八年前の失踪事件
こっくりさん。
この遊びをしたことはないまでも、聞いたことのある人は多いだろう。一種の降霊術のようなものだ。
五十音や『はい』、『いいえ』といった文字が書かれた紙の上に十円玉を置く。それを指で押さえて、こっくりさんを呼び出すと、コインが勝手に動いて、質問に答えてくれるというものだ。ルールを破ったりすると、精神がおかしくなってしまうだとか、憑りつかれてしまうだとか、そういう話もある。
しかし、現代科学の観点から見れば、このこっくりさんは、自己暗示や筋肉の疲労によって、無意識のうちに自分たちでコインを動かしているだけにすぎないのだ。理屈がわかれば、何も怖いことはない。
しかし、八年前の不可解な現象は、決して、現代科学でどうこう言えるものではない。
あれは――雨の日の事だった。
江坂由佳と伊藤菜々美、そして私を入れた三人で、放課後の誰もいない教室の中、そのこっくりさんを行うことになった。元々は他のクラスの子たちが始めていたもので、徐々に学校内で流行り始めていた。面白そうだからと私たち三人もやることにしたのだ。
外はどんよりとした灰色の雲が垂れ込め、日没前でも陽の光は完全に遮られている。かなりの暗さだ。教室の電気も消すと、さらにその暗さは教室になだれ込み、私たちを包み込んだ。
机の上に用意した紙とコインを置く。雰囲気はばっちりだ。三人でそのコインを押さえた。
「こっくりさん、こっくりさん。おいでください」
何が起こるのだろうか。二人の手前、私は表面上は冷静さを保っていたが、内心では心臓の鼓動が大きくなるのを必死で抑えていた。しかし、待てども待てども、指の先のコインは微動だにせず、ただ時間だけが過ぎ去った。何だか急にばかばかしくなって、私はげんなりした。
「動かないじゃない」
最初にそう言い放ったのは、三人の中でもリーダー格の菜々美だ。彼女がそう言うので、由佳もそれに倣った。
「つまんないの」
飽きた私たちは、指をコインから離して口々に愚痴を零した。
「大体、こんなの嘘に決まってるし」
「勝手に動くわけないよ」
「マジ騙されたって感じ」
「てかさ、雨強くなってるよ」
由佳が外を見て、嫌そうな顔をした。私たちもそれに促されて、窓の外に目をやると、確かに雨の勢いはさっきよりも増して見えた。風も強くなっているようで、雨水が斜めの線を空中に引きながら落下している。
「帰ったほうがよくない?」
菜々美が誰にともなくといった風に呟いたので、私も由佳も帰る準備を始めようとした。
その時だった。
――ガサッ。
紙の擦れる音。それは私の背後から聞こえた。
――カサッ。
まただ。気のせいではない。何かがいる。
私はゆっくり、後ろを振り返った。
だが当然のごとく、誰もいない。
「どうかしたの?」
由佳に声を掛けられて、顔を戻す。
「何か、変な音が聞こえない?」
「えっ?」
怪訝そうに、由佳は黙って耳をすました。菜々美も不思議そうな顔をしている。
――カサッ。
やっぱりだ。後ろから聞こえる。しかし、振り返っても何もいない。ただ、さっき使っていた紙とコインが置かれているだけ――。
いや、違う。
コインが、ひとりでに動いているのだ。紙の上を、まるで何かの力に導かれるかのように、滑っている。
「なにこれ……」
呆然とそれを見るだけの私。由佳と菜々美も近づいてそれを見る。
コインは、そんな私たちを嘲るようにして、勝手に紙の上を動く。そして、『の』の文字の上で、いったん止まった。
それからまた動き出して、『ろ』で止まる。
次は『い』。更に『こ』、『ろ』、『す』。
『す』の文字に到達すると、まるで力尽きたかのように、コインは完全に停止した。
「気持ち悪いんだけど……」
「ちょっと、やばくない? これ」
小学六年生とは言え、流石に事の深刻さに気付いた。恐ろしいものを呼び寄せてしまったのではないか。私は二人を促して、急いで帰ろうと教室を後にした。
しかし、放課後の校舎というのは、想像以上に不気味だった。昼間の賑やかさを失ってしまったそこは、まるで別世界。廊下のタイルや壁の冷たさが肌に触れているような、うすら寒さを感じた。窓は閉め切られ、淀んだ空気が滞留している。じっとりとした湿り気がまとわりついて不快だ。電気は消え、外も中も暗くなっていて、陰に目を凝らすと、そこに何かがいるような気がしてならなかった。
本当に暗い。皆で抱き合うようにして前に進んだ。風雨が窓を叩きつけ、がたがたと音を立てる度に過敏に反応した。
後ろに誰かいるんじゃないか。
さっきのこともあるので、私たち三人は神経を尖らせていた。
――ひた、ひた、ひた。
――うふふふふふふふ。
どきりとした。笑い声が、どこからか聞こえたのだ。声に乗ってやってきた生暖かい風が、首筋に触れた。
「誰、今笑ったの?」
由佳が反応した。しかし、誰も笑っていない。笑えるはずもない状況だ。
「誰も、笑ってなんかないよ」
「じゃあ、今のって……」
恐る恐る、後ろを振り返る。暗い。何も見えない。
しかしそこに、窓から一気に光が差し込んだ。
それはほんの一瞬。ぱっと明るくなっただけだった。だが、その一瞬で充分だった。
私たちには、見えてしまったのだ。
廊下に佇む、白いワンピースを着た、髪の長い女性の姿を。
直後、再び闇が訪れ、辺り一帯に轟音が鳴り響いた。私たちはそれに驚き、声を上げることもできず、ただそこに立ち尽くすのみだった。
恐怖で足がすくんでいた。急にあたりの温度が下がったような気がする。全身に鳥肌が立った。
――ひた、ひた、ひた。
――うふふふふふふふ。
裸足で歩く冷たい音。そして、まとわりつくような気味の悪い笑い。
最初に動き出したのは菜々美だった。
「逃げよう」
私たちを引っ張るようにして、彼女は暗闇の先に進む。
――ひた、ひた、ひた。
走って逃げているというのに、そのゆっくりとした足音は、ずっと後ろについてきている。耳について離れないその音。単調なリズムを刻みながらも、確実に私たちに近づいている。
息が乱れて、じっとりとした汗が身体から滲み出た。捕まったらどうなるか、それを考えて背筋を虫が這うような嫌悪感と寒気が走る。
私たちは階段を駆け下り、一階に降りた。足元がよく見えず、転げ落ちそうになりながら、とにもかくにも急いだ。
しかし――。
――ひた、ひた、ひた。
――うふふふふふふふ。
その乾いた笑い声は、背後からではなく、私たちの前から聞こえた。
待っているのだ。私たちが、昇降口にやってくるのを。
立ち止まって、由佳が訊いた。
「どうすればいいの?」
「窓から逃げよう」
菜々美は廊下の窓に近寄り、それを開けようとした。しかし、開かない。
焦りだけが募り、がたがたと大きく身体を動かして、必死に窓を開けようとするが無駄だった。実際には鍵がかかっているだけ。それなのに、萎縮してしまった脳は、それに気付かない。
「どうして開かないの」
困惑する菜々美と由佳。
――ひた、ひた、ひた。
――みいつけた。
ゆっくりとした音声。私たちはそれに震え上がった。すぐそこに職員室がある。明かりもついている。でも、足は根を廊下に生やしてしまったように、頑として動かない。
――ひた、ひた、ひた。
近づいてくる足音。悲鳴も喉を通らない。緊張してしまった声帯は、まるで役には立ってくれないで、言葉にならない空気が口から洩れるばかり。互いにしがみつくだけ。じっとりとした汗が手に伝わる。
私たちは、ただその場で震えていることしかできなかった。
――ひた、ひた、ひた。
足音は次第に、大きくなっていた。
と、そこに、
「そこで何やってるの?」
と、懐中電灯を持った、笹垣先生が現れた。その時の私たちにとっては、その存在はまるで神様か何かのように思えた。
助かったのだ。もうこんな怖い思いをしなくて済む。家に帰れる。明るい我が家に。
「もう外も暗いんだから、遊んでないで早く帰りなさいよ」
しかし先生は、それだけ言うと立ち去ってしまった。私たちが恐怖の渦に巻き込まれていることなど、露ほどにも思っていないようだった。私たちも、誰も先生に今の出来事を伝えることができなかった。
こんなことを言っても、信じてくれるはずもない。一笑に付されるだけ。
恐れから喉が機能を失ってしまったせいもあるが、そう思ったこともその理由の一つだろう。
先生が立ち去ると、その場には静寂が訪れた。
足音は聞こえず、気配も感じない。
私たちは、ようやく身体に力が入るようになり、立ち上がることができた。
「とにかく、外に出ようか」
私がそう提案する。由佳と菜々美は、小刻みに首を振って頷いた。
私は昇降口のほうを振り返る。
するとそこに、真っ白い顔をした、女の顔があった。
暗闇の中に浮かび上がった、血の気のない顔。その顔は、恍惚の笑みを浮かべ、私のほうをじっと、見据えていた。
それからの記憶は、完全に抜けてしまっている。
目が覚めた時には、保健室のベッドの上だった。しかし、その部屋の他のベッドに、由佳や菜々美の姿はなかった。近くで私が目覚めるのを待っていた、顔を真っ青にしている笹垣先生によると、私は水浸しになった女子トイレの中で倒れているのを発見されたが、他の二人は未だに見つかっていないという。
教室には、三人のランドセルとこっくりさんに使った紙と十円玉がそのまま残されていた。