第六話 断る理由はなかった
リアムの声はさらに低くなり、その言い方は突き放すような鋭さを帯びた。
「――違っ……。彼女は……」
アレクは思わず息を吸い込み、うまく言葉を継げない。
みぞおちにあった塊が、どろりとしたものに変わり、喉元へとせり上がってくる。
吸うことはできるのに、吐き出せない。
気管がひどく硬くなったように、ひりつきが増していく。
うまく呼吸ができない苦しさに、目に生理的な涙がにじんだ。
――婚約披露。
エミリアがまだ十三歳で、社交年齢に達していなかったこと。
そしてホイヤット家の事情もあって、式はごく小規模に行われた。
リンバー家は親族も含めそれなりの人数が集まったが、ホイヤット家からの出席は、父と祖父母、そしてリアムくらい。
アレク自身、友人と呼べる相手は、リンバー家の兄弟と、幼い頃に遊んだ近所の平民の子どもたちくらいだった。
彼らを貴族の場に呼ぶことはできない。
それ以前に、ホイヤット家の混乱と、自分が貴族として生きることを選んだ時点で、距離はできていた。
学園のクラスメイトにしても――
あの場に呼べるほどの関係は築けていなかった。
そうした事情を汲んでか、エミリアも友人は呼ばなかった。
だから式は、ひどく静かなものになった。
新聞の社交欄には掲載されたが、あの程度の小さな記事を、いつまでも覚えている者がどれほどいるだろう。
――いや、仮に覚えていたとしても。
社交の場でアレクがエスコートしているのは、決まって別の女性だ。
一度ならまだしも、毎回同じ相手となれば、周囲がどう受け取るかは明らかだった。
リアムは、無言のままその様子を見てきた。
エミリアは、生粋の貴族の令嬢だ。
だからこそ、貴族同士の結婚が利害で結ばれることも理解している。
それでも――と、リアムは思う。
リンバー家にとって、ホイヤット家と縁づくことに、どれほどの利があるのか。
父親同士、母親同士が親しいことは知っている。だがそれだけで、没落寸前まで追い込まれた家に、愛娘を嫁がせたいと思うだろうか。
リンバー伯爵はやり手だと評判だが、それ以上に、娘に甘いことでも知られている。
とりわけ、末娘であるエミリアに対しては。
そう考えると――。
利ではなく、感情。
エミリア自身の想いを汲んだ結果だったと見る方が、まだ腑に落ちる。
もしそうだとしたら。
好きな相手と婚約できたはずなのに。
その相手が、他の女性を繰り返しエスコートしていると知ったら。
それが、二年以上続いていたとしたら。
――その気持ちは、どうなる。
嫌いにはなれないかもしれない。
けれど、何かを諦めてしまうことは、あるかもしれない。
相手にも同じだけ想われたい、という願い。
自分のことを、もっと知ってほしいという願い。
そういうものを。
そこまで考えて、リアムはわずかに息を吐いた。
――あくまで、推測だ。
だが。
「……で?」
視線を上げる。
「どうするの、兄さん」
アレクは確かに、この二年間の社交シーズン中、イヴリン・ターナー侯爵令嬢をエスコートしてきた。
だが、それは誓って恋人などではない。
一年生のとき、領地経営科で同じクラスだった――らしい。
王立学園のクラス分けは成績順で、初年度は入学試験の結果で決まる。
アレクは文官科の対策を続けていたため、急遽変更した領地経営科の独自問題でいくつか取りこぼし、結果としてBクラスに振り分けられた。
そこに、イヴリンもいたらしい。
もっとも、当時は同じクラスの顔ぶれにまで意識を向ける余裕はなかった。
それなのに――。
卒業した年の三月後半。
アレクとエミリアの婚約が社交欄に載った直後、イヴリンの父、ターナー侯爵から打診があった。
次の社交シーズンから二年間、イヴリンのエスコートパートナーになってほしい、と。
なぜ自分なのか。
疑問に思ったが、理由は明快だった。
かつてクラスメイトであったこと。
そして、エミリアが社交年齢に達するまで、あと二年あること。
さらに――イヴリンにも婚約者がいるという。
同学年だが飛び級で卒業し、王家主導の海外技術調査団の一員として、三年の任期で国外へ出ているらしい。
帰国は二年後。
それは、エミリアが社交界にデビューする年と重なる。
その間、両者とも婚約者はいるが、正式なパートナーとして同伴はできない。
――だから、都合がいい。
ターナー侯爵は、そう言った。
「しばらく社交での君の立ち回りを見ていたが、なかなかに苦戦しているようだね。娘は侯爵家の一員だ。隣に立たせておけば、何かと助けになるだろう」
そういう提案だった。
――断る理由は、なかった。
さすがに内容が内容だけに、その場で即答はできなかった。
帰宅後、アレクは父へ手紙を書いた。
返ってきたのは、短くも明確な一文だった。
『アレクの父としては反対だ。だが、ホイヤット領の領主として見れば、ターナー侯爵家との繋がりは得難い。最終判断はお前に任せる。リンバー家にも相談して決めなさい』
そこでアレクは、リンバー伯爵に依頼の内容と父の返書を伝え、意見を求めた。
「ふむ。で、アレク。君はどうしたいんだい?」
「おr……わ、私は、ターナー侯爵が領地への支援を確約してくださるのであれば、受けるべきかと」
呼称を改めるアレクに、伯爵はわずかに目を細める。
「そうか。ホイヤット領はまだ支援が必要な状況だからね。
向こうのご令嬢と結婚してほしい、という話でもない。――君の誠実さを、私は信用するよ」
その言葉に背中を押され、アレクは依頼を受けることを決めた。
数日後、ターナー侯爵に面会して承諾を伝えると、領地への資金援助と、信頼できる人物との顔つなぎを約束され、正式な契約書も取り交わされた。
学園在学中、アレクは最低限の社交しかしてこなかった。
クラスメイトとの関係も学内に留まり、外での付き合い方を掴めないまま卒業した。
だからこそ――社交に慣れた侯爵令嬢であるイヴリンを同伴できることは、精神的にも大きな助けだった。
この関係は、領地再建のための一助。
あくまで、利害に基づく取り決め。
――そう思っていた。
自分がそう捉えているのだから、周囲も同じように理解しているはずだと、疑いもしなかった。
なのに。
最も身近なはずの弟でさえ、イヴリンを“恋人”だと認識していた。
――どれほど、甘かったのか。
アレクは、頭を抱えた。
そういえば、とアレクはこの二年間を振り返る。
一年目の社交シーズン。
会う人ごとに説明していた。
互いに婚約者はいること。
しかし事情があって同伴できないこと。
そして――社交に不慣れな自分を補うため、ターナー侯爵の提案でイヴリンをパートナーとしていること。
皆、理解を示しているように見えた。
だから、シーズンが終わる頃には、
二人の関係は“そういうもの”として社交界に浸透したのだと、アレクは思っていた。
二年目は、説明をやめた。
当然のように、イヴリンをエスコートした。
――そして今、その二年目も終わろうとしている。
改めて、リアムに一連の事情を説明する。
リアムは、さほど興味もなさそうに聞いていた。
「話を聞けば、ふーんって感じだけど。
じゃあそれで、エミリアの態度が変わったわけじゃないのか。
その関係、エミリアも知ってるんでしょ?」
「……」
アレクの沈黙に、リアムが眉をひそめる。
「え、まさか。説明してないの?」
「……してないな」
「なんで?」
「……おじさんが説明すると思ってた。
それで何か思うことがあれば、エミリアの方から聞いてくるだろうって」
「で、聞いてこなかったから、そのまま?」
「……まぁ、そうだ」
アレクの視線が、だんだんと下がっていく。
リアムは、はっきりとため息をついた。
「兄さんって、もっと他人に気を遣える人だと思ってた」
言い返せない。
その通りだと思った。
「まぁ、今のはあくまで僕の推測だけど。
全然違う理由かもしれないし、そもそも“態度がおかしい”っていうのも兄さんの考えすぎかもしれない。
でも――」
一度言葉を切って、リアムは続ける。
「僕と話してても何も解決しないでしょ。
まずはエミリアとちゃんと話すことだね。
少なくとも、会話が足りてないのは間違いない」
ごもっともだった。
――話さなければ、何も始まらない。
近いうちに、もう一度エミリアに会おう。
この二年間のことを、きちんと謝ろう。
そして、彼女が何を思っていたのか、すべて聞かせてもらおう。
不満も、不安も――きっと、ある。
それでも。
少しでもそれを解いていけるように。
これからは、誠実な婚約者であると胸を張れるように。
やるべきことが見えたことで、胸の重さがわずかに軽くなった。
手をつける気にもならなかった食事に、ようやく箸を伸ばす。
「……とにかく、まずは話してみるよ。ありがとう、リアム。
一人で考えてたら、多分、何も分からないままだった」
「エミリアの考えは、エミリアにしか分からないからね。
話すことは、人間関係の基本でしょ」
リアムにとって、アレクは大切な兄で。
エミリアは、大切な幼なじみだ。
――できることなら。
こじれかけたものは、元に戻ってほしい。
そう願いながら、リアムは再び本へと視線を落とした。




