第三章 難波の夢 三
総会議が終わると、アダムスはすぐに川内港へ戻っていった。シー・アドヴェンチャー号は北西モンスーン期が訪れたらまた暹羅へと出航する予定で、修理の日程が立て込んでいるのだ。エド・セーリスとウィッカムは、次の四半期決算日であるミクルマス前後まで平戸に残ることになった。
ウィッカムは平戸市内に何故かとても贅沢な私邸を構えているが、若いエド・セーリスは商館に滞在する。二年前に来航して商館を設置していったイギリス船クローヴ号の船団司令官ジョン・セーリスの縁戚であるエド・セーリスは、いついかなるときも最上の個室を与えられる暗黙の特権を有している。
盆が明けてマティンガが帰ってくると母屋の部屋が足りなくなったため、イートンとネルソンがしばらく同室で寝起きすることになった。
「よろしくなウィル。君と一緒なら気楽でいいよ。エド・セーリスの奴は気取り屋だからなあ」
「こっちこそビル。仲良くやろうな」
そんな具合に和やかに始まった同居生活は、一日目の夜にしてぎくしゃくし始めた。ネルソンは私室でのんびり寝酒を楽しむ習慣があるのに対して、イートンは夜でも行燈を点して帳簿付をする習慣があったのだ。
「おいウィル、頼むから夜は寝てくれって! 油が勿体ないだろ?」
「君こそ寝酒はほどほどにしろよ。大体この帳簿は本来君の仕事なんだぞ?」
「それなら放っておいてくれって。明るい昼間に俺がやるからさ」
お互いどうにも苛立たしい同居生活が始まってから五日目の深夜、母屋の扉が外から乱暴に叩かれた。
『カピタン、カピタン! 客だ! 開けろ!』
叩きながら大声で叫んでいるのは門番のペドロだった。そのときも行燈を点していたイートンが布団代わりの襦袢をひっかけて渋々出ると、扉の外に思いもかけない人物が待ち構えていた。
深夜だというのに豪奢な緑の絹のローブを纏って、左右に朱色の房のついた黒い帽子を被った小柄な東洋人だ。従者らしき少年を一人連れているだけなのに、大艦隊を率いる提督みたいに堂々としている。
名高い平戸の中国人頭領、李旦ことアンドレア・ディティスである。EIC商館はこの李旦から敷地を借りているため、イギリス人たちにとっては家主に当たる。イートンは慌てて襦袢の襟を掻き合わせた。
『これは頭領、夜中にどうしました?』
『五島沖にイギリス船を見た。すぐに商館長を呼んでくれ』
中国語と並ぶ平戸の国際共通語たる簡略化されたポルトガル語の「カピタン」には文脈ごとに様々な意味合いが付されている。唐人かぴたんに呼ばれたエゲレスかぴたんはすぐに現れた。後ろにエド・セーリスもいる。
〈やあアンドレア。イギリス船を見たのだって?〉
コックスがスペイン語で声をかけると、チャイナ・キャプテンも同じ言語で答えた。
〈五島の見張りから報せが来た。二日前、沖合二十リーグ辺りを、白地に赤い十字の旗を掲げた黒船が通ったそうだ。水先案内人を五人乗せて平戸へ向かっているらしい〉
〈ようやく第一の来航船か! 本当ならば実に喜ばしい報せだ。しかし、本当にイギリス船なのかな?〉
コックスの懸念は尤もだった。今は南東モンスーンから南西モンスーンへの変わり目、日本近海を荒れ狂う海の怪物たるかの台風の季節である。そんな時期にわざわざバンタムから平戸を目指してくる船は珍しいのだ。
〈もしかしたら、もっと近くの何処かから来た船がイギリス船を装っているのかもしれない〉と、アンドレア。〈商館長、確かめたいからイギリス人を一人貸してくれ。若くて腕の立つ者がいい〉
〈私以外の誰かってことだね〉
チャイナ・キャプテンはコックスの軽口には応じず、イートンとエド・セーリスを代わる代わる見てから命じた。
『エスクリヴォ。お前が来い。次の潮で船を出す。銃を持ってこい』
きびきびと言い置くなり踵を返してしまう。小さいながらも堂々とした背が堂々と遠ざかっていったあとで、コックスが肩を竦めて命じ直した。
「そういうことだからミスター・イートン、ご苦労だが貸し出されてくれ。従者にトメを連れていくといい。ミスター・セーリスは与助を起こしてくれ。何処からの船であれ、イギリス船である可能性がある以上食料を補給しなけりゃね」
「それを私が?」
「手が足りないんだよ。急ぎなさい。ミスター・イートン、おいで。武器庫から銃を出すから」
エド・セーリスが屈辱に顔を歪めて商館長を睨みつけている。
通り過ぎ様ほくそえみたくなる衝動をイートンはどうにか堪えた。と、エド自身が耳打ちしてきた。「おいイートン、あの馬鹿はどうして寝ているんだ?」
「さてね」イートンは肩を竦めた。「眠いからじゃないか?」
その後に続いた怒鳴り声からして、気の毒なネルソンは不機嫌極まりないエド・セーリスに文字通り蹴り起こされたようだった。イートンが支度を調えてトメと一緒にボート乗り場へ向かうと、住み込みの使用人たちが総出で艀に食材を積みこんでいた。ジョアンが両手に大きな西瓜を抱えて石段を降りようとしている。真剣そのものの表情だ。イートンは思わず笑った。
「ジョアン、素晴らしい西瓜だな!」
「ウォーターメロン?」
「そうだ、ウォーターメロン」
教えるなり少年は顔を綻ばせ、何度も単語を繰り返しながら舟底に西瓜を積んだ。ざっと数えて十個はある。舳先の法には生きたままの仔豚と鶏も積みこまれていた。大きなパンの塊が十個にワインの樽もある。艀は喫水すれすれまで川に浸っていたが、もやい綱を解くなり引き潮に乗って河口へと滑りだした。
右手の湾口の向きから曙光が射していた。そちらに船影がある。チャイナ・キャプテンの優美なジャンクだ。船尾楼に所有者自身が立っている。
『頭領、この荷も積んでくれ!』
『そのまま船尾につなげ! 急げ、この潮で船出する!』
チャイナ・キャプテンはこの海域の潮流を知り尽くしているようだった。陽が昇るに従って逆風が吹いてきたのに、ジャンクはまるで見えない川でも滑るように波の高い海原を走って、夜が明けきる頃には早くも五島沖に至っていた。
目的の船はすぐに見つかった。見たところ百五十トンほどのサイズのすっきりとしたガレオンだ。三本のマストの頂にも、舳先から斜めに伸びるバウスプリットの先端にも、白地に赤で十字を配した旗を立てている。
イギリス国旗のセント・ジョージアン・クロスだ。
チャイナ・キャプテンに借りた望遠鏡でその旗をはっきりと認めたとき、イートンは自分でも思いがけないほどの歓喜が湧きあがってくるのを感じた。
『どうだエスクリヴォ、間違いなくイギリス船か?』
『ああ頭領、旗は間違いない』
イートンは用心深く答えた。
用心しながら船を寄せると、ガレオンの船尾楼甲板にも立派な身形の男が出てきているのが分かった。臙脂の羅紗のダブレットと揃いのブリーチズ。赤い羽根飾り付きの朱色の帽子を被って、真白な襟とカフスを着けている。水先案内人らしき日本人――服装はヨーロッパ人風だが、額の真中を剃り上げた独特の髪型と、腰に吊るした長短二本の刀のために一目で日本人と分かる――を連れて、ジャンクへと望遠鏡を向けている。イートンはそちたに向けて大きく手を振った。
「キャプテン、私は平戸商館のウィリアム・イートンと言います! バンタムからの船ですか!?」
声を限りに叫ぶと彼方からも声が返った。
「そうだ、私はラルフ・コッピンデール、この船はホジアンダー号だ! 誉れある会社の資金によって、バンタムから平戸へ船荷を運んできた!」
言葉は英語だった。久しぶりに聞く未知の同胞の話す英語だ。イートンは殆ど涙ぐみたくなるほどの慕わしさを感じた。




