第二章 松東院の陰謀 四
やがて暮れ六つの鐘が鳴ると、マグダレナは白い象牙の珠を連ねた念珠を手にして、廊からじかに外へ出て南の堂へと向かった。
月夜だった。
暗がりに白く浮き上がる壁に開いた木戸を潜ると、月を映した円い池の向こうに六角堂が見えた。
観音扉が閉じられている。マグダレナは草履を脱いで濡れ縁に膝立ちになると、ぎゅっと拳を握って扉を叩いてみた。
「もうし松東院様。マグダレナが参った」
一拍の沈黙の後で思いがけない声が返ってきた。
「よう来たな娘よ」
それは男の声だった。
深く、低く落ち着いた男の声だ。マグダレナは愕いて訊ねた。
「……神父様か?」
「答えよ、教会の暦で今日は何日や?」
本物の信徒か試しているのだとマグダレナは思った。しかし、残念ながら教会暦はもうとうに分からなくなってしまった。神父様なら事情を斟酌してくれるだろう。
「相判り申さぬ。神父様から離れてもう二年になる故」
正直に答えると扉の向こうの男の声が微かに笑うのが分かった。
「ならば教えて進ぜよう。主の紀元一六一五年九月三日や」
閂の外れる音に続いて扉が開くと、淡い金色の蝋燭の光が溢れてきた。
光を背にして入口に立つのは薄墨色の帷子姿のがっしりとした男だった。後頭部を丸く剃りあげ、胸に碧いガラスの珠を連ねた念珠をかけている。その先に輝く黄金の十字架が下がっていた。
「――神父様!」
マグダレナが思わず呼ぶと神父が笑って頷いた。
「然様。おはいりマグダレナ。姉妹たち(イルマノス)が待ちかねている」
堂内に集っていたのは年頃も身形もまちまちな十数人の女たちだった。身形からして下女はいない。正面に架かった十字架の前に一対の銀の燭台が据えられ、蜜蝋燭が淡い金色の光を広げている。間に白木の櫃が置かれていた。
神父に右手をとられてマグダレナが歩み寄ると、櫃のすぐ前に坐っていた女が振り返った。艶やかな黒髪を尼削ぎにした丸顔の女は、マグダレナを見とめるなり、幼友達を見つけた童女のような笑みを浮かべた。
「よう来たなマグダレナ!」
「……松東院様?」
「よかよか、メンシアでよか。こン通り、今やまことの姉妹ではないか」
愕くべきことに女はドナ・メンシアだった。いつもの白い尼頭巾を外して目の粗い薄青の帷子を纏っている。傍らにはアガサもいた。満面の笑顔で手招きをするメンシアに抗えずに渋面を浮かべた老女との間に割り込むと、十字架の左手に男が一人腕を組んで胡座しているのが分かった。目立たない青灰色の小袖を纏って同じ色の頭巾を被っている。何者だろうかと見つめているとメンシアが耳打ちをしてきた。
「案じるな。主殿よ」
「主殿様?」
マグダレナはぎょっとした。
主殿信辰はメンシアの次男で、藩主の肥前守の同母の弟の一人だ。
内々の礼拝ではないのかと不安を感じたとき、襞の多い白い衣に透き通る白麻の衣を重ねた神父が進み出てきた。後ろに若そうな修道士が銀の香炉を手にして続く。淡く昇る煙が白檀の薫りを放っていた。神父は櫃の前で跪くと、十字を切り、念珠の十字架を握って使徒信条を唱え始めた。
深く豊かな声が歌い上げる詠唱は意味こそ解らなかったものの、マグダレナの耳には懐かしく響いた。自分の念珠の十字架を握って音をそのまま繰り返していると、松東院が袖を引いて耳打ちをしてきた。
「のうマグダレナ、知っとーか? パードレ・ジュリアンのあん念珠は羅馬で教皇から賜うたもんやと」
「教皇から?」
「然様。ジュリアン様は天正の昔にのう――」
松東院が得意げに教えかけたとき、使徒信条が終わって、念珠の初めの大きな珠を握ったジュリアン神父が、今度は囁くような声で主祈祷文に取り掛かった。
この祈祷は多くの女が諳んじていたため、終わる頃にはかなりの声が揃っていた。
一拍置いたあとにアヴェ・マリアが始まった。
これはすべての女が唱えることができた。
マグダレナも一心に唱えた。
滑らかな象牙の珠を手繰りながら声を揃えているうちに涙ぐみたいような歓喜が湧きあがってきた。此処にいるのはみな姉妹だとマグダレナは思った。皆が同じ大きな力の前に平伏している。
気が付くと涙が流れていた。
目の塵が洗われたように光が眩い。
やがて十度目の祈祷が終わると、神父がまた十字架を握って結びの栄唱を唱えた。
神父が振り返ると、メンシアが両手を床について深々と頭を低めた。
「ジュリアン様、よきお祈りでござった。世の荒波がどうあろうと、こんメンシアの力ん及ぶ限りお世話いたす故、いついつまでもお導き下され」
「メンシア様、そうしたいのはやまやまであるが――」神父が困ったように眉をさげた。「こんジュリアンも今宵限りお暇致そうと思うておる」
「神父様、何故!」女たちから悲愴な声があがる。
「肥前様がじき戻られるのであろう? 御留守の間なら言い訳も立つが、お戻りの後にも御城下に神父を匿うていること、長崎の奉行や唐津の志摩守様にでも知られたら言い逃れができん」
「なら、ジュリアン様が襤褸ば着て津々浦々と廻るんか? 托鉢ん乞食坊主のごと?」
「メンシア様、いま日本に残る神父の殆どは襤褸ば着て潜んでいる。財務官んスピノラ様は長崎ん町場にお潜みやし、平戸ん生まれの木村セバスチャン様も外海にずっと潜んで、津々浦々ん信徒に暦ば送るという」
「バスチャンなんぞはもともと漁夫や。ジュリアン様とは身上が違か。御身は勿体なくも教皇に御目通りなされた、今や日本でただ御一人の神父様やなかと?」
「メンシア様、でうすは教えている。貧しき者こそ楽園に――」
ジュリアン神父はそこで言葉を切り、ため息をついて十字架の左手を見やった。
頭巾を被った男は身じろぎもせずにそこにいた。神父はしばらくその姿を眺めてから口を切った。
「のう主殿様、御上臈がたに何も知らせず企てに加担させるのは如何なもんか。やはり打明けてはどうか?」
「神父様、女子など何も知らぬほうが、万が一しくじった時には安泰であろうが」
頭巾の男が唸るように応え、ジュリアン神父の隣に並んで被り物を外した。
するとよく陽に焼けた若い男の顔が現れた。
狭い額と尖った顎。
への字に結ばれた肉厚の口。
紛れもなく主殿信辰だった。




