観察日記が言うには
ランベルディから帰ったあと、すこしだけ寝坊気味だったフィオリーナだったが、観察日記を受け取った翌日にようやく早く起きることができた。
フィオリーナはさっそく身支度を始める。
今日こそは畑の水やりに行こうと決めていた。
ここ数日は早起きのネーヴェがすでに水をやっていたのだ。
畑に水をやるには、庭のポンプから洗い場に水を溜めてからバケツで運ばなくてはならない。それを十分知っているから、ネーヴェはあまりフィオリーナにこの重労働をさせたがらなかった。
畑作りにしてもそうだ。苗を植えると言った翌日に、ネーヴェは近所の農家から牛を借りてきて屋敷の空き地を耕し始めたのだ。
畝を三つも作った畑は苗を十本植えるだけではもったいないと、ネーヴェが農家から他の野菜の苗ももらいうけてきた。
フィオリーナがやったことといえば、空き地の近くまで運ばれた肥料をバケツで運ぶことと、苗を植えたことぐらいだ。
ネーヴェは牛に農機具をつけて引かせるところから、土の成分を調べたり、苗の様子を調べて記録したりと忙しい。
だからせめて水やりぐらいはフィオリーナも手伝いたいというのに、まだ朝の水やりは成功していない。
苗の観察日記はやっと任せてもらえるようになったが、ネーヴェがつけていた日記は苗十本分ひとつひとつの葉っぱが成長した長さから苗の背の高さ、茎の太さや土の具合、花芽の数から葉っぱの数まで詳細に記録されていて、フィオリーナでは一日のほとんどをこの記録に費やして手こずるほどだった。
神経質なほど綺麗な文字を追っていると、ネーヴェの根っからの研究者気質が見て取れた。その優秀さや世間の評価はフィオリーナではわからない。
けれど、彼はフィオリーナとはまったく違う世界を見ていることだけはよく分かった。
身支度を整えて、少し悩んでボンネットはかぶらなかった。畑ではボンネットは視界が悪いのだ。日焼け止めは入念に塗ることにした。日傘では手がふさがってしまうし、つばの広い帽子はすぐ風に飛んでしまう。送金もあることだし、銀行へ行くついでに夏用のドレスといっしょに帽子を探してみてもいいかもしれない。
そんなことを考えながら階下へ降りると、まだ朝日が顔を出したばかりの屋敷の中は少し薄暗い。夜の静寂を残した応接間を抜けて、フィオリーナはサンルームのエプロンを取って庭へと出た。
サンルームが庭と繋がっていたことを知ったのは畑を手伝うことになってからだ。
大きな窓が三面並ぶサンルームはこの屋敷の庭が目一杯に広がっていて、窓のひとつが庭へと繋ぐドアになっている。窓からはほとんど景色は見えない。様子が見えるとすれば庭の木漏れ日ぐらいで、夏の盛りも近いこのごろはまるで緑の部屋のようになっていた。ネーヴェは、このサンルームは昼寝にちょうどいいのだと言って笑っていた。
そんなサンルームにフィオリーナのエプロン掛けを作ってくれたのだ。
庭へ出るとまだひんやりとした空気が漂っていて、フィオリーナはエプロンをつけながら生い茂る緑の庭を突っ切っていく。足下はもちろん歩きやすい編み上げのブーツだ。近頃は婦人らしいヒールよりもこのブーツを履いている機会が増えた気がする。
庭の小路の先が屋敷の空き地となっている。畑を作る前は広い空き地に夏の雑草が生い茂っていたが、今は雑草を刈って屋敷の境にある森がよく見渡せるようになっている。
たなびくように明るくなっていく朝日に導かれてフィオリーナがようやく畑に出ようとしたところで、甲高い音が聞こえてきた。
カン、カン、と小気味よく、しかし確実に力のこめられた重い音だ。
とっさにフィオリーナは庭木のうしろに隠れてしまった。
空き地で見慣れたふたりがそれぞれ棒を持って激しく打ち合っている。
これが模擬戦だとわかったのは、背丈より少し短いほどの棒をマーレが突き出したからだった。
その鋭い攻撃を葡萄色の髪が翻って避ける。そのまま体を入れ替えるようにして一線したのはマーレの首だった。
マーレはその一線を体をひねって避けると、棒の先を地面についてその長身を身軽に空中へと投げる。
軽業師のような身のこなしで距離を取ったというのに、その人は地面を這うようにしてマーレに迫った。
ほとんど一足飛びだ。地面を蹴る歩数は少ないというのに、驚くほど速い。
長身に棒を沿わせて、最小限の動きであっという間に距離を詰めた。
朝の空気を切り裂くようにして鋭い刺突がマーレを襲う。
その瞬間だろうか。
マーレが隠れていたフィオリーナに視線をやったような気がした。
遠目だというのにその目が面白がるような光で揺れたのを見た。
それとほとんど同じぐらいに、凶悪なほど鋭い刺突を繰りだそうとしていた人が、こちらを見た。
「あっ」と声を上げたのは彼だったか、フィオリーナだったか。
声を上げると同時に刺突は空を切り、棒は絡め取られるようにして空中へと放り出された。マーレに打ち上げられた棒は遠くに落ちて、彼は額に切っ先を突きつけられた。
「……わかった。降参」
立ち上がった彼は突きつけられた棒を苦笑しながら払う。
そして眼鏡を少し直して、庭へ向かって声をかけた。
「おはようございます、フィオリーナ」
庭からこっそり逃げだそうとしていたフィオリーナも降参して畑へ戻ることにした。
フィオリーナが顔を出す頃には訓練用の棒をマーレに押しつけているところだった。いつものネーヴェだ。
「……おはようございます」
フィオリーナが声をかけると、菫色の瞳を眼鏡の奥で細めて笑った。
「今日はずいぶん早起きなんですね」
ネーヴェはそう言ってフィオリーナの前へとやってくる。ゆるく結った葡萄色の髪は変わらないが、いつかのようにシャツ一枚で作業用のようなゆったりとしたズボン姿で、足下は頑丈なブーツだ。汗ばんでいる体からは靄のような蒸気が朝日に照らされて立ちのぼっているようにも見えた。
訓練していたのは、まぎれもなくネーヴェだったようだ。
いつもひなたでまどろんでいる猫のような姿からは想像もできないほど、激しい打ち合いだった。まるで別人のようだったのだ。
「汗臭いので近寄らないように」とフィオリーナを遠ざけるのに、手のひらまでネーヴェは明かさない。よく見れば彼の手は細身でしなやかな長い指のくせに骨がごつごつと浮かんでいる。文官の兄とはまったく違う、定期的に力仕事──なにかしらの武芸を日常的に訓練する人の手だった。実家で護衛も兼ねている使用人が同じような手だったのだ。
(今まで何を見ていたのかしら)
何度もネーヴェの手は見てきたが、思えば彼は手のひらを見せたことはなかった。いつも手袋を身につけていて、普段もフィオリーナに手の甲以外をほとんど見せていない。
訓練をしていることも、フィオリーナに見せたくなかったのだろう。
じっと手を見つめていたフィオリーナが見上げると、ネーヴェは観念したように笑った。
「……私が怖いですか?」
ひょろ長い長身の吹けば飛びそうな見た目と違って、ネーヴェが思いのほか頑丈であることは知っている。
今も、痩身なのにシャツの上からでも確かな膂力を蓄えている引き締まった筋肉の隆起がうっすらと透けていて、言われなくともフィオリーナは目のやり場に困っている。
(でも)
ネーヴェの訓練を見て驚いただけで、やっぱり怖いとは思えなかった。
思い切って一歩近づくと、薬草の香りがした。ネーヴェが愛喫している煙草の匂いだ。
「……武芸もなさるんですね」
兵役を経験しているとはいえ、魔術師のネーヴェがあれほど激しい訓練をしているとは思わなかったのだ。
ネーヴェは近づいたフィオリーナを見下ろして「ええ」といつものように軽々とうなずく。
「出征する前に、徹底的に叩き込まれました」
そう言って、この話題はおしまいと言うようにネーヴェは訓練用の棒を片づけて両手に水入りのバケツを運んできたマーレに視線を向ける。マーレもネーヴェと同じような作業着姿だ。
「今日はマーレにせがまれまして。一応、訓練に付き合う約束だったので」
「おまえが約束を反故にしようとするからだ」
ネーヴェの軽口に、マーレは憎まれ口を返した。
「たまには体を動かせ。体がなまって仕方ない」
マーレはそう言って畑に水をやり始めてしまう。
その様子にネーヴェはわざとらしく溜息をつく。
「おまえの訓練に付き合ってたら日が暮れてしまうよ」
やれやれと億劫そうにネーヴェは肩を揉んで、フィオリーナに向き直った。
「行きましょうか。水やりに来たんでしょう?」
はい、とフィオリーナはネーヴェのあとをついて畑へと向かう。
(本当に知らないことだらけだわ)
あらためて見ていれば、ネーヴェの広い背中が筋肉質だということはすぐにわかった。のっそりと狼が歩くようにも見えるのに、朝日に透けた葡萄色の髪が繊細にきらめいている。
(もっとこの人のことを知りたい)
フィオリーナにどこまで許されているのかわからない。
もしも許されているその崖っぷちまで行けたなら、ネーヴェのことがもっとわかるだろうか。
(嫌われてしまうかも)
その予感があるというのに、フィオリーナは知りたいという気持ちを抑えられそうになかった。
それがどういう気持ちなのかも、名前をつけないまま。
このあと、ネーヴェとマーレと共に無事水やりを終えたが、朝食の準備をしていたカリニに見つかって早々に屋敷から追い出された。
せめて手足を洗うまで屋敷には入れないと言われて、いつかのように今度は三人で庭先のポンプで手足を洗うことになった。
「こういうことになるから、朝の水やりはおすすめしないんですよ」
靴や手足を洗ってからネーヴェはそう苦笑して、フィオリーナを水場から追い払う。
「着替える前に水浴びをしますから。さすがの私もそれはお見せできません」
シャツを脱いで本当に裸になると言われて、フィオリーナは今度こそ慌てて退散した。




