王宮での聖誕祭④
回廊には誰もいなかった。
静寂の中、自分のヒールの音だけが響き渡り、不安になって靴を脱ぐ。石畳の床は薄汚れており、とても冷たく、あっという間に足の指がジンジンと痛んだ。だが、裸足になったおかげで、静かに歩くことができる。
永遠にも思えるくらい長い間、回廊を進むと、やっと壁が見えてくる。不安と緊張と恐怖から、我慢できずにアニェスはついに駆け出した。
ところが、あと少しで突き当たりの壁にたどり着く、という所で激しい衝突音が鳴り響いた。重い鉄と鉄がぶつかり合うような鈍い音だ。
アニェスは驚いてびくりと身体を竦ませた。
その衝突音は畳み掛けるように何度も鳴り響き、アニェスを焦らせた。
突き当たりのT字路から誰かが来ているのかもしれない。そう考えて、回廊の端に身を寄せ、頭だけを出してキョロキョロと様子を窺う。
しかし、誰もいない。
それなら、この衝突音は何だ。
不安と焦りが綯い交ぜになったまとまらない思考でしばらく逡巡したが、アニェスは思い切ってT字路に飛び出し、突き当たりの壁に勢いよく触れた。
「わっ……!」
思わず感嘆の声が漏れる。アニェスが触れた所から、壁の石畳がもやもやと揺らぎだし、奥から小さな扉が現れたのだ。
グレーゲルの魔法には何度も驚かされてきたが、これもアニェスの常識からするとありえないシロモノだ。魔法使いは皆これができるのだろうか?
素朴な疑問が湧いてきたが、今はそんな状況ではない。
扉に触れたまま、アニェスは急いで手を滑らせ、そのままドアノブを掴んでひと思いに捻り、扉を開く。同時に、一際大きな爆発音が鳴り響き、すぐ後に怒号が響き渡った。
アニェスは心臓が飛び出るかと思うほど驚き、大急ぎで中へと駆け込んだ。
急いで扉を閉めると、視界が真っ暗になった。この部屋に窓はないようだ。月明かりさえ、見えなかった。扉を開けた時に一瞬見えた様子では、この部屋は何の変哲もない物置のようだ。ずっと掃除されていないのか、足の裏にはザラザラとした感触があり、埃っぽい匂いが鼻につく。
「はぁ……」
目的地にたどり着いた安堵で、アニェスは足の力が抜け、膝から崩れ落ちた。その瞬間、自分がそれまでずっと息を詰めていたことに気づき、手をついて口から思いっきり息を吸いこみ、ゆっくりと吐き出した。思ったよりも呼吸が大きく乱れている。たった数十秒間のことなのに、さっきまで踊っていたダンスよりも呼吸が荒く、全身がぐったりしていた。
外からは扉を隔て、なおも怒号と爆発音、鈍い金属音が鳴り響いている。騒がしくなると言われたが、これがグレーゲルの予想していたことなのだろう。
だとしたら、彼は無事なのか? それとも、ここで死ぬ気なのか?
アニェスだけが救われても、グレーゲルが生きていなければ、何の意味もない。
アニェスはもう何も考えたくなくなり、蹲ってただひたすらグレーゲルの無事を祈ることしかできなかった。
いつまでそうしていたのだろう。
気づいた頃には怒号も爆発音も何もかも止んでいて、辺りはしんと静まり返っていた。
アニェスはゆっくりと顔を上げて身を起こした。
今、外はどうなっているのだろう。
グレーゲルは――
少し外を見るくらいなら問題ないだろう。そう思い、アニェスは扉に手を伸ばす。ドアノブに手をかけて静かに回し、僅かに隙間を開けて外を覗く。
その瞬間、何かが床をカサカサと這う音がした。
「ひっ!?」
反射的に下を見ると、外の明かりに照らされて一匹の蜘蛛が這ってきた。ドアの隙間から入り込んできたようだ。
それを視界に入れた途端、アニェスは反射的にものすごい勢いで後ずさり、奥の棚に背中を強く打ちつけた。そして、その勢いで棚に仕舞われていた備品がいくつか床に落ちて派手な音を立てた。だが、背中の痛みも落下音も全く気にならなかった。それよりも、目の前の蜘蛛から目が離せない。
呼吸が浅くなり、次第に息が苦しくなってアニェスは喉を押さえる。自分が錯乱状態になりつつあるのを、どこか客観的に感じていた。
そしていつの間にか、次兄のティエリーにされた仕置きを思い出していた。
***
幼い頃、アニェスはよく兄姉の機嫌を損ねてその度に折檻を受けていた。
理由は実に些細なことばかり。姉のものを物欲しそうに見ていたとか、顔が辛気臭いとか、ただ近くにいるだけで無理やり理由をつけて罰を与えられた。
罰の内容は大体同じようなもので、家から締め出されたり物置きに閉じ込められたりがほとんどだった。
しかし、アニェスにとって、この程度のことなど何も問題にはならなかった。いつも一人ぼっちだったからだ。罰を与えられたところで状況は変わらない。
雪が降る日に締め出されたのは流石に応えたが、娘が折檻されて死んだとあっては外聞が悪いので、そういった日は両親が早めにアニェスを家に戻していた。
だから、この類の罰などどうでもよいことだった。
一番の恐怖はそんな些細なことではない。
ティエリーだ。
ティエリーのすることは、おぞましかった。彼は部屋に蜘蛛を沢山飼っており、手ずから餌を食べさせ、独自に毒を抽出していた。どうやっていたのかは分からないが、使用人やティエリーを好いていた令嬢がその犠牲になることが時たまあった。彼女たちはティエリーの餌食になったが最後、中毒になって何度もティエリーの元を訪れていた。
アニェスは幸運にも毒の犠牲にはならなかった。だが、毒の方がある意味マシだとすら思う。毒は弱いものだったし、蜘蛛自体を相手にすることはないのだから。
アニェスはティエリーの機嫌を損ねると、彼の部屋に連れ込まれ、その奥の隠された小部屋に入れられた。
何も無い部屋だった。アニェスはそこに閉じ込められ、ティエリーはその部屋に一匹ずつ大きく毛むくじゃらな蜘蛛を放った。
蜘蛛は別に何か悪さをするわけではない。
しかし、八本の長い脚を必死に動かし、腕や背中を這い回る感触のあまりの気持ち悪さに、寒気と吐き気が止まらないのだ。
狭い部屋なので逃げることもできず、耐えることしかできない。その間はただひたすら身を固くし、時間が過ぎるのを待った。終わった後もしばらくはその感触が残り、ゴシゴシと身体中をタオルで擦った。全身が痒いような気がして眠れない夜が続いた。
この折檻はティエリーが王宮で働くために屋敷を去るまで続いた。
それ以来、アニェスは蜘蛛を見ると、あの時の感触が蘇り、悪寒が止まらず呼吸ができなくなってしまう。
***
このトラウマは、こんな緊急事態でも例外ではないらしい。落ち着かなければと分かっているのに、息を吐くことができない。あまりの苦しさに生理的な涙が零れた。
自分が今なんのためにこの物置にいて、何をしなければいけないのかが分からなくなってくる。
とりあえず扉を閉じなければ。目の前の蜘蛛をどうにかしなければ――
自分の中の冷静な部分があれこれと思考を巡らせようとするが、アニェスは何一つ行動に移すことができない。
誰か、誰か助けて――
その時、大きな影が落ち、ぐしゃりと音を立てて蜘蛛が見えなくなった。
何者かが靴で蜘蛛を踏み潰したのだ。
「ここにいたのか。可愛い人」
恐る恐る見上げると、その靴の持ち主は、ギヨーム・ロッテンバーグ公爵だった。




