危機一髪
地獄のような日々は、なかなか終わりを告げなかった。
「うっ……おえ」
水瓶にもたれて蹲るアランの背中を撫でる。それくらいしか、アニェスにできることはない。
ひと通り吐いた後、アランはいつも失神するように眠りにつく。あの日以来、まともに食事もしていない。アランは日に日に衰弱していた。
彼にただ待っていてほしいと懇願されてから、アニェスは、自分にできることは何だろうとずっと考えていた。そうすると結局、やることは一つしかない、という結論に辿り着いてしまう。どうせ死ぬことはないのだから、そうするべきだ。
「アラン、お仕事だよ」
毎朝、という表現が正しいかは定かではないが、とにかく毎回、アニェスはアランより先に起きて、ティエリーが近づいてくる足音をただ黙って聞いていた。暗くて湿っている地下牢であっても、軽やかで規則的なその音がだんだんと大きくなる度に、今度こそは……と己を奮い立たせるが、その度に鳩尾のあたりがキリキリと痛くなって、やっぱり次にしようと思い直していた。
しかし、それももうおしまいにしなければ――
――そうしなければ、今日にもアランは死んでしまう。
ティエリーの声を聞き、アニェスは思い切って立ち上がった。
「今日は私がやるわ」
ティエリーの目を真正面から見据えて言い放つ。アランは衰弱しすぎて、アニェスの声では、目を覚まさなかった。
「ふぅん、いいよ。そいつの代わりね? いつも我が身可愛いお前にしては勇気ある決断だね」
ティエリーはおかしそうに目を細めてせせら笑い、いつもと違う鍵を取り出す。
「おいで、アニェス。可愛がってあげる」
ティエリーが例によって鍵を握りしめる。すると、鍵が朧げに光る輝き、思考がぼんやりしてくる。そのまま、ぼーっとティエリーの持っている鍵を眺めていると、彼は流れるような動作で片方の手を懐に入れ、いつもの鍵を取り出した。
朧げな思考な中で違和感を覚える。その鍵は、いつもよく見ている――
目を瞠るアニェスを見て、ティエリーはいたずらが成功した子どものように楽しげに笑った。
「なーんてね! アラン、お前も寝てないでくるんだよ!」
ティエリーがそのままアランの鍵を握りしめて指を鳴らすと、彼はたまらず起き出した。そして、立っているアニェスと、ティエリーに握られている自分以外の鍵をゆっくり確認すると、絶望の表情を浮かべた。
「アニェス……!!」
「ご、め……アラ……」
アニェスは霞む意識の中、アランの顔を見た。初めは悲しそうだったのが、操られて次第に無表情になり、抜け殻のような顔からただ涙だけが流れ落ちている。
そんな顔をさせるつもりはなかったのに。結局、余計なことをしただけだった。
アニェスはティエリーを睨みつけた。
「ティ、エリ……!」
「まぁだ意識を保ってるよ。もっと魔力因子を流さないといけないみたいだね?」
アニェスの怒りに、ティエリーは声をあげて笑った。裏切られ、絶望に狂うアニェスの様子が心底面白いらしい。
ティエリーは牢の鍵を開け、弾んだ声で言った。
「ああなっているはずなんだよ。普通はね?」
ティエリーは顎でアニェスの隣を指す。緩慢な動作しかできない中、焦って振り返ると、アランがゆらりと立ち上がり、ゆっくりとティエリーへ向かって歩き出すのが見えた。
「よそ見? 余裕だね」
自分で見るように誘導したくせに、ティエリーは目を細めてそう言うと、アニェスの鍵をさらに強く握り締めた。
その途端、怒りや絶望が一瞬で煙のように消えてしまった。そして、アニェスの脳内に不思議なイメージが流れ込んでくる。
頭が痺れるような様々な極彩色の輪が重なった洞窟を、幾重もの輪を閉じ込めた透明な球体が勢いよく流れている異様な光景。ずっと眺めていると洗脳されそうだった。
アニェスには、なぜかそれがティエリーの身体に張り巡らされた回路だと、何も説明されずとも分かった。
「繋がっちゃったね? おやすみ、アニェス」
ティエリーは可憐に微笑んだ。その声を最後にアニェスの意識は奥底に沈んだ。
ティエリーによって牢が開かれると、アニェスの身体は勝手に外に歩き出した。その様子を自分の中の『意識』が、深く泥に沈んだ状態で眺めている。後ろにはアランが続き、ティエリーを先頭に三人は地下牢の奥へと進んだ。身体はまるで行き先が分かっているかのように迷いなく動いた。その一方で、泥に沈む意識では、どこへ向かおうがどうでも良くなっていた。
もがくことをせず、深く深く、ただ沈んでいく。
アニェスはぼんやりと、これまでのことを思い出していた。
あの時、王宮で扉を開けてしまったのが運の尽きだった。本当はグレーゲルと一緒にいたかった。だが、愚かなアニェスが、彼と一緒にいては迷惑だろう。己の愚かな行いのせいで、ロッテンバーグたちに捕まり、操られているのだ。それに、助けるメリットもない。それでも、グレーゲルと一緒にいたい。でも――
思考力が奪われ、考えが堂々巡りになっていることにアニェスは気づかない。
自罰的な思考に飲み込まれるうちに、いつの間にかアニェスたちは暗い廊下に出ていた。さっきまで閉じ込められていた牢は、どこか別の空間と繋がっているらしい。
しばらく肉体は勝手に歩き続け、精神は深い澱の中に囚われていた。
どれくらい歩いたのだろう。
指を鳴らす音が聞こえ、アニェスの意識は急激に浮上した。
「……っ!」
その直後、水中で息を止めていたかのように、呼吸が荒くなる。
「……っここはどこだ? いつもと違う」
アランも意識を取り戻したようだ。アニェスと同じく、息を吹き返したようにハァハァと荒い呼吸を繰り返した。
辺りを見ると、アニェスたちが囚われていた場所と、同じような造りの地下牢だった。ただし、薄暗いせいで中に誰かいるかは分からない。
キョロキョロと辺りを見回すアニェスを、ティエリーは馬鹿にしたようにハッと笑った。
「伯父上の屋敷はね、王都の要所と地下で繋がってるんだ」
「要所……? まさか、王宮とか?」
「まあね。そこだけじゃないけど」
「何ですって……? ここは王宮だというの!?」
「さあねー」
うまくはぐらかされて、アニェスは唇を噛んだ。
一体いつからこんな地下道が存在していたのだろうか? 一年やそこらで、できるわけがない。
ロッテンバーグはずっと計画していたのだ。それこそ、アニェスが子供の頃から。
繋がっているのは王宮だけではない、とティエリーは言った。そうだとすると、ロッテンバーグ家と地下で繋がっているのは、ヴィスコンティ家の別宅、高等法院、べソン家あたりだろうか。
一体どれだけの王族や貴族が協力しているのか? それを考えるだけで、目眩がする。
「そんなことより、今からこいつらを使ってさ、お前の魔法を見せてもらうよ?」
まるで今から楽しいゲームをするかのようにそう言いながら、ティエリーは指を鳴らす。すると牢のロックが外れ、明かりが灯った。そのおかげで、中がはっきりと見えた。
そこにいたのは、ボロボロの服を着ているものの、見るからに裕福そうな男だった。
「仕事をするためには、アニェス、お前の魔法を知っておく必要があるからね。この男は、王宮にいたけど、魔法使いの血筋じゃない貴族。何の使い道もないし、こいつで試そうね?」
言い終わると、ティエリーは再び鍵を握りしめる。その途端、アニェスの意識はまた肉体から遠ざかった。だが、今回は微睡みの中、半分覚醒しているような状態だ。
「なに、これ……?」
「人を殺めることに、慣れるためだよ。正気に戻った時に、狂ってしまったら困るでしょ? まずは半覚醒状態で、汚職を働いてたわるーい貴族を成敗しよう!」
「ティエリー! やめろ!」
アランはほとんど覚醒している状態らしく、ティエリーの方へと一歩踏み出した。少し使役魔法が残っているようで、身体が思うように動かず辛そうだ。
「ふぅん、もう反抗できるの? じゃあアラン、まずはお前がお手本を見せようね?」
ティエリーが指を鳴らすと、アランの身体は本人の意思に反して、牢の中へと歩き出した。牢の中の貴族は「ヒィ!」と甲高い声を上げて後ずさる。
「さ、やりな」
「やめ、てくれ……見るな……」
アランの悲痛な声に、アニェスは息を呑んだ。しかし、視線は縫いつけられたように、彼と悲鳴をあげる貴族から逸らせない。
「よーく見ておきなよ、アニェス。次はお前の番だから」
「や、め……!」
アランが抵抗すればするほど、ティエリーは嬉しそうにケラケラと笑った。そして、制止も虚しく、ついに彼の身体は、勝手に目の前の男に向かい、脚を振り上げた。
その瞬間、脚の先から真っ赤な炎が燃え盛り、辺りを激しく照らしながら、ものすごい速度で男を捉えた。それは、蹴りと呼ぶにはあまりにも禍々しく、燃え移った炎が男の顔を激しく焼いた。
男は「ギャアアア!」と激しい叫び声をあげながら、衝撃で後ろに吹っ飛んだ。
「熱い! 痛い! 助けてぇ! 許してくれ!」
男は悲痛な声で叫び続けた。
アニェスは、目を見開いたまま呆然とした。初めて見る攻撃魔法の衝撃で、声も出ない。
精神支配を解かれたアランは項垂れ、いまだ燃え盛る自身の脚を無言で眺めていた。
「顔を上げなよ」
ティエリーは、この場で唯一楽しそうだった。牢の中に入ると男の顎を蹴り上げ、無理やり顔を上げさせる。だが、そのつま先に炎が移ると、途端に不機嫌になった。舌打ちをして鍵を握りながら、アランの方を向き、自身の足元を顎でしゃくる。それを見て、アランは苦々しい顔をした。だが、その身体は従順で、彼が軽く脚を振ると、瞬く間に全ての炎が消失した。
「はぁ、僕まで燃えちゃうところだった」
ティエリーは機嫌を直し、アハハと笑いながら言った。
やけどと蹴られた痛みに喘ぎながら、ティエリーを見上げた男の顔は、蹴られた部分だけではなく、広範囲にひどい焼け爛れが広がっており、すえた臭いが充満していた。
アニェスは現実味が感じられず、まるでいたずら好きの妖精ピグフィに騙されたように、その一部始終をぼーっと見ていた。
魔法は便利だが、力強く、苛烈なのだ。
そして、アニェス自身にもその力が宿っている。
「怖い……」
アニェスは思わずぽつりと呟く。その時、アランがびくりと大きく肩を震わせて、アニェスを見た。それに気づいて、ハッとする。慌てて言い訳しようと、考えを巡らせた。
「あっ! 違うの!」
「何が違うの?」
しかし、それを遮ったのはティエリーだった。
「アニェス、お前はまだ甘ったれたことを言っているんだね。流石にアランに同情するよ」
ティエリーは肩を竦めた。何か言い返したかったが、自分の失言に動揺して、何も思いつかない。
「ここまで甘ったれだなんて、育て方を間違えたかな? もっと厳しく躾けても良かったかもしれない。いいかい? これはどちらが正義かを決める戦いなんだ」
だんだんと詰め寄るティエリーにアニェスはたじろいだ。彼はアニェスの目の前まで来てから、足を止める。その静かな怒気に気圧され、空気が薄く感じる。
「僕たちは魔法を正しく使っているんだ。そもそも、魔法の使えないただの人間どもは、僕たちを利用しようとした……どんなに残酷な手段を使ってでも。だから、消さないといけないんだ。何をされるか分かったものではないからね」
ティエリーはアニェスの目をジトリと見つめたまま離れる。その瞬間、アニェスは自分が呼吸を止めていたことに気づき、詰めていた息を大きく吐き出した。
ティエリーの言うことは一理ある。魔法使いたちは、ロッテンバーグ家によって、非道徳的な方法で長年利用され続けてきた。恨みがあるのも理解できる。アニェスでも復讐を考えるかもしれない。
しかし、だからといって無関係な人々まで巻き込むのは間違っている。
アニェスはティエリーを睨みつけた。
「正義はあなたにあると? そのためには何をしても良いと? 真に恐ろしいのはあなたのことです、ティエリーお兄様」
アニェスの反抗的な言葉に、ティエリーはその愛くるしい見た目からは想像もつかないような獰猛な笑みを浮かべた。それはアニェスが小さかった頃、蜘蛛を差し向けられた時に何度も見た、弱者を甚振る前の感情が昂った表情だった。
「人っていうのは見る側によって全然違うんだよ。非魔法使いや使役対象のお前にとっては僕が恐ろしくとも、この行動に正当性を見出す者もいる――」
「それはロッテンバーグのことですか?」
「爵位を忘れるな。愚か者が!」
話を遮り、ロッテンバーグのことを持ち出した途端、ティエリーは烈火のごとく怒りだした。突然のことに、アニェスは呆気にとられる。
ティエリーは自身の可憐な見た目を十分に理解し、それを存分に利用してきた。容姿に合わせて、口調や表情も敢えてあどけなさを残し、周囲を油断させるのだ。その結果、誰からも愛され、守られる存在として、好き勝手に振る舞うことを許されてきた。
そんな彼のほとんど見たことのない表情だ。それをロッテンバーグの名だけで、いとも簡単に引き出せてしまったことに、アニェスはとても衝撃を受けた。
ティエリーはロッテンバーグに心酔しているのだ。
対象を使役して精神を操作するには、おそらく自分自身の精神が安定している必要がある。操られた経験から、アニェスはそう仮説を立てていた。使役された際に、ティエリーの精神に飲み込まれ、閉じ込められる感覚が何となくあったからだ。
今、ティエリーは精神を乱している。またとない絶好の機会に思えた。
一か八かだが、アニェスはさらに煽ることにした。
「なぜ? あんな男、もうすぐ捕まってただの罪人になるでしょう」
「黙れ。さっきも言っただろう。これは正義を決める戦いだ。正当性なんて、勝った側にあるんだよ。それに、お前は自分の身が安全だとでも? お前が安全に生きられるかどうか、その鍵は僕にある」
「文字通りね」と言いながら、ティエリーは剣呑な眼差しでアニェスを見た。一つでもやりすぎれば、魔法で廃人にされる。そんな薄氷の上を歩くような感覚を覚える。アニェスの首筋に一筋の汗が伝う。
貴族の男は喚き疲れたのか、ヒューヒューとただ浅い呼吸を繰り返している。
ちらりとアランの様子を窺うと、思いつめた表情でその男をじっと見ていた。協力は期待できなさそうだ。無理もない。アニェスが彼をここまで傷つけたのだ。
「今度はお前の番だよ? アニェス」
「……っ」
アニェスの視線の先に気づいたのか、ティエリーは口元を歪めて微笑んだ。その笑みにアニェスは少し怯む。いつもの調子を取り戻し始めている。もっとティエリーを苛立たせて、魔法を使えない状態にまでもっていかなければ。
「ずいぶん気が立っているようですが、その状態でできるのでしょうか?」
「そういうお前は、ずいぶん生意気な口をきくようだね。僕が何年この魔法と付き合ってきたと思っているの? お前一人操るのくらい、どんなに集中が切れてても簡単なことだよ」
ティエリーはアニェスの口調を真似てそう言うと、アニェスの鍵をぎゅっと握りしめ、素早く指を鳴らす。すると、再びティエリーと魔法神経がつながり、彼の毒々しい回路がアニェスの脳内いっぱいに広がった。身体の自由がどんどん効かなくなっていく。このままではアランと同じように、魔法で人を傷つけてしまう。いくら悪事を働いた人でも、傷つけて良い道理はない。
アニェスは抵抗を試みた。だが、自分の意思とは裏腹に、目が勝手に、蹲って荒い呼吸を繰り返す貴族の男を捉えてしまう。男は再び訪れるであろう苦痛を予見し、半狂乱になって、再び泣き喚きはじめた。
どうすれば魔法を使えるのか、なぜかアニェスはすでに理解していた。まるでなくしたものを取り戻すように。全身に力がみなぎり、ビリビリと身体中が痺れた。
見るだけでいい。見るだけでこいつをどうにでもできる。そのことを思い出す。
そして、そのまま目に勝手に力がこもりはじめる。
「……っ!」
「はぁ? この期に及んで抵抗する気?」
男に攻撃しようとした瞬間、ティエリーの使役魔法にわずかな緩みを感じ、すんでのところで目を閉じることができた。やはり、ティエリーの精神は乱れたままだったのだ。
「萎えるなぁ……よし、決めた。お前には、徹底的にこの男を甚振らせてあげる。その後、このことを思い出して苦しめばいいよ」
ティエリーはニヤリと口の端を吊り上げ、指を鳴らそうとした。
その時――
「そこまでにしておけ」
――ティエリーの手と足元が凍りつき、影から静かにグレーゲルが現れた。




