パエロニはあとで
その後、アランは仲間を呼ぶと、ロッテンバーグたちを連れて去っていった。
残った面々は、今後の方針が決まるまで、とりあえずは今の生活を続けることになった。
アニェスは、グレーゲルたちとは違い、革命の影響をもろに受ける立場だ。ヴィスコンティ家はどうなってしまうのか? ティエリーは処刑されてしまうのか、そもそもアダンは生きているのか? まだ、何も分からない。
「不安ですか?」
グレーゲルはアニェスに囁く。
王都の別宅に戻ってきた二人は、テラスで向かい合って座っていた。この埃をかぶったテーブルとソファにも、随分と親しみを感じるようになってきた。
声の主であるグレーゲルの方を向くと、アニェスよりむしろ彼の方が不安そうに見えた。
「そうね……うちはロッテンバーグとズブズブの関係だったのもあって、取り潰しになりそうだから」
「では、これからどうしますか?」
「どうしたらいいのか……検討もつかないわ。そもそも私も捕まるのかも」
この先のことを考えたら、お腹の中がずんと重くなる心地がして、アニェスはドレスの裾を強く握りしめた。
「それなら……」
「え?」
珍しくグレーゲルの歯切れが悪い。彼は思いつめたような表情をした後、意を決したようにアニェスを見た。
「パエロニ駆け落ちは、まだ有効ですか?」
「えっ、パエロニ? 駆け落ち?」
脈絡の無い言葉の連続に、アニェスは驚いて仰け反る。だが、そういえばそんなことも言っていたな、と思い出す。あんなもの、冗談だと思っていた。ところが、グレーゲルは本気だったらしい。
「ええ。本場のパエロニ、食べたいでしょう?」
グレーゲルは、テーブルに肘をついて身を乗り出す。その分、アニェスは少しだけ深く座りなおした。
「ま、まあ……興味はあるわ」
その言葉を聞いて、グレーゲルは、言質は取ったぞ、と言わんばかりの満足気な笑みを浮かべる。一方、アニェスの顔には、引きつった笑みが浮かんだ。
「よし。では、駆け落ちとまでは行かなくても、とりあえず我が家に帰りましょう」
「え? 我が家?」
「ええ、私の生家です。なに、少しパエロニを食べるだけですよ。その後のことは、その時考えましょう。食べるだけ食べたら、こちらに寄っても良いですし」
「ね?」とグレーゲルは首をかしげる。狼を思わせる精悍な顔立ちでも、首をかしげると可愛くなるらしい。と、その時アニェスは人生で初めて知った。
しかし、騙されてはいけない。「こちらに帰る」ではなく、「こちらに寄る」と言っている時点で、駆け落ちする気満々なのだ。客観的に見ても主観的に見ても、上手いこと丸め込まれている。グレーゲルの可愛さと今後の対応の面倒が優勢になって、どうでも良くなりそうになっていた。
ちょっと考えさせて。とアニェスは言おうとした。だが、言いかけたところで、グレーゲルは急に不安そうな表情に戻った。だから、アニェスは口を開けたまま、言葉を発することができなくなった。
「それとも……あの青年と共にいたいですか? この国のより良い未来のために邁進する、あの男に惹かれているのでは?」
グレーゲルの心配事を聞いて、アニェスは思わず笑みがこぼれた。ますます彼のことを可愛いと思ってしまう。そんな心配なんてする必要ないのに。
「なっ! 笑わないでください。こちらは本気です」
「グレーゲル、もうヴィスコンティ家は終わりだし、護衛もする必要ないのだから、もう敬語はやめて」
グレーゲルは傷ついたような表情をした。だが、その後で諦めたようなため息をつく。
「分かった。これでいいか?」
「ええ。その、私……グレーゲルといられてとても楽しかったわ。乗馬とか、今まで通りだったら経験しないようなことを沢山教わった」
アニェスは照れくさくなってはにかんだ。それをグレーゲルは、なんとも言えないような表情で見つめる。
「好きよ。グレーゲル」
「ああ、俺もだ。愛している」
二人の表情は対照的だった。アニェスが晴れやかな顔をしているのに対して、グレーゲルは、この世で一番苦い食べ物を口に詰め込まれたかのような顔をしていた。その様子に、アニェスは思わずくすりと笑ってしまった。
「でも、パエロニは延期」
「なぜ?」
「ドレグニア王国の力になりたいからよ」
「やっぱりな」と、グレーゲルは呟く。「あいつをとるのか?」
「そういう問題ではないわ。自分たちの罪は自分たちで償いたいのよ」
「だが、君は何もしていないだろう」
「だからよ」
アニェスは一呼吸おいて言った。
「何もせず、現状を変えようとしない貴族がほとんどだったから、この国はこうなったのよ」
グレーゲルは、口を開きかけたまま固まった。まさか、アニェスがここまで考えていたとは思わなかったのだろう。彼は肩を落として、ため息をついた。
「そうか……それは、止めることはできないな」
「うん。だから――」
アニェスはにやりと意地の悪い笑みを浮かべ、もったいぶって言葉を切る。
「――一緒に旧アーネルケン諸国に行ってしてほしいの!」
「なんだと?」
グレーゲルの期待通りの反応に、今度はアニェスが満足気な笑みを浮かべる番だった。
「勉強したいの。民主主義とやらを。あなたにも、国のことが落ち着いたら来てほしいの」
「ダメかしら?」と、アニェスは小首をかしげる。首をかしげれば、誰でも可愛くなれることは、すでに学習済みだ。グレーゲルは、その日で一番大きなため息をついた。
「俺は一応、ワーゼル王国に雇われているんだが?」
「えー、いいじゃない。そちらの国にとっても、民主主義は今後重要になってくるでしょう? ドレグニア王国とも縁ができて都合がいいはずよ」
「まあ、そうだが……」
グレーゲルは眉間を指でつまみながら、「落ち着いたら打診してみます」と続けた。困惑のあまり敬語が戻っている。だが、そんな些細なことは無視して、アニェスは両手を合わせて、にんまりと微笑む。
「それなら、まずはアーネルケン料理からね! パエロニはその後!」
本場のパエロニも捨てがたいが、古代アーネルケン料理にも興味がある。酸味と甘みが混在する白いペースト状のデザートがあると本で読んだことがある。
アニェスのウキウキとした様子に、グレーゲルはお手上げとばかりに、手のひらを天へと向けた。
「いつからそんな強引になったんだ? 今までは周りを気にしてビクビクしていただろう」
「うーん……そうね。今回の経験から、かな。やりたいと思ったらすぐやらないと、人はいつ死ぬか分からないってわかったから」
アニェスは目を伏せた。
思い出されるのはアランのことだ。アニェスの犠牲になって、日に日に憔悴していく姿。それを思うと、苦い気持ちになった。あのままだったら、本当に死んでいただろう。
それに、見てはいないが王宮で多くの人が亡くなったらしい。その場にいる誰もが、まさか今日死ぬとは思ってもみなかったはず。たまたま魔法を使えるから誘拐されたというだけで、そうでなかったらアニェスも例外ではなかったのだ。
グレーゲルは、アニェスの隣に移動して、ソファにどかりと座り込むと、励ますようにその肩に手を置いた。
「そうか、いい心がけだな」
しかし、励ますように見えたのはアニェスの勘違いだった。グレーゲルはにやりと意地の悪い笑みを見せて、アニェスの頬をそっと撫でた。
「それなら、俺もやりたいと思ったことをやろう」
「え? グレーゲルのやりたいことって――?」
言葉の続きは、グレーゲルの唇に遮られて言えなかった。
深い口付けの後、ゆっくりと唇を離したグレーゲルは野性味のある笑みを浮かべた。
「続きはベッドででも?」
「も、もうっ!」
アニェスは真っ赤になってグレーゲルの胸を叩く。アニェスが本気で殴ってもビクともしないであろうグレーゲルの胸板は、力が入らないせいもあって鋼のように固く感じられた。
最終的にグレーゲルの胸に突っ伏したアニェスは、小さな声で呟く。
「……いいわ」
それを聞いたグレーゲルは、驚きに目を見開いた。
「アランってやつはいいのか?」
「ま、またアラン? 別になんとも思ってないわよ!」
「焦っているのか? 怪しいな」
「違う! アランとはこの国をより良くするために協力したいだけで……」
アニェスは、一拍おいて続けた。
「好きなのは、グレーゲルだけ。こうやって……この身を差し出したいと思うのも」
最後の言葉に、自分で言っておいて頬が熱くなる。大胆な女性は、嫌いだろうか。でも、これ以上好きになれる人に出会えるとは思えないのだ。
しかし、そんな心配は杞憂なようだ。
「アニェス、好きだ」
グレーゲルは今までで一番、とろけるような甘い声で囁いた。
「おいで」
グレーゲルはアニェスの手を引いて立たせると、腰を抱いて二階へと誘導した。
「おっお手柔らかにっ」
グレーゲルのエスコートに、アニェスは少しぎこちなくついていく。そして、「初めてなんだから」と、口を尖らせて小さく呟いた。
「御意に。私のお姫様」
グレーゲルがあえて恭しく返事をした。
二人の夜は、まだまだ長そうだ。




