ジャケットが言うには
アレナスフィル領の街道はどこも広く整えられていた。
宿場町はにぎやかで、のんびりとしていたオルミの町と比べれば馬車も人も素早く見えてしまうほどだ。
町をいくつか抜け、ほぼ一日かけて馬車を進ませると夕暮れ時になってその尖塔は見えてきた。
アレナスフィルの中心地、リリウスの街は円形の防護壁に守られた古い街だ。その街を臨む湖の中心にその城は、いくつもの尖塔を抱えてそびえていた。
夕焼けを背にする巨大な城はまるで王城で、
「怪物の城みたいでしょう」
うしろでいっしょに見ていたネーヴェの言葉に、フィオリーナは思わず振り返る。思っていても言ってはならないことがあるのだ。
「ネーヴェさん」
「美女がさらわれていそうですよね。今じゃ子供もいるけれど」
「ネーヴェさんっ」
本当に口の減らない人なのだ。フィオリーナが精一杯ネーヴェの背を押して馬車に戻っても、彼は笑うだけだった。
城に繋がる橋を渡り、巨大な城門をくぐるといよいよ怪物の城──アレナスフィル領領主の居城、リリウス城にたどり着く。
馬車をネーヴェの手を借りて降りてみると、大勢の使用人がずらりと並んで一斉に頭を下げていた。
その偉容に驚きながら階段を登っていくと、城の扉が開かれる。
「ようこそ、我が家へ」
玄関ホールの、使用人たちの中央で城の主人が今日も華やかに出迎えてくれた。
本日のベロニカは昼用ながらもディナー用にも見える濃いピンクのドレスだった。ドレープが美しい裾が広がり、そのスカートのひだの真ん中に堂々と立って腰に手を当てている。
結い上げた髪も整えられた化粧も、袖からのぞく腕の筋肉もベロニカを彩る装飾だった。
フィオリーナは自分の格好を思い出して、すっかり気おくれした。
動きやすいからといってアクアといっしょに直した紺のドレスを着てきてしまった。ボンネットと埃避けのケープはかろうじて取ったが、靴は編み上げのブーツで化粧は日焼け止めだけだ。
となりのネーヴェにいたっては肘当てのついたジャケットとトラウザーズという、本当に領地の視察に行くときと変わらない格好だ。この前の視察と唯一違うのは忘れていたという手袋ぐらいだろう。
「お招きいただきありがとうございます、アレナスフィル侯」
まったく気負いのないネーヴェの挨拶に、ベロニカは笑って答えた。
「どうぞ、ゆっくりしていってちょうだいな」
塵ひとつ落ちていない玄関ホールには、フィオリーナたちのブーツの足跡がついてしまいそうだった。
ベロニカはフィオリーナたちを一瞥して「まずは着替えね」と手を揮る。すると使用人たちが一斉に動き出して、フィオリーナやネーヴェ、アクアから荷物やケープを受け取っていってしまう。
「部屋は用意してあるわ。夕食で会いましょ」
ベロニカは城の大階段を登っていってしまう。残されたフィオリーナたちは大勢の使用人たちに引き連れられて、城へと案内されることになった。
ほとんど引き剥がされるようにして様々なものを整えられたフィオリーナは、気が付けば用意された風呂に入れられていた。
お湯からは花の香りがする。バラだろうか。
体や髪を使用人に洗われるのは、本当に久しぶりだった。
気持ちがいいのは当然だが、気恥ずかしく思うのはオルミ領ではほとんどひとりで湯浴みをしていたからだろう。
オルミの屋敷の風呂はお湯と水の出る給湯器がついているのだ。
このリリウス城やフィオリーナの実家でも水の配管設備は整っているが、お湯は蛇口からは出ない。専用のボイラー室がついた風呂場を使わなければならないのだ。以前は温石で湯を作っていたので楽になったと言えばそのとおりだが、湯船を作るのは今でも大変な重労働だ。それに便利な給湯器のほとんどは大国ハルフィンフィルド製で、魔力のある人しか使えない。しかしこのグラスラウンド王国では魔力を持つ人は多くはないし、訓練も受けていない。一般の人々は風呂を家に持たないし、風呂屋には専門の技術職がいるという。
オルミには水の配管というものすらないので、水を屋敷の外のタンクから引いて、魔力のない人でも使えるように給湯器を改造したというからネーヴェの偏屈なまでの無駄を省きたい精神には感心してしまった。おかげで便利になったとホーネットは嬉しそうだった。
ネーヴェの改造した給湯器はお湯が温まるのは少し時間がかかるが、温石を温めなくてもお湯をいつでも使えるので、オルミの屋敷ではほとんどの人はひとりで風呂に入る。ほとんど、というのは夜会や園遊会がある前後にフィオリーナはアクアに髪を洗うのを手伝ってもらったりするからだ。いくら自由にお湯が使えても長い髪をきれいに洗うのはひとりでは難しかった。
湯船からあがると使用人にてきぱきと身なりを整えてもらうのも久しぶりだ。けれど、ザカリーニの実家にいたときもせいぜい二人ほどだった手伝いが、五人に囲まれているとさすがに緊張した。
部屋に用意されていたドレスは今日も素敵だった。
夜用の光沢のある生地で作られたクリーム色のドレスで、腰のあたりで絞られてベルトのようにリボンが巻いてある。問題は首から胸にかけて大きく開いているのでレースで覆ってあるとはいえ胸元まで出てしまうことだった。肩をかろうじてくるむ袖だけでは少し寒々しいが、レースにビーズが縫いつけてあってきらきらと輝いて見えた。
明かりに照らされれば胸元を明るく彩るだろう。デザインとしてはとても素敵だ。
(でも、この格好でネーヴェさんの前に出るの……?)
今までネーヴェの前ではこれほど胸元の開いたドレスは着たことがない。夜用のドレスのデザインとしてはよく見かけるデザインではあるが、なんだか落ち着かなかった。
ベロニカがデザインしたドレスであるから素敵なドレスであることはたしかなので、着てみたいと思う一方で、ネーヴェには見てほしくない。
もやもやとした気分でも化粧を施されていると美しくはなっていくのだが、鏡の中のフィオリーナの気持ちはどこか座りが悪い。
髪を丁寧に結い上げられると見慣れた淑女が出来上がったようにしか思えなかった。
使用人たちもアクアもそろって似合っていると微笑んでくれたが、フィオリーナも社交辞令としてうなずいただけだった。
アクアに連れられて部屋を出ると、マーレだけが向かいの部屋で立っている。
どうしたのかとマーレを見上げると、彼は背中のドアをちらりと見る。
すると中から声が聞こえてきた。
「旦那様から申しつけられております」
老齢の使用人らしき声と、
「何度も聞いた。でも客人がいらないって言っているんだからあなたは怒られやしないよ」
珍しく苛立ったネーヴェの声だ。
「そのようなことをお気にかけていただかなくて結構でございます」
「相変わらず頑固者だな。風呂には入っただろう」
「子供のような言い回しも相変わらずでございますね、ネーヴェ様」
「……あなたを寄越すアレナスフィル候の慧眼に感服しているところだよ」
溜息といっしょにがちゃがちゃとドアノブが回されるが、マーレがドアの前に立っているのでうまくドアは開かない。
「マーレ! おまえも着替えさせられたクチだろう。早くどけ!」
ネーヴェにしては荒々しい口調だが、マーレは鼻で笑ってあしらうようにドア前から退いた。マーレもついでだと思われたのか、今はお仕着せのタキシード姿だ。上背があるのでよく似合っていた。
そんなマーレにようやくドアが解放されて、ドアが勢いよく開く。
菫色の目がフィオリーナを捉えると、彼は少しだけ部屋の中に戻りかけた。
風呂に入ったというのは本当だろう。葡萄色の髪が少し濡れているように見えた。
黒に近い濃灰のシャツに、少し古めかしい灰銀のスカーフタイ、襟付きのベストとスラックスは明るい焦げ茶色。ベストにはネーヴェが愛用している懐中時計のチェーンが見えた。手は灰色の手袋が揃えられている。ジャケットを着れば完璧な紳士姿だというのに、彼はいつものようにベスト姿だった。
ネーヴェもフィオリーナと同じように、ざっと音がするほど素早くフィオリーナを頭からつま先まで見た。それからネーヴェは諦めじみた声でうしろに呼びかける。
「……わかった。ジャケットをくれ」
心得たようにひかえていた老齢の執事がネーヴェにジャケットを着せかけるべく準備万端に広げている。それを奪うようにして受け取ると、そのまま小脇に抱えた。
「夕食前にちゃんと着るよ」
「それは良うございました」
執事は穏やかに微笑んでドアを閉めると一礼して下がっていく。アレナスフィル家の手練れの執事なのだろう。フィオリーナに黙礼するのも忘れない。
執事を見送ってネーヴェは不服そうに息をついた。
「……笑いたければ笑ってください、フィオリーナ」
急に水を向けられて、フィオリーナは自分の顔がほころんでいることに気付いた。笑いたければ、と言われてしまうともう我慢はできなかった。
「ふふ、あははは…っ」
笑いが止まらなくなってしまったフィオリーナを眺めて、ネーヴェも肩をすくめて苦笑する。
「まったく……本当にうんざりしますね」
「だって…そんな、子供みたいに…」
ふふ、とフィオリーナが笑うとネーヴェは大きく溜息をついた。
「この家の住人は、人を着せ替え人形だと思っているんですよ」
歩き出したネーヴェについていくと、マーレやアクアも苦笑しながら歩き出す。
「髪もいじられかけたのですね」
いつもなら肩口にゆるくかけてある葡萄色の髪が、今はうしろで結われている。
「リボンまでかけられそうになったんです」
ネーヴェはそう言って髪をほどいてしまう。彼は前髪が耳を越すほど長い。それをそのままに適当に分けて結ってしまうから髪で顔が隠れてしまうのだ。
うしろで結ってあるときはネーヴェのすっきりとした顔立ちがよく見えていた。
「うしろで結ったほうがお似合いだと思いますが…」
そう言うフィオリーナに、ネーヴェはおざなりに肩口で髪を結って前髪の隙間から視線を向ける。
「フィオリーナが結ってくれるなら考えます」
使用人以外で人の髪に触るのは、それこそ恋人同士でなければやらないことだ。
顔を真っ赤にしたフィオリーナに、今度こそネーヴェは目を細めて笑った。からかったのだ。
「ネーヴェさんっ」
「さっきのお返しですよ」
この人はときどきとんでもなく子供っぽい。
「あなたのせいでもあるんですから」
「わたくしの……?」
ネーヴェはフィオリーナを見つめて、それからやっぱり諦めたようにジャケットに袖を通す。
「あなたのそばにいると、私も格好を正さないといけない気になるんですよ」
ジャケットの襟を調えると、ネーヴェはすっかりきちんとした紳士になる。いつもそうやって紳士姿をしていてくれれば、フィオリーナの落ち着かない気分もすこしは収まるのではないか。でも、やっぱりいつまで経っても落ち着かない気分はなくならないような気もした。
廊下の先でベロニカが見張りのように立っているのが見える。たくましい肩を大胆に出した夜用のドレスだ。これが自宅での食事だからか、彼はグローブを身に着けていないが大胆なドレスのおかげで丸太のような腕がいっそ優雅に見えた。そんなベロニカが見えたからネーヴェはジャケットを着込んだのだろう。
「フィオリーナ」
苦笑したフィオリーナが見上げると、ネーヴェが微笑んでいた。その優しい笑顔は申し分なく穏やかで、まぎれもなく大人の男性だ。
「今日は大人っぽい格好ですね。綺麗ですよ」
どこかつまらない格好だと思っていたフィオリーナの姿がきらきらと輝きだした。
シャンデリアのまぶしい光を浴びて、フィオリーナは一躍主役になってしまったようだった。
「──はい。ありがとうございます」
どんなに子供っぽくてもネーヴェは大人だ。そんな彼が認めるなら、きっと今のフィオリーナは素敵なお姫様なのだ。
そのことがたまらなく嬉しかった。
▽
あらいやだ、とベロニカはかたわらの妻に苦笑を漏らす。
「アタシのドレスがネーヴェに負けたわよ」
「ええ、本当」
ふふ、と妻のコルネリアは軽やかに笑う。
「でも良いことではありませんか。本当にあなたのドレスは素敵ね。みんなが幸せになるのだわ」
コルネリアの笑みにベロニカは満足して、鼻を鳴らす。
「……そうね。ドレスを着たら誰でもお姫様だもの」
それがたったひとりの言葉で輝くならなおのこと。
「今日はいいアイデアが浮かびそうよ」
ベロニカは領主である前に、妻と家族とドレスと、幸せを愛しているのだ。




