネルソンが気まずそうにレース襟をひっぱる。「似合っていないのは自分でよく分かっているから」
「いや、似合っているよ。君背が高いしさ、似合ってはいるんだよ。そこの御奉行様だって商館長だと思っているみたいだし。でもさ、どこかの王様の宮廷にあがって領地を拝領するってんならともかく、牢屋に蝋燭を届けにくる格好としてはちょっとどうかと思うんだ」
「俺だってそう思うけどさ、できるだけ豪華な服装で来いって主殿様に命令されちまったんだよ」
「主殿さま? あの貴公子がなんで命令を?」
「あれ、聞いていないの?」
ネルソンがギョッとしたように言う。「君が捕まっちまったって報せを王の館に伝えにいったら、主殿様がすぐに王家のガレー船を用意してくださってね、侍たちをのせて俺をここまで送ってきてくれたんだ」
「え、じゃ、まさか、今外には主殿様がいるのか? 武装した兵士をつれて、平戸の旗を立てて?」
「何とそうなんだよ!」
ネルソンが嬉しそうに答える。
「イギリス人は平戸に住んでいるんだから、何処で何をしたにせよ平戸の法で裁くって仰ってさ。あの鸚鵡と金魚のことしか頭になかったお馬鹿な王子様がだよ! 貴公子も成長するもんなんだね。俺はもう感動しちまって――」
ネルソンが目を潤ませながら言う。
「――感動している場合かよ!何やっているんだ、あの若い放蕩者は!」
イートンは思わず怒鳴った。
「ウィル、君いきなり何怒っているんだ? 奉行も吃驚しているぞ?」
「俺はその若い奉行に心底同情するね! いいかビル・ネルソン、ここは大村領なんだぞ? 首都で皇帝が死にかけていて、領主が留守にしていて、そういう情況で、隣国の旗を立てて武装したガレーがこぎつけてきたとなったら、そんなの殆ど侵略じゃないか! 日本の王同士の勝手な戦争は駿河の宮廷が禁じているんだぞ? 皇帝が本当に死んでりゃ問題ないが、いつもの誤報だったらどうなる? あの美しい平戸の港が万が一にも皇帝軍に焼き討ちにされるなんてことになったらどうするつもりなんだ……! あ、イタ、イタタタ……」
うっかり拳を振り上げてしまった。
左の肩が痛い。
奉行がぎょっと目を見開いている。
ネルソンが苦笑した。
「さすがにウィルだなあ。地下牢に閉じ込められているのに俺より世の中が分かるみたいだ。でも、たぶん大丈夫だよ。主殿さまご自身にも大村領に急な御用があっただけで、そっちの用はもう済んだから、君を護れるだけの侍を奉行所に預けたらすぐに平戸へお戻りになるそうだかた」
「じゃ、武力で無理やり対岸にいる肥後人を黙らせるつもりじゃないんだね?」
「まさかそんなことはないよ! キャプテン・コックスの案でね、俺はこれから奉行と一緒に肥後に行くんだ」
「肥後の王は、もしかしてもう駿河から帰っているのか?」
「そうらしい。だからじかに訴えるんだ。君が肥後人を殺したのは自分の身を守るためだったって」
「――死んだのか、あの若者は」
「ああ。でも、それは仕方ないよ。トメに話を聞いたけど、初めに襲ってきたのは肥後人のほうなんだろ? 君は確かにちょっとばかり相場より高く木材を買ったらしいけど、それだって港の法に触れるやり方じゃなかった。そういうことをきちんと訴えてさ、釈放をお願いするんだ」
「そううまくいくかな? 現に肥後人が一人死んでいるんだし、逆に俺の引き渡しを命じられちまうかも」
「うん。その危険はあるんだけどね」ネルソンがうつむいた。
「やっぱり嫌かい? こんな頼りない俺なんかに命を預けるのは」
「まさかそんなことはないよ!」
イートンは咄嗟に答えていた。
いってしまってから今しがたのネルソンの口調そのものだったと気付く。気まずく口を押えると、ネルソンが肩を震わせて笑った。
「それなら任せておけって」
ネルソンが柵の前に膝をついて手を差し入れてきた。握るとしっかり握り返された。イートンは眦が熱くなるのを感じた。
「――ビル。有難う」
「気にするなって。友だちだろ」
ネルソンは笑って立ち上がった。
「それじゃウィル、無理をするなよ? たまにはゆっくりやすんでいろ」
ネルソンが優しい言葉を残して去ったあとにも、床に据えた蝋燭はまじろがずに燃えていた。
柔らかなサフラン色の明るみを眺めるうちに、イートンは心の奥に凍っていた冷たい塊がゆっくりと溶けていくのを感じた。
――そういえば今は何日なんだろう?
いいや、もうそんなことは、とイートンはくたびれた子供のように思った。
六〇〇〇テール?
新天地の人生?
未来の夢の子供?
そんなものはいらない。
俺にはここに友達がいる。
それだけで十分だ。
――あの黄金は、やっぱりそのうちバンタムで潰して金属にしちまおう。
十六ポンドの金塊だ。それだって相当の利益になる。
だから、この冒険はハッピーエンドだ。
俺はまだ何も失っていない。




