猟犬が言うには
落葉樹の色づきがいっそう鮮やかになってきた頃、ランベルディ領から新しい馬車が届いた。
壊れてしまった馬車の代わりをネーヴェがランベルディの工房に依頼していたのだ。最初は修理を依頼していたらしいが、新調したほうがいいほどの壊れ方だったらしい。
新しい馬車は特注などではないというが、造りのしっかりとした対面掛けの箱馬車には一ダースのワインと魔術の申請に関する書類一式がつけられていた。書類にはご丁寧に湯沸かしの仕組みの特許を取れと書き添えてあった。クリストフはこういう細やかなことができるから、憎まれても世にはばかっていられるのだろう。
届いた馬車をマーレがさっそく検分して、王都へ行くまでに調整するという。どうやら乗り心地をよくするためのこだわりがあるようだ。
「では、出かけてきますね」
ネーヴェは久しぶりに領地の視察に行くために、おざなりに羽織ったジャケットの上から薄いコートを着た。
馬車はまだマーレが調整しているので、歩いて回るのだという。馬車がないので今度は連れていけないと言われてしまったので、フィオリーナは留守番だ。
「やはり馬で回られては?」
見送りに出てきたフィオリーナに、ネーヴェは「いいんですよ」と首を横に振った。
「歩くのは慣れていますし、馬は緊急用ですから」
屋敷で馬を飼っているのは、オルミの村にはあまりいないためらしい。
「この領には、伝令に使うような足の速い馬はいないんです。農耕馬は居ますが、牛のほうが主流なので」
そう言ってネーヴェはザックを肩に掛けた。ザックにはハーブティと薬が入っているらしい。でも、行き先はマケット夫妻の家ではない。
マケット夫妻は秋に入ってからティエリ領へ移住した。やはり老夫婦だけで暮らすには不安があるため、息子のトランを頼って同居するのだという。
息子のトランとはネーヴェと確執があったが、あの優しい夫妻とはもう会えないと思うと、フィオリーナはさみしい気持ちになる。
「ティエリ領でお孫さんとも暮らせるようになったらしいので、楽しく暮らしているはずですよ」
フィオリーナの暗い顔を見とがめたのか、ネーヴェがそう言ってくれたのでフィオリーナも彼にならって笑みを作った。家族が共に過ごせているのなら、それがいちばんだ。
「はい。──では、いってらっしゃいませ」
玄関の扉を開けたネーヴェにフィオリーナは努めておだやかに微笑んだ。
「行ってきます」
フィオリーナに少し苦笑するように口の端を上げて、ネーヴェは今度こそためらいなく出かけていった。
ネーヴェとの距離は以前と変わらない。変わらないが、やはりフィオリーナの発言のせいでどこかぎこちない。
──男女の関係を迫るなんて本当にどうかしていたのだ。
はしたないどころか、もはや失礼なふるまいだった。
ネーヴェは許してくれているとは思うが、フィオリーナを扱いかねるような違和感は拭えない。
フィオリーナのほうも何となくネーヴェとの距離を計ってしまう。
(やっぱりどうかしていたのだわ)
改めて後悔が襲ってきてフィオリーナがうなっていると、ホーネットに呼ばれた。
「ジャムにしてみたんですよ」
収穫した果実の残りをジャムにして煮詰めているという。
厨房で味見をさせてくれたホーネットはフィオリーナとカリニに感想を求めた。
「私はこれぐらいの甘さでかまいませんが、料理に合いそうですね」
カリニはそう言ってフィオリーナを見やる。
「わたくしは、もうすこし甘くても良い気が……思っていたより酸味があるのね」
フィオリーナの意見にホーネットはうなずく。
「では、甘みを足して酸味が和らぐように何か足してみましょう」
料理に使うのなら今のままで十分だが、お菓子に使うのならもうすこし甘いほうがいいかもしれない。カリニともそう話し合って、ホーネットは両方の味を作ってくれることになった。
ジャムが出来上がったら昼食のあとに、甘いほうはおやつとして出してくれるとホーネットは約束してくれた。
今日の昼食はフィオリーナがひとりでとることになっている。ネーヴェは外で食べるといって軽食を持って出かけたのだ。
ここでの生活に慣れていけば、こういう日も多くなるとわかっているが、ネーヴェと食事がとれない日は何となく味気ない。
(こういう日にも慣れなくては)
いつかザカリーニに帰れば、当然ネーヴェはいないのだ。
フィオリーナはそう言い聞かせながら、忙しくて放りっぱなしだった自分のドレスのサイズ合わせをすることにした。
近頃はランベルディ領へ買い物へ出向く暇もなかったので、アクアに既製品のドレスをまたいくらか買ってきてもらったのだ。
もともと縫い物は嫌いではなかったが、以前よりすこしうまくなった気がする。
母や姉に会ったときすこしは自慢できるかもしれない。そんなことを考えながら繕い物で午前中は過ぎていった。
昼食はパイ包みとスープ、ビスケットに出来立ての甘いジャムで、庭を眺めながらゆっくりと食べた。そんな昼食から少し経ったころ。
玄関のノッカーが激しく鳴らされたかと思えば、屋敷にミレアが駆け込んできた。
どうしたのかとホーネットたちと出迎えると、ミレアは慌てた様子で見回した。
「領主さんは!?」
「今日は西の村のほうへ視察に出かけていて……」
フィオリーナの答えにミレアは見るからに肩を落とした。
「マーレなら居りますが、彼では対処できないことですか?」
フィオリーナと共に出迎えた冷静にカリニがそう言うと、ミレアは考え込むようにうなった。
「とにかくどうすりゃいいのか聞きたくて来たんだ……マーレを呼んできてくれるかい?」
ホーネットが「裏の厩舎にいると思うわ」と呼びに行く。
ミレアの青ざめた様子が気にかかって、フィオリーナはカリニに飲み物を持ってきてくれるよう頼んだ。
「少しでも休んだほうがいいわ」
フィオリーナはソファを勧めるが、ミレアは首を横に振る。
「いいや。話をしたらあたしも出るから」
カリニが持ってきてくれたブドウジュースを飲むと、ようやくミレアは息をつく。
ホーネットがマーレと共に戻ってくると、ミレアは改めて口を開いた。
「──鉱山跡で崩落が起きたんだ。それに子供が巻き込まれた」
村の子供が鉱山跡へと遊びに出かけていたという。立ち入り禁止の場所だが、子供たちは遊び場にしていたようだ。
その廃坑道で崩落が起きた。
かろうじて巻き込まれなかった子供のひとりが慌てて村の大人たちへ助けを求めたという。
「……もともと鉱山跡は遊びに行くなって口酸っぱく言い聞かせていたんだけど──どうやらよその町の子供が行きたいと言い出したらしくてね」
子供同士のやりとりの中で、度胸試しのようにして鉱山跡へ行くことがしばしばあったようだ。
「崩落現場へネーヴェを連れて行くほうがいいだろうが……話を聞く限り医者も必要だな」
マーレが言うには今、厩舎に馬は揃っているが、ネーヴェを呼びに行くこと、医者を呼びに行くことの二手に分かれる必要がある。しかしアクアとラーゴは今ちょうど出払っている。
「では、わたくしがどちらか一方へ向かいます。案内をつけてくださいますか」
フィオリーナがマーレに言うと、彼はすこし意外そうに見た。
「馬に乗れるのか?」
「実家では乗馬も趣味でした」
マーレは思案するようにフィオリーナをじっと見たが、
「今は手が足りない。案内をつけるからネーヴェを呼びに行ってくれ」
そう言ってマーレはミレアに崩落現場の場所をくわしく聞き出す。マーレに手短に話すと、ミレアも屋敷を出ると言った。
「あたしは村で事情を話してくるよ」
ミレアはここへは自前の馬車で来たようだ。足早に屋敷を出たミレアの馬車がガラガラと発つ音を聞きながら、マーレは自分の影に指を向けて何かを招くような仕草をした。
すると一匹の黒豹が影の中からのっそりと現れる。
「外へ出向いているアクアやラーゴへは俺が影を飛ばす。ここにはこいつを置いていくから、何かあればこいつに言ってくれ」
マーレはカリニにそう言って、もう一度影から何かを招いた。
現れたのは黒い猟犬だ。それは人懐っこくフィオリーナの足下で座った。
「あなたにはこの猟犬をつけるから、ネーヴェのところへ向かってくれ」
「わかりました」
マーレが馬を用意するというので、フィオリーナも支度をすることにした。
髪は手早く小さくまとめることにしたが、問題はドレスだった。今は乗馬用のドレスなど持っていない。かといって婦人らしく横乗りをしては早く駆けられない。
ホーネットに相談するが、急にこしらえることはできそうになかった。
少し悩んで、フィオリーナは決めた。
「ドレスを切りましょう」
ドレスの裾を切れば多少は動きやすくなる。この意見にはホーネットも目を剥いた。
「そんな、お嬢様……」
「人の命がかかっているのだもの。ドレスや外聞ぐらいどうということはないわ」
フィオリーナが意見を曲げないと知ると、ホーネットも少し悩んで提案してくれた。
「こうしてはいかがでしょう」
ホーネットが提案してくれたのは、ドレスの裾をパニエごと半分に切って、ふくらはぎのあたりで紐でくくるという大胆な案だった。繕う暇はないが、丈夫なペチコートを着れば下着まで見えるようなことにはならないだろう。乗馬用のドレスもちょうどふくらはぎから下ぐらいから分かれているのでちょうどいい。
それにホーネットの案なら切りっぱなしでいるよりもドレスは広がらない。
急いでホーネットと共にドレスを切ると、せめてあまり目立たないようにと切れ目が後ろ側になるようにふくらみをもたせて調節して、紐で裾をカーテンのようにまとめた。
身支度を整えてから階下へ降りて外へ向かうと、屋敷の外ではマーレが馬を用意していた。鞍をかけられた馬は思っていたよりも大きく丈夫そうだ。
「この馬は元は軍馬だ。軍の払い下げをネーヴェが引き取ってきた」
フィオリーナに乗馬用の帽子と手袋を渡しながら、乗馬用のコートを羽織ったマーレが言う。乗馬用のコートは大きくてかえって邪魔になるので着られないが、帽子と皮の手袋があるのはありがたかった。
「好きな馬を選ばせてやれなくて悪いが、この二頭が速い馬なんだ」
「かまいません。早い馬ならわたくしはつかまっているだけで良いのですもの」
「……しかし、本当に大丈夫か?」
マーレが珍しく言いよどんだのは、フィオリーナの格好についてだろう。フィオリーナは帽子へ髪に押し込む。最悪、馬から落ちなければいいのだ。
「うまくいかなければ、わたくしひとりが恥をかくだけです」
そう言ってマーレからフィオリーナは鞭を受け取る。
マーレはようやくフィオリーナにいつものような皮肉屋めいた笑みをこぼした。
「わかった。案内はそいつに任せろ」
マーレが指したのは馬と並んでいる猟犬だ。
彼はそう言うや鐙に足をかけると馬に飛び乗る。
それに続いて、フィオリーナも馬に近づいた。
「……よろしくお願いします」
馬の首を撫でると、馬は仕方ないというように鼻を鳴らす。賢い馬なのだろう。きっと上手に乗せてくれる。
フィオリーナも鐙に足をかけて乗り上がる。軍馬は通常の馬より一回り大きい。本当に振り落とされなければいいだけの乗馬になりそうだった。
「じゃあ、頼んだぞ」
そう言うとマーレがひと息に馬を走らせていく。
彼にうなずいて、続いてフィオリーナも馬の手綱を巡らせる。
「案内をお願いね」
馬の足下にいる猟犬に声をかけると、犬は応えるように一度ぐるりとその場で回ってから駆けだしていく。
「お嬢様、お気をつけて!」
玄関先のホーネットとカリニに手だけを振って、フィオリーナは猟犬を追って軍馬を走らせた。




