誘拐犯
ロッテンバーグは、今までの態度が嘘かのような、慈愛に満ちた表情でアニェスを見つめた。アニェスはあまりの驚きに呼吸も忘れ、ロッテンバーグを見つめ返すことしかできなかった。
「お前を迎えに来た」
「えっ? ぐぅっ……」
喋ろうとしてゴホゴホと激しく咳き込む。過呼吸を起こしていたせいで、喉がガチガチに強ばっていた。
「無理をするな。蜘蛛が嫌いなのだろう? 私が守ってやろう」
「っ……! どうしてそれを……」
アニェスは困惑した。蜘蛛が苦手なことを知っているのはティエリーだけだ。幼少期に一度も会ったことのないロッテンバーグが知っているはずがない。
そんなアニェスの浅はかな疑問などお見通しかのように、ロッテンバーグは肩を竦めて余裕たっぷりに頷いた。
「ティエリーに蜘蛛の良さを教えたのは、私だよ」
「は……?」
ロッテンバーグは慈悲深い笑みのまま潰れた蜘蛛を踏みにじり、アニェスの元へ一歩近づいた。
「蜘蛛は素晴らしく合理的な生き物だ。八本の脚を絡ませもせず有効に使いわけ、実に素晴らしい機動力を発揮する。毒や糸も獲物を捕まえ、捕食するのに非常に都合がいい。我々は蜘蛛に学ぶべきことが沢山ある」
「なに言って……!?」
アニェスが最後まで言い終わらないうちに、ロッテンバーグは顔を歪めて大きなため息をついた。アニェスはビクリと肩を震わせ、言葉を切った。
「ティエリーが蜘蛛を嫌がらせに使ったのは予想外で嘆かわしいことだった。もっとも――」
ロッテンバーグは、静かに一歩、また一歩とアニェスに近づき、目の前で立ち止まった。そして、かがみ込んでアニェスと目線の高さを合わせ、そっと呟いた。
「お前をこうして簡単に従わせることができるようになったのは、僥倖だったがね」
言うが早いか、ロッテンバーグがパチンと指を鳴らすと、扉から大量の蜘蛛がなだれ込んできた。
その瞬間、アニェスは悟った。さっき紛れ込んできた蜘蛛は偶然ではなく、ロッテンバーグが差し向けたのだと。
しかし、アニェスの思考はそこで途切れてしまった。
「んっ……うっ!」
頭が痛い。気持ちが悪い。
意識が浮上したアニェスは急激に襲ってきた吐き気に耐えきれずに嘔吐した。吐いたら胃が空っぽになり、多少は気分が良くなった。
ここはどこだろう? 吐いたおかげで、自分がどこにいるのかを気にする余裕ができた。
アニェスが吐いたのはベッドの上だった。周囲を見渡してみると、至って普通の貴族の部屋だ。ただし見覚えはない。
ふらつく足を叱咤して立ち、アニェスは覚束ない足取りで扉へと向かった。
しかし辿り着く前にゆっくりと扉が開き、全身が凍りつく。今にも破裂しそうなほど、心臓が早鐘を打った。
入ってきたのは、使用人の格好をした見知らぬ女性だった。アニェスは、ロッテンバーグではなかったことにひとまずホッとした。
しかし、だからといって油断はできない。
アニェスを誘拐したのは間違いなくあの男だ。つまりこの女性もロッテンバーグの手先なのだ。警戒するに越したことはない。
「アニェスお嬢様、私はロッテンバーグ公爵家に勤める侍女でございます。お加減はいかがでしょうか?」
だが予想に反して、侍女と名乗ったその女性は、物腰柔らかくアニェスの体調を気遣った。
「えっ……あ、まあ」
アニェスは、その優しげな態度に面食らって「ええ」とも「まあ」ともつかない曖昧な返事をする。
誘拐したくせに、どうして丁寧な扱いをするのだろう? アニェスは困惑した。
侍女はアニェスの返事に一瞬微笑んだが、すぐに顔を顰めて、手で鼻を押さえ、ベッドの上の吐瀉物を見つけた。
「あっ……その」
嘔吐した原因はロッテンバーグだからアニェスは何も悪くないはずだが、決まりが悪くなってつい口ごもってしまう。そんなアニェスの仕草を見た侍女は、安心させるように一つにこりと微笑んでから一礼した。
「すぐに片付けます。当主がお呼びですので、あちらの護衛がご案内いたします」
「あっ、ええ。ありがとう」
なぜか誘拐犯の一味に感謝をしてしまった。次女の優しい口調と表情のせいだ。アニェスは己の小心者さに泣きたくなった。
護衛に丁重に案内され、アニェスはどこかの扉の前まで連れてこられた。
それまでに階段を一回昇って、その後、玄関扉が見えたので、ここは一階だろう。ロッテンバーグが地下や二階に玄関をつくるような意匠を凝らす人間ではない限り。
つまり、さっき目を覚ました部屋は地下ということになる。
頭の中で屋敷の間取りを確認していると、護衛が目の前の扉をノックした。
「アニェスお嬢様をお連れいたしました」
「入れ」
護衛が用件を伝えると、部屋の奥からロッテンバーグの声が聞こえた。
「失礼いたします」
護衛は答えると、扉を開けてアニェスを促した。
部屋に入ると、書斎と応接間のようだった。手前にはローテーブル、奥には重厚感のある木製の書斎机が鎮座しており、さらにその奥にはギヨーム・ロッテンバーグが堂々と椅子に腰掛けていた。
「よくぞ来た。アニェス」
ロッテンバーグは優雅に微笑んだ。アニェスは彼を睨みつける。
「連れてこられた、の間違いでしょう」
「ほう、随分礼儀を失した発言だ」
ロッテンバーグは片眉を上げて言った。
最悪の過去をほじくり返され、気を失っているうちに知らない場所に運ばれ、まだ気分が悪い。それもこれも全て目の前の男のせいだ。これでどうして礼儀正しくできようか。
なおもロッテンバーグを睨んでいると、彼は笑みを深くした。
「どうして連れてこられたのか不思議だろう。今からそれを教えよう。可愛い人よ、そこに座りたまえ」
ロッテンバーグは立ち上がってアニェスへ近づくと、目の前のローテーブルと向かい合わせに置かれた革張りのソファを顎でしゃくり、自身はその片方に腰かけた。
少し迷ったが、アニェスは仕方なくその反対側のソファに浅めに座った。
一体どういうつもりだろうか?
そういえば、気を失う前にも『可愛い人』と言われたような気がする。アニェスはふと思い出す。アニェスとロッテンバーグの間には、以前、彼が視察に来たこと以外の接点はないはず。それを家族や恋人へ呼びかけるような親密な言い方をするなんて。
アニェスは、無意識にロッテンバーグに疑念の眼差しを向けていたようだ。彼はおかしそうにふっと笑った。
「どうして私が親しげなのか? って顔をしているな。それも含めて今から全て説明しよう」




