第13話 境界の街並み
昨夜のうちに、『先触れ書簡』はしたためておいた。
それをマイヤー子爵家へ届けてもらうため、早朝から伝令ギルドへ向かう。
マイヤー子爵家は、イヴリンの婚約者――トーマス・マイヤーの生家だ。
王宮近くにあるこの伝令ギルドは、アレクが貴族となってから何度も利用している。
受付係とも顔なじみで、今朝も普段通り、にこやかに迎えられた。
今は、その“普段通り”がありがたい。
「おはようございます、アレク様。本日はどちらへの書簡ですか?」
「おはよう。今日はマイヤー子爵家へ頼むよ。
九時きっかりに届けてもらえると助かる」
「かしこまりました」
受付係は慣れた手つきで書簡を受け取る。
アレクは正規料金に、わずかな心付けを添えて支払いを済ませた。
◇◇◇
ギルドを出てしばらく歩くと、街並みは貴族街から平民街へと変わっていく。
この辺りには、王宮勤めの者たちが多く暮らしている。
出勤時間にはまだ少し早いため、人通りもそこまで多くはない。
それでも数人は、足早に王宮へ向かっていた。
ぼんやりと彼らを眺めていたアレクは、不意に気づく。
彼らが、自分とよく似た格好をしていることに。
これまでも、貴族との約束がない日は、平民富裕層が好むような服装をしていた。
白いリネンシャツに、トラウザーズ。
上着もシンプルなジャケットだ。
クラバットの結び方も基本的なものだし、帽子も中折れ帽。
品質こそ上等だが、凝った刺繍もない。
レースや宝石を飾り立てることもない。
見知らぬ人間が見れば、まず『裕福な平民』と思うだろう。
今までは、それでいいと思っていた。
両親は元貴族の子女とはいえ、結婚後は平民として暮らしていた。
アレクもリアムも、平民として育ったのだ。
リンバー家との付き合いはあった。
だが、自分が特権階級に近い場所にいるなど、考えたこともなかった。
父がホイヤット伯爵となり、自分が後継者となった今も、その感覚は大きく変わっていない。
だから、自宅が平民街にあることも。
自分の服装が、この街を歩く人々と変わらないことも。
特別なことだとは思わなかった。
むしろ――安心感すら覚えていたのかもしれない。
『あなた、本当にその調子で貴族社会を渡っていけるの?』
イヴリンの言葉が、頭の中で静かにこだました。
あの日――ガーデンランチの日。
エミリアは、イヴリンの話をただ静かに受け止めていた。
顔色ひとつ変えずに。
では、自分はどうだっただろう。
イヴリンがエミリアと対峙していると気づき、慌てて二人の元へ向かった。
きっと顔色は真っ青だったはずだ。
イヴリンへ訂正を求めることもできず。
エミリアにも、『事実無根だから心配しなくていい』と声を掛けることすらできなかった。
ただ、あの場の空気に呑まれ、立ち尽くしていただけだ。
どうすればよかったのか。
何度考えても、結局は何もできなかった自分を思い返すことしかできない。
そんなことを考えているうちに、自宅へ戻ってきていた。
平民街の家屋として見れば十分立派だ。
だが、貴族の住まいとして考えれば、鼻で笑いたくなるほど質素だった。
ここから貴族の装いで出かけるたび、微かに、けれど確かに、羞恥を覚えていた。
――ここに、エミリアを住まわせるのか?
結婚すれば、エミリアはホイヤット家の人間になる。
それなのに、自分は結婚後の生活を具体的に思い描いたことが、一度でもあっただろうか。
エミリアの卒業までは、まだ三年近くある。
だとしても、お互いがどんな未来を思い描いているのか。
少しくらい語り合っていても、おかしくはなかったはずだ。
婚約してからの二年間。
顔を合わせれば、話題はいつもアレク自身の愚痴めいたものばかりだった。
エミリアは、それを静かに聞いてくれていた。
アレクは、五歳年下のエミリアを守っているつもりでいた。
それなのに、いつの間にか、彼女の優しさに甘えきっていたのだ。
――エミリアに、合わせる顔がないな。
そんな思いが浮かぶ。
だが、アレクはすぐに小さく首を振った。
今、エミリアがどんな気持ちを自分へ抱いていたとしても。
まずは、それをきちんと受け止めなければならない。
そして、失ってしまった信頼を取り戻すために、自分にできることは何でもすると伝えよう。
たとえ、その言葉を今は信じられないと言われたとしても。
それでも、言葉を重ね。
行動で示し続けるしかない。
今の自分にできるのは、それだけなのだから。
決意を胸に刻み込むように、アレクは大きく息を吸い込んだ。
早朝の澄んだ空気が、気づかぬうちに溜め込んでいた心の澱を、少しずつ洗い流していくように感じられた。




