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【命運を分かつ】

 





 ――しかし、変だ。


 拭えない違和感が胸中にわだかまっていた。もう少しで掻けそうなのに掻けない、指先の届かぬ場所に残った掻痒感を伴う傷痕のような、なにか気持ち悪い塊がぞわぞわと胸の奥底にあるようだった。


 空を見た。黒い雲が遠くから急速に流れてくる。厭悪感を催す、闇を溶かし込んだようにドス黒い雷雲だった。雨が降りそうな天候である。土の臭いがかすかに漂う。強風が遠方から連れてきたのだ。


「俺に、見覚えはないか」


 神崎が転移者であるのなら、タクの顔を知っているはずだ。少なくとも、忘れられることはない。転移して以後、短期間と言うには長すぎるほどクラスのメンバーと顔を合わせていたのだ。その時期には、神崎と会話を交わした記憶もあった。メニーディア城内の廊下におけるものの数分であったが、神崎は気の良い男だった。


 パラパラと雨が降り出していた。土の臭いが、一層強まった。雷光が縦にパッと走る。神埼の横顔が雷光を受けて部分的に黄色く光った。

 雷の音が、遅れて鳴り響いた。


「……うーん、わからない」


 考えるように眉間に皺を寄せ、神崎が首を捻る。本当に覚えがない人間の顔に違いなかった。


「そんなはずはないぞ」


 強い眼力で睨めつけた。タクの満身に激しい渦のような感情が滾々と湧いた。


 見分けはつく。しかし、この男が神埼でなければ、いったい誰なのか。


 数秒の沈黙がその場を支配していた。訓練場の外の雑多な音から隔絶したような静けさが、恐ろしいくらいだった。


 否定された神崎は、路傍に捨てられたボロ雑巾を無感情に見下ろすような冷たい目になった。


 ――こいつは神崎ではない。


 記憶の中の神崎は、斯様な人間ではなかった。もっと弱々しい、儚げな優しさが見える人間であった。引き比べると、眼前の人型は神崎ではない。全くの別人である。


「ふうん」


 息を吐いた神崎は眼の奥に怪しい光をギラリと宿した。なまじ整った顔付きであるだけに、気味が悪かった。


「……くはっ」


 けはははははは、と。唐突に笑い声が上がった。気の狂れた神崎の高笑いだった。腹を抱えてなおも笑い続ける神崎は、狂ったように目を剥いて中空を見ていた。


「お前は、誰なんだ」


 タクは神崎を睨めつけた。声音が、自然と厳しくなった。


 神崎の体が、痙攣したように小刻みに震えた。膝が前後に激しく揺れている。もはや人間の動きでは不可能な領域であった。


『ンンン』


 神崎の首がありえない速度でこちらへ向いた。首の骨が一気に捻じ切れんばかりの大回転だった。ゴキリゴキリ、と首根っこが音をたてる。それでも神崎の視線は、タクを捉えて離さなかった。


 間遠に、鐘の音がゴーンと震えた。


 街の方向で灰煙がもうもうと立ち昇っている。工業地帯の工場から出る煙のように、連続して数カ所から高く煙が上がっていた。


「……おぞましい化け物を呼び込んでしまったらしい」


『――おぞましいだなんて、酷いことを言う』


 蜂の羽音に似た不愉快な連続音が返ってきた。神崎が発した恐ろしい濁声であった。


「ひぃっ」


 フラメアが青い顔で短く悲鳴を出し、震える足でよたよたと数歩後退した。


『説明は億劫だな……要するに、君たちを殺してしまえば仕事が楽になる。おとなしく首を渡してもらおうかななななナァァァ』


 神崎の捻くれた首が弾け飛び、次に腹がいっぱいに膨らんだ。はち切れる寸前にゴム風船のようになった腹部から、不快を催すほど不格好な無数の触手がうごめきながら飛び出した。


 すでに、神崎の体は原型を留めてはいなかった。ぬらりと黒光りする触手に虚しく引っ掛かる、人の皮そのものであった。爬虫類に見られる脱皮のようでもあった。


「魔物……にしてはよく喋るな、あんた」


 目の前にはすでに変貌を遂げた化け物が鞭打つようにうねっていた。


 さしづめ、軟体動物のような身体だった。いっぱいまで水で満たされた水風船のように張り詰めて透けた軟体から、百はありそうな触手が蠢動している。


 タクの数倍以上に膨れ上がった神崎は、埋もれた黄色い眼球をギョロギョロと辺りへさまよわせた。


『人間ごときがナマを言う』


「……魔物ごときが、と返させていただこうか」


 ぴくり、と神崎が震えた。


『なるほど……お前はどうやら、高位の魔物を見たことがないらしい』


 触手が四方八方にしきりと振れる。そのうちの一本が、タクの顔面に飛ぶように真っ直ぐと向かってきた。


 タクの網膜の向こうに、気味の悪い粘液質な触手が映じた。


 寸前に迫った青みがかった触手を、沈めた体で素早く避ける。後方に走った一撃の、訓練場の石床を激しく抉る音がガッと響いた。


『一定の水準を超えた魔物は、言葉を操る。常識だろう』


(どこの常識だそれは)


 右肩のすぐ隣を触手が豪速で掠めた。


 かなり厳しい状況である。銀龍は部屋に置き去りにしている。敵への対抗手段を、タクは現時点で持ち合わせていなかった。


『ん……何か来たか』


 不意に動きを止めた神崎がゴゾゴゾと蠢き、


「おい何かあったか……な、なんだ、これは!」


 直後、突然、壁の方向から声が上がった。


(この状況、もし新たな参戦者なら、当人にとっては最悪のタイミングだな)


 タクはチラと横目でその声の発生源を見やった。


 ――タイミングの悪い連中。


 そこにいたのは、金属製の重い鎧を着込んだ兵士であった。


 ガシャガシャと、金属が擦れ合う音が遠くからきこえる。破壊音を聞きつけた兵士たちが一斉に駆けつけたらしかった。


「町だけでなく、このような場所にまで魔物が!」

「どこから入ってきたのだ!」

「ここいらでは見たことがない魔物だぞ、気をつけ……るばォ」


 集団で駆けつけてきた兵士たちの一人が、横から飛んできた触手に、強かに土手腹を打ち払われた。まるで紙細工が息に吹かれたように吹き飛んだ兵士の裂けた腹の端から、ピンク色の内臓が勢いよく飛び散った。


 訓練所の地面、灰色の石床に飛散したどろりとした血潮は、まるでミキサーにかけられた真っ赤な完熟トマトのようである。


 場は、急速に凄惨な地獄へと変容しようとしていた。


「ひいい……ッおええええぇ」


 その集団、残りの兵士の一人が涙目になりながら胃の内容物を地面にビタビタと吐き零した。


 新兵らしき青年であった。そして、戦場も未経験に見える青っぽいその青年にとって、目の当たりにした光景はあまりにも残酷すぎた。


「な、なんなんだよお」


「怯むんじゃない! 全員で掛かればなんとでも……」


 言って、数人の兵士が、果敢にも突撃してゆく。


 恐らく兵は全滅するだろう。十数のどこにでもいるただのアリが、艶があり生命力に溢れる巨大なカマキリに真正面から立ち向かうようなものだ。


 しかし、タクにとっては有利な方向へ戦況が傾いていた。


 ――三十六計逃げるに如ず。


 この国やその兵士に対する愛着など別段なかった。


 むしろこの場合、兵士たちを囮として矢面に立たせることで難を凌ぐ。それが最良の選択であった。


 タクは踵を返して訓練所を抜け出した。


「待って!」


 後ろからフラメアが追ってきた。かなり参っているようである。血の気が引き、汗の浮いた顔が真っ青だった。


「フラメアか」


 足を止めずに真っ直ぐと走る。上下階段がある広い廊下が目の前に現れた。


「わ、私、どうすれば……」


「フラメアはあっちへ行け」


 タクは下へ向かう階段を指さした。フラメアとは二手にわかれるつもりである。


 タクの脳内では、敵の襲撃をどう防ごうかという思考が飛び交っていた。聖剣――銀龍が手元にあればともかく、今は徒手空拳である。対抗するには武器が必要であった。


 振り返って後方をちらと確認した。触手の殴打に巻き込まれた兵士たちが豆粒みたく縮んで見えた。数人が、飛ばされていた。


 フラメアと分かれて行動すれば神崎は、恐らくタクの元へ来るだろうと、直感めいたものが脳裏を走っていた。


「では、あとで……!」


「ああ! 合流は、街の入り口あたりで」


「はいっ!」


 フラメアは脇目も振らずに階段を駆け降りていった。


 タクは自室へと足を向けた。あと少しで兵士たちは全滅すると予想できる。急がなくては、訓練所から抜けだした意味など微塵もなくなってしまう。


 足を動かす速度を上げた。


 城内のマップはすでに、頭にぶち込まれてある。迷うことはない。そうなれば、走る速さ、それだけが現状で結果に深く関わってくる。


『逃げても無駄だッ!』


 神崎の、獣染みた咆哮がタクまで一直線を貫いて届いた。兵士はあらかた半殺し、あるいは全滅したのかもしれない。そして、次にあの巨体が城内で縦横無尽に暴れ狂うと思うと、性急に行動するしかなかった。


 廊下を突っ走り、素早い身のこなしでタクは目的の場所へたどり着いた。自室であった。追手はまだ追い付いていない。


 ドアを開き、部屋の壁際にある荷物の中を荒っぽく弄った。


『あ、お疲れ様です』


 銀龍の間の抜けたようなセリフを強引に押し切り、タクは鞘ごと引っ掴んで外へ駆け出した。


『んんん、やはりこの反応……聖剣だな?』


 巨大な軟体魔物、神崎が、右手側の廊下いっぱいに膨張して満たしていた。


 ぼたり、と粘着質な赤くドス黒い体液が滴って落ちた。人間の血液である。それも、神崎の手によって殺された城中の人間たちから絞られた悽愴な血潮であった。


『なんですか、この醜いゲルは』


 神崎が動いた。


 人から吸い取った体液で膨らんだ太い触手が斜め上から、凄い重量をもって振り下ろされた。


 それは強かに石床を打ち、堅固なはずの床をやすやすと穿ってみせた。いや、崩壊させたと言うほうが正しい。轟音をたてて床が圧壊したからである。


 下の階へと、タクは真っ逆さまに落ちていく。伸ばした手が何かに触れるものの、掴める感覚が一向にない。


 ――落ちる。


 砕かれた岩塊が視界を埋め尽くすように上から下へ同時に崩れ落ちてきた。


 降る岩の合間から上の様子が僅かに覗く。神崎はまだ落ちてくる様子がなかった。


 緩衝するように足を構えてからダンッと両足で地面を踏み切って、何もない方向へ飛び込んだ。足の下に崩れた床があったために、やや体勢を崩しかけたが、かろうじて思い通りに着地できた。


「な、な」


 瓦礫の下で驚きの声が響いた。


 しわがれた、少し年齢のいったダンディな男の声だ。


「グ、グテンんん」


 教皇である。下階には要人もいたらしく、他数人の老人たちが崩壊した天井に潰されて血泡を吹いていた。


 しかし、タクはそれらの惨状を見て見ぬふりをして再度上を向き、頭上にいるであろう神崎の挙動を窺った。


『聖剣を持ったところで恐るるに足りんぞッ』


 ドシャっ、と水塊を床へ盛大に叩きつけるような音と共に、神崎が一瞬にして目前に落ちてきた。


「がぺぺっ」


 悲鳴ともつかぬ声が足元から上がった。教皇と要人たちである。タクはすぐさま走り去ったが、他の者ではそう上手くいかない。つまりは、神崎の圧倒的な体積に潰されたのである。


『雑魚はどうでもいい。さっさとかかってこい、聖剣!!』


『はあ。図体が少しばかり大きいからって調子に乗ってますね、このゲルは』


『ゲルではないっ。ジャンボウだ!』


 神崎――ジャンボウはタクの何十倍と巨大である。一般の武具では敵わないことが目に見えて分かる。


 タクの額を一筋、細い汗がつつと流れた。


『タク』


 銀龍を強く握りしめた。


「ん、なんだ」


『必ず勝てますよ、必ず』


 ――簡単に言ってくれる。


 そう思いながらも、タクの心中では、勝利の確信がムクムクと頭をもたげ始めていた。銀龍の言葉はそれほどに力があった。信頼があるからだ。


 自然に、笑みが零れる。


 瓦礫の山がガラガラと音を立てて崩れ始めていた。ジャンボウの重量に耐え切れなくなった石床の残骸が、追って下に崩れてゆく。


「ふふ」


口の端から失笑が洩れ出る。


『……何が可笑しい!!』


 激昂するジャンボウの全身。さらに数倍、ブクリと膨れ上がった。もはや巨大化に際限がなかった。


 手当り次第に石塊を吸収し、その体積がみるみるうちに増加してゆくのを、太い笑みを浮かべたタクは腰に手を当てて傍観していた。


『ベッ!!』


 次の瞬間、タクの網膜の奥に大きな影が映った。


 反射的に、そして極めて冷静に、体が左方向へ飛んだ。


 素早く逃がした上体がザッと動いた直後、一抱えもありそうな岩が肩すれすれを擦過した。さきまでの、徒手空拳のタクならば、この一撃でミンチ肉と化していたに違いない威力であった。


 しかし、例外として。


 銀龍を携えた場合は全く別である。


『なぜこれを避けられる!』


 咆哮したジャンボウが、狼狽えたように全身をブルリと震わせた。自信を持った攻撃だったらしく、回避は不可能と確信していたらしい。その狼狽具合は、ジャンボウの体を縮んで映した。だが。


 ――そんなことはどうでもいいんだ、ジャンボウ。


 不意に、視界がチカチカと明滅した。


 世界が白く塗りつぶされる。それは、銀龍が四方八方へプリズムのように放射する白い光の束であった。


『今です、タク!』


「ああ。……ジャンボウ。あんたを殺して俺は、仲間の元へ行く」


 満身が気合でグッとこわばった。


『ば、馬鹿な、聖剣といえど、ここまでの放出は……!」


 光が止み。収束した力を、振り上げた。


 龍の紋を中心として刀身を螺旋のように絡みついた青白い筋が収斂し、真っ直ぐ、直線上に伸びてゆく。それは、銀色に輝く青龍に貫かれた巨大な柱のようであった。


『こんなはずではッ……!』


「往生際が悪い。大人しく消えろ、ジャンボウ」


 柱を――墜とす。


『くそおおぉぉおおッ』


 叫びを上げたジャンボウの中心に、とてつもない破壊力を持つ巨大な光の柱がザンと走った。


 鋭い絶叫が耳を聾した。


 世界の全てが白光に包まれたように視界が眩む。


 腕で顔を覆うようにしていたタクがゆっくりと目を開くと、そこにジャンボウの姿はなく、代わりに半壊した城塞が静寂のまま存在していた。


 タクは、しかし、空に立っていた。体が青白い膜に包まれている。


 空の上から街を俯瞰した。


 見覚えのある姿が、魔物の集団と対峙していた。


(フラメアだ)


 フラメアを回収するために、地上に降り立った。


 魔物は十ほどもいる。が、フラメアはそれらを次々に屠っていく。


 声をかけた。二人で国を出た。


 振り返った。ディオパエーゼより立ち昇る煙を見やる。フラメアは、少し寂しげな顔をしていたようだった。






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