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平山明神山殺人事件  作者: iris Gabe
解決編
10/10

10.推論の果てに

 ここから先は、解決編となります。まだ謎解きが途中の方は、もう一度戻って、真相を推理し直してみてください。


  (一)


「千田ちゃーん。ここ、マジで、降りられないんだけどお……」

 最大の関門と思われたナイフリッジを、どうにか切り抜けた先には、標高950M、俗に平山明神の偽山頂ピークと呼ばれる、小明神しょうみょうじん山頂があった。巨大なひと固まりの大岩がそっくりそのまま山頂となっていて、先へ進むには、さらにそこから下らなければならないわけだが、正規の登山道のはずなのに、次の足場ステップとなる地面が、あろうことか、二メートルほど下へ切れ落ちているのだ。

 登山はずぶの素人である恭助が、岩に腰を掛ける体勢で、足だけを下へ伸ばそうとしているが、とうてい下の地面までは届くはずもなく、今にも岩から滑り落ちそうな不安定な恰好で、もがいていた。

「ああ、恭助さん。その状態で降りようとすると、きっと足を滑らせて、本当に死んでしまいますよ!

 まず、うしろ向きになって、こちら側へ背中を向けてください。そう。その姿勢で、両手で岩にしがみつきながら、片方の足を伸ばすのです」

 先行して下へ降りていた千田が、大きな声で、恭助へ指示を出した。

「ああ、なるほど。うしろ向きになれば、ずっと下まで、足が届くようになるんだね」

「そうです。急で滑りやすい坂道を下る時は、横向きやうしろ向きになって、進むのが理屈セオリーです」

 千田の適切な指示によって、ナイフリッジと小明神山頂のふたつの難所を、恭助と沢渡はどうにか無事に切り抜けた。

 小明神山頂を抜けて、さらに先へ行くと、Y字の分かれ道に出た。南へ進めば堤石つつみいし峠へ出るし、北へ曲がれば大鈴おおすず山へ向かうことになる。事件当日の高遠は、ここから南の進路を使って下山をしたはずだが、千田は、迷わず大鈴山へ向かう北の進路を選択した。

「恭助さん、いったい千田警部補は我々をどこへ連れていこうとされているのですか?」

 恭助ほどではないにせよ、それなりに疲労困憊の色が隠せない沢渡巡査部長が、うしろから恭助へ声をかけてきた。もちろん、先頭を歩いている千田には聞こえないくらいの小声でだ。

「さあね。行き先のおおよその推測はできるけど、あとどれくらいで着くのかなんて、皆目見当も付かないんだよね」

 観念したように、恭助が答えた。

「そんな、なさけないことを。恭助さんには真相が見えているんじゃないのですか?」

「それはそうなんだけど……。じゃあさ、サワっちは、いったい誰が犯人だと思っているの?」

「サワっち、ですか……」

 年下の恭助からそう呼ばれて、沢渡は苦笑いをした。

「そうですねえ。自分の考えとしては、三人の学生が下山をし終えたあとで、小和田桜子がナイフリッジへ登って、そこで足を滑らせたという、事故説が一番しっくり来ますね。でも、もしも今回の事件が、警部補のおっしゃる通り、殺人という事でしたら、やはり、動機と殺害機会の両面から見て、犯人は高遠竜一に絞られてしまうのではないでしょうか」

「ふーん。高遠が犯人だとして、やつは犯行をどう実行したんだい?」

「それは、簡単ですよ。高遠はなんらかの手段で小和田桜子と連絡を取っていたのです。たしか、高遠は一人でナイフリッジにいましたよね。そこへ小和田を呼び寄せたんですよ。時刻は二時半でした。そこで高遠は彼女を突き落したのです!」

 恭助がにやりと笑った。

「そうだとして、翌日になってから、なぜか湧いて出てきたリュックサックの件は、どう説明するのさ」

「そうですね。そいつは、ちょっと困りましたね」

 たしかに、三時二十分にナイフリッジで三人の学生が見た時にはなかった小和田のリュックサックが、翌朝に捜索隊がやって来た時に置いてあった事実は、事件解明のためにも、何らかの合理的な説明が必要となろう。

「ならば、もう一つの可能性ですが、高遠は小和田に、佐久間と飯田が下山するまでどこかへ隠れているように、指示を出したのでしょう。そして、佐久間と飯田が下山していなくなってしまったところで、二人はナイフリッジで落ち合い、それから高遠は小和田を谷底へ突き落したんです」

「その可能性にだって、同じ疑問が生じるよ。ナイフリッジに置いてあった小和田のリュックは、どう説明するのさ?」

「それなら簡単に説明できます。高遠が突き落した時には、小和田はリュックを道脇へおろしていて、背負っていなかったんですよ。そして、彼女の身柄だけが谷底へ落とされたわけです。さっきと違うのは、犯行時刻が三時半以降となりますから、佐久間と飯田はもうその場には居ないわけで、リュックが置かれたところで、三人の証言と矛盾はしませんからね」

「では、高遠はどうして、そのリュックをその場へ放置したのさ。ついでに谷底へ放り投げちまえば、それで万事安泰じゃん。リュックを崖上へ残すのは、下山時に単独行動した高遠にとって、犯行の疑いをみずからに招きかねない、自爆的行為といえるよね」

「それは、まあ、そうですけど……。うっかり見逃したとか?」

「あれだけ目立つ場所に、あれだけ目立ったピンクのリュックをねえ。かなり苦しい説明だな」

 恭助が苦笑いした。

「それにさ、事件が他殺とすれば、容疑者は、高遠、佐久間、飯田の三人のうちの誰かだ。なぜなら、事件の舞台は完璧なるクローズド・サークルで、三人以外で犯行を行えた人物はいないのだからね。

 さあ、そこで問題だ。今回の事件だけど、単独犯による犯行だと、単純に決めつけちゃっても大丈夫なのかなあ」

「えっ、まさかの複数犯ですか……。さあて、そいつは困りましたね」

 沢渡の肩がガクンと落ちた。

「あはは。可能性はあるよね」

「だとすると、ええと、複雑すぎて全く分かりません」

「そうかい? じゃあ、もう少しヒントをあげなくちゃね。

 まずは極論から始めよう。三人全員が結託した共犯の可能性って、果たしてあり得るだろうか?」

「それは、可能性だけだったらあり得るのでは……」

「でもさあ、三人が共犯を組んだとすれば、全員が犯人ではないという確固たるアリバイとか、彼らの身を守るなんらかの偽証が、必ず用意されるはずだよね。そうでなければ、協力する意味がないからね。

 ところがどうだい。小和田のリュックサックが現場に残っていたことから、サワっちに今説明したように、高遠一人だけが明らかな窮地に立たされている。これでは三人が協力した意味がない。すなわち、三人の共犯説は不成立ってことさ」

「じゃあ、二人共犯の可能性ですか?」

「そうだね。でも、高遠と佐久間の共犯説と、高遠と飯田の共犯説は、いずれも却下だ。理由はさっきといっしょ。高遠一人が窮地に立たされている以上、共犯をした意味がない」

「だとすると、残った可能性は、佐久間と飯田の共犯説ですか。まあ、こいつはあるかもしれませんね」

「でもそれも、まあ、なさそうだな。だってさ、佐久間と飯田が共犯なら、必然的に犯行時刻は高遠が現場を去った三時半以降となるけど、小和田をナイフリッジへ呼び出す手立てがない。いったい、どうやって二人は小和田と連絡を取ったのか。それに、仮にそれがうまく行って、小和田をナイフリッジから突き落せたとしても、二人一緒に下山をしているのだから、高遠と別れたあとでの二人のアリバイを証言してくれる第三者はいないわけで、つまり、佐久間と飯田が協力するメリット自体も消滅してしまうわけさ」

「すると、共犯説は完全に否定されますね」

「そういうこと。今回の事件で共犯はあり得ない。すなわち、事故死や自殺を含めた小和田桜子の単独死か、あるいは、三人の容疑者のうちのたった一人によってなされた単独犯行か、のいずれかであったはずなんだ!」

「なるほど、警部補がおっしゃっていたお言葉には、そういう奥深い根拠があったわけでしたか……」


 Y字の分岐からしばらく進むと、グミンダ峠へたどり着く。千田は、そこで急に立ち止まると、辺りをきょろきょろと見回した。すると進行方向の右手に、ちょっと油断をしていると気付かずに通り過ぎてしまいそうな脇道が見つかった。不安に駆られつつも、千田を先頭にしてしばらく進んでゆくと、やがて、狭い空き地が、突如、恭助たちの前に出没した。

「はあはあ。千田ちゃん、ここってどこなの?」

 すでに満身創痍の恭助が、大きく息を切らせていた。

「地図をごらんなさい。ここはグミンダ峠から東側へ少し下った地点です。そして、ここだったら、東栄とうえい町の小林こばやし集落からの林道がつながっていますから、車でやって来ることが可能なんですよ」

 そういって、千田は登山マップが表示されたスマホ画面を恭助へ提示した。


挿絵(By みてみん) 


 その空き地には、『大鈴山荘良心庵』の看板が掛かったあやしげな小屋が、ひっそりとたたずんでいた。古くは山小屋だったみたいだが、荒れ果てて、今や誰も使っていなさそうだ。さらに、舗装された道路が一本、どうやら、ふもとの集落へ通じているらしい。舗装道路とはいっても、アスファルトのところどころが剥がれ落ち、降り積もった小枝で覆い隠された路面には、いくつもの落石がごろごろ転がっている有り様で、走行するのもはばかられる、それはひどい代物だった。驚いたことに、その究極の酷道に、すでに数台のパトカーが停車しており、たくさんの警官がぞろぞろと待機していたのである。

「ご指示の通り、この辺一帯を捜査いたしましたが、警部補がおっしゃったものを見つけました。どうぞこちらへ」

 先頭にいた警察官が、千田の姿を見つけると、瞬時に近づいてきて、敬礼をした。

「こすりそうな場所といえば、まあ、ある程度は目星がつきますからね。どうにか、見つけられましたよ」

 警察官が得意げに千田へ報告すると、

「いやあ、お手柄、お手柄……」

と、千田がうれしそうに部下をねぎらった。


 警察官から誘導された場所は、急傾斜であるだけでなく、折れてぶら下がった立木の枝が、道路の右半分を覆い隠し、さらにその反対側に、さりげなく先端を突き出した岩塊が転がっていた。

「ふーむ。さっそくだけど、こいつを鑑識へ回してくれ。うまく行けば決定打となるだろうね」

 満足げに笑みを浮かべる千田の真横で、事態を把握していない沢渡巡査部長が、ひとり慌てふためいていた。

「千田警部補、いったい何が見つかったというのですか?」

 千田が突き出た岩の表面を指差す。そこには、かすかだけど、人工的な赤色を帯びた数本の細い平行線が付着している。

「ほら、車をこすった塗料の痕だよ。くれない色が鮮やかな、デミオという車のね……」



  (二)


 部下が運転をする、現場から引き返す途中のパトカーの中で、助手席の沢渡巡査部長だけが、依然として釈然としない様子だった。

「全然、分かりません。デミオといえば思い浮かぶのが、容疑者の一人、佐久間阿智夢の愛車ですけど、彼の車は傷一つ付いていないことが自慢だったじゃないですか。たしか、高遠がそう証言していましたよね」

「ところが、その傷が付いていないはずの佐久間の愛車に、ひっかき傷が付いていたのを、恭助さんが見つけられたのです。ほら、佐久間の家宅捜査を終えて、駐車場の前を歩いていたあの時にね……」

 後部座席にいる千田が、なだめるように説明した。恭助が佐久間自宅の駐車場で見つけた、佐久間の車が有する特徴とは、まさにこの車体に付けられたこすり傷のことだったのだ。

「佐久間の証言では、登山日の帰り道で事故を起こした気配はなかったから、つまり、これまで事故をしたことがなかった佐久間阿智夢は、登山日の翌日から、訊き込みをされるまでのわずかの期間に、愛車の車体ぼでぃをこすっていたことになる――」

 千田の隣の後部座席に座って、おとなしくしていた如月恭助が、気が付くと、いつの間にか会話に紛れ込んでいた。

「では、事件の翌日以降で、やっこさんが車をこすってしまった出来事とは、いったいなんだろう? すると、平山明神山に詳しい千田ちゃんには、論理的思考を通して、ある考えがひらめいた。それが、佐久間が車をこすったのなら、その場所はこの林道のどこかであるはずだ、というアイディアだった」

 そういって、恭助は千田に目配せした。

「今回の事件の犯人は、間違いなく、佐久間阿智夢です!

 そして彼には、事件の翌日に、しなければならないもう一つの仕事があった、ということですね」

 千田がきっぱりと断言した。

「なんですか、その仕事とは?」

 沢渡巡査部長がなおも食い下がる。

「恭助さん、沢渡にご説明いただけませんか。どうも私はこの手の細かい説明が苦手でして……」

 千田があっさり譲ったので、途端に、恭助がうれしそうに目を輝かせた。

「えっ、いいの? 仕方ないなあ。じゃあ、今回の事件の真相を、この頭脳明晰な俺さまが、ばっちり解明しちゃいましょうかねえ。

 さっきサワっちに説明したようにさ、この事件は、滑落事故でなければ、複数犯説が全否定されて、必然的に単独犯の犯行となる。では、そのたったひとりの真犯人とは、いったい誰なのだろう? 一方で、犯人というものはたいてい、自らを守るためになんらかの嘘を吐く傾向がある。いい換えれば、容疑者の中で嘘を吐いている人物がいれば、そいつが真犯人である可能性が極めて高い、ということだ。そして、今回の訊き込みの最中に、明らかに事実に反する証言をした容疑者がいたんだよ。

 とどのつまり。そいつが佐久間阿智夢だったということさ!」

「いったい、彼がいつ、どんな嘘を吐いていたのですか?」

 恭助のじらすような説明に、沢渡が眉を吊り上げた。

「それはね、下山時に出会った、通りがかりの大田切肇が、必要とあれば連絡しなさい、と向こうから名刺を渡してきた、と佐久間が証言したことだよ。でもさ、それに対して大田切の話では、佐久間の方から、万が一のために連絡先を教えてくれないかと持ち掛けてきた、となっている。明らかに、矛盾しているよね」

「それはそうですが、それって、どちらから申し出たところで、さほど問題もない、いうなれば、些細なやり取りですよね。それでも、佐久間があえて、我々に嘘を吐くメリットがあったのでしょうか」

「大有りさ。だって、その証言のおかげで、我々は大田切肇の存在を知り、彼に直に会って、訊き込みをすることができたんだ。さらにその結果、佐久間と飯田の下山時のアリバイが、第三者の立場である大田切肇からはっきりと証言してもらえたわけだよね」

「じゃあ、佐久間は大田切から自身のアリバイを証明してもらうために、わざわざ名刺をもらったというのですか?」

「その通り。ついでに調子づいちまったのか、やっこさん、大田切の方から名刺を手渡してきたと、余計な嘘までも吐いちゃった。たしかにその方が、より自然な運びのように聞こえるけどね」

「逆に、大田切の方が嘘を吐いていた可能性はありませんかね?」

「それはないね。容疑者でない大田切にとって、嘘を吐く理由がない」

「なるほど。では、佐久間が犯人だとして、やつはいったい、いつ小和田を殺したのでしょう?

 まさか、翌日になってからということはないですよね。それだと死亡推定時刻とも矛盾してしまいますけど……」

 沢渡巡査部長が再度腕組みをする。

「佐久間が小和田を殺したのは、二時半頃。飯田が小和田を見失ってしまい、佐久間と飯田と高遠の三人がそれぞれ別々の場所にいた、ほんのわずかな、ワンチャンスともいえる時間帯だ。

 西の覗きに行くといっていた佐久間は、みながいなくなると、T字分岐へこっそり戻ってきた。東の覗きで飯田が絶景にひたっている時に、いっしょにいた小和田に遠くから手招きくらいの合図を送ったのだろう。それに気付いた小和田は、飯田に適当な理由を繕って東の覗きから去ってしまう。その時に飯田は、小和田が去った理由が、遠くから佐久間が手招きしたためであることに、全く気付かなかった。おそらく佐久間は、飯田の場所からは死角となるところへ立っていたのだろうね。

 まんまと小和田を呼び寄せた佐久間は、西の覗きへは戻らずに、反対側の山頂へ向かった。その先には、小鷹大明神の空き地がある。もちろんそこには、小和田と佐久間以外に誰もいなかった。

 そこで二人の間になんのいざこざがあったのかまでは、俺には分からないけど、結果的に佐久間は小和田を岩場から突き落した。岩場といっても、南側の展望が利く数十メートルの断崖絶壁からではなくて、小鷹大明神の東側の脇にあった二メートルほどの小さな段差の付いた岩場からだ。いざとなれば、そこは下へ降りることだって可能だった。そして、突き落された小和田は、身体に転落傷を負ったうえに、運悪く後頭部を岩に打ち付けて、死んでしまった。おそらくそれは予期せぬ出来事だったんじゃないのかな。佐久間は相当に慌てたことだろう。怖気づいたやつは、遺体をそこへ放置したまま、小鷹大明神から立ち去った。

 そのあと、そ知らぬ素振りで西の覗きへ戻ってから、あたかも西の覗きでずっと過ごしていたかのように装って、佐久間は、T字分岐で困り果てて立ち尽くしている飯田と落ち合った。さらにそこへ、タイミング良く、ナイフリッジへ行っていた高遠も帰って来た。時刻は二時四十五分のことだ。当然のなりゆきで、三人は小和田の探索を開始する。佐久間にとっては、ここで小鷹大明神の脇に落ちている小和田の遺体を発見されたら、万事休すだ。

 だが、やつは運に身をゆだねながらも、さも、辺り隈なく小和田の居場所を探し尽くしたかのように高遠と飯田には思わせつつ、肝心の小和田の遺体は二人から気付かれないように、たくみに振舞った。それに関しては、全く見事としかいいようがないね」

「じゃあ、高遠が小鷹大明神の付近を調べたのかと訊ねた時、ぶっきらぼうに返事を返したのも、すべて、佐久間の演技ということですか?」

「そういうことだね。まさに計算ずくの行為さ」

「信じられませんね。佐久間阿智夢といえば、直情的で無分別な人間だとばかり思っていましたけど」

「やつは直情的かもしれないけど、決して無分別ではないよ。むしろ、狡猾なくらいだ。

 佐久間阿斗夢と高遠竜一。二人は大学のサークル仲間ということだけど、よくよく調べてみると、そのサークルはいくつかの大学をまたいだ集まりだったんだ。つまり、佐久間と高遠は別の大学の学生だった。佐久間は、県下有数の進学校をトップ級の成績で卒業していて、通う大学は地元を代表する難関エリート大学だ。一方で、高遠が通っているのは、まあいっちゃなんだが、入試フリーパスの凡々大学。つまり、頭の良さだけなら、段違いで佐久間に軍配が上がってしまうのさ。

 さらに、佐久間はナイフリッジでわざと怖気づいて見せることで、ナイフリッジにも登れない小心者だと、高遠と飯田に思い込ませた。実際のやつは、四国屈指の秘境駅である坪尻つぼじり駅から脱出ルートを見つけ出すほどのつわものだ。やつは、登山マップを読み取る能力はもちろん、ナイフリッジを自在に行き来できる度胸と運動能力、それに山蛭に関する知識さえも持っていた、と推測できる」

「分かりませんねえ。ナイフリッジに怖気づくような小心者だと仲間に信じ込ませといて、佐久間に何か得があるのですか?」

 沢渡は相変わらずポカンとしている。

「えっ、まだ分かんないの? こいつはますます面白くなってきたな。

 じゃあさ、佐久間の別の悪魔的な行動も暴露しちゃおうかな。三人組は下山する時に、高遠一人と、佐久間と飯田の二人組とに分かれたよね。どうして分かれたんだっけ?」

 恭助がニヤニヤしながら問いかけた。

「それは……。高遠が、小和田がナイフリッジの向こう側へ迷い込んだ可能性を心配して、別ルートで降りるといい出したからですよ」

「たしかに彼らの証言を総合すれば、高遠は自らの口で、自分は単独でナイフリッジの先のコースから下山をする、と発言したようだけど、一方で高遠自身は、小和田は高所恐怖症だから、とてもナイフリッジを登ることはできないだろう、とも述べている」

「たしかに、そうでしたね。では、なぜ高遠は一人別ルートで下山をするなんて、いい出したのですか?」

「こいつはあくまでも俺の推測に過ぎないが、おそらく、佐久間が高遠に耳打ちをしたんだろうね。ひょっとして、小和田がナイフリッジを越えて、その先で迷子になっているとしたら、このまま三人いっしょに大神田ルートで下山をすると、危険な夜の森の中へ、彼女を一人とり残してしまうかもしれないぞ、彼女を助けられるとすればそれはお前だけだ、とね。

 それを聞いた途端に、不安に駆られた高遠は、別ルートでの下山を決意する。でも、プライドの高い高遠は、佐久間から暗示された提案を、さも自らの意思で思い付いたかのように、飯田の前でつい口をすべらせてしまったんじゃないかな」

「ちょっと待ってくださいよ。三人は行動を共にしていましたよね。ならば、佐久間が高遠に耳打ちするのを、飯田は気付かなかったのですか?」

 沢渡が恭助に食い下がった。

「もっともな質問だね。でも、佐久間が高遠に耳打ちをしたのは、飯田が一人だけいなくなった瞬間、つまり、彼女が用足しにその場を離れた時だったのさ」

 恭助が得意げに鼻を鳴らした。

「でも、だとすれば、飯田が用足しを申し出なければ、佐久間は高遠に耳打ちできなかったことになりますよね」

「その通り。だからやつの頭脳は悪魔的なんだよ。今回の殺人は、あらかじめじっくりと計画されていたものではなく、突発的に起った事件だった。だから、その後に佐久間が取った行動は、全部がとっさにひらめいた臨機応変の応急処置だったことになる」

 遠くの方を見つめながら、恭助が小声でつぶやいた。

「なるほど。佐久間が取った数々の不可解な行動は、恭助さんの説明でおおむね納得いたしましたが、肝心の動機が分かりません。いったいどうして、佐久間は、自分にナイフリッジを登る能力はないと、でまかせを誇示したのですか。なぜ、高遠一人を別ルートで下山させたのですか。そして、小鷹大明神で死んでいたはずの小和田の遺体が、どうしてナイフリッジの下で発見されたのですか?」

「小和田をあやめてしまった後で、佐久間は考えた。このまま下山をしてしまえば、小鷹大明神に残された小和田の遺体は、いずれ、のちにやって来る登山者たちによって見つかってしまうだろう。そうなれば、小鷹大明神で小和田を殺すことができたのが佐久間に特定されることは明白だし、逮捕されてしまうのも時間の問題だ。どうにかこの窮地をのがれなければならない。思案しているうちに、佐久間は、死体の移動によるアリバイ工作を思いついた。小和田の遺体を小鷹大明神から別の場所へ移動させてしまえば、容疑の対象を自分から他の二人へ向けさせることもできるかもしれない。

 さらに佐久間は、容疑の矛先が向けられるいけにえを、高遠に選んだ。今日のところは、あっさり下山をしておいて、翌日なってから、もう一度平山明神山へ登って、そこで小和田の遺体を別な場所へ移動させてしまえばいい。では、移動先は何処がいいだろう。真っ先に浮かんだのが、ナイフリッジの谷底だ。

 あらかじめ平山明神山の登山マップに目を通していた佐久間は、近辺の複雑なルートにも精通していた。下山をすれば必然的に捜索願が提出される。翌日になれば、現地の捜索隊が山じゅうを探すことになろう。おそらく捜索隊は、大神田登山道と、堤石峠からの周回ルートの両方から、はさみうちで捜索を開始するはずだ。翌日の午前中のあいだに、まず間違いなく小鷹大明神の遺体は発見されてしまうであろう。遺体の移動をするなら、どうしてもその前にしなければならないわけだが、かといって捜索隊に隠蔽工作しているところを見つかっては元も子もない。さて、どうやって……。

 このまま三人で一緒に下山をすれば、陽が暮れてしまう。夜間にこの手の山の中を移動するのは危険だから、必然的に、遺体を移動させるのは翌朝の日の出以降となる。しかし、ここで問題がある。捜索隊の眼をかいくぐって遺体を移動させなければならないのだ。そこで思い付いたのが、今や誰も使っていない、大鈴山荘良心庵からの登山道だった。これなら、ほかの登山ルートよりも短い時間で平山明神山山頂へ到達できるし、マイナーな登山ルートだから、捜索隊がそこを調べることは、まず考えられない。日の出とともに登り始めれば、大神田登山道からの捜索隊が頂上へ到達する時刻には、遺体を運び終えて、しかも、大鈴山荘良心庵の小屋まで舞い戻ることだって可能だ。

 コンピュータのような佐久間の頭脳は、三人が頂上付近の探索を終えてから、ナイフリッジへ向かって移動していたわずかなあいだに、この壮大な計画をはじき出していていたんだよ。

 それでは、やがてナイフリッジの下へ落ちている小和田の遺体が発見された時に、警察の容疑を高遠へ向けさせるために、何か手立てはないだろうか。まず、ナイフリッジに自分が登れないことにしておく方が賢明だ。さらに、高遠を一人で行動させることが必要となる。そこで、高遠に単独下山をほのめかしたわけだね。

 ついでに佐久間は、高遠と別れてから、電話で高遠に連絡を入れたけど、あいにく高遠がスマホを切っていて連絡が取れなかった、と飯田に告げて、より警察が高遠を怪しむように、小細工を施したんだけど、さすがにこいつは調子に乗り過ぎだったね。実際には、その時の佐久間は電話をしなかったわけで、警察がその気になって調べれば、佐久間が電話を掛けていなかった事実なんか、すぐにバレちゃうんだからね。

 そして、とどめの最後を飾るのが、翌朝に小和田の遺体を運び出して、ナイフリッジにやって来た時、彼女が背負っていたピンクのリュックサックを外して、遺体だけを突き落したことだ。リュックサックは、足元にわざと置いておく。もちろん、そうした理由は、高遠をおとしめるためだ。前日の下山時にはなかったリュックサックが翌日に見つかれば、論理的帰結として、何者かがリュックをそこへ運んだことになる。それが小和田本人だったら、事件は転落事故として片づけられるし、そうでなければ、小和田以外にリュックを運べた人物は、単独行動を取っていた高遠しかいない。ともに下山をした佐久間と飯田には、共犯でもない限り、それをできたはずがないのだからね」

「なるほど。まさか、リュックが運ばれたのが翌日だったなんて、誰も考えないから、前日に単独行動をした者が、結果的に疑われてしまうわけですね」

「そうだね。まさに心理の盲点を突いた偽装トリックといえるよね。それに加えて、翌朝に使用した秘密の近道ルートを第三者に察知されないように、自分はナイフリッジを渡る能力を有しない、と虚偽まで用意した周到さには、脱帽せざるを得ないね」

 恭助が苦々しく舌打ちをした。

「通常の事件なら、死後十二時間以上を経過した遺体を動かした上に、何十メートルもの崖下へ突き落せば、すぐに警察にバレてしまう。遺体を解剖してしまえば、その痕跡を見つけることは容易だからね。

 ところが、今回の事件は、表面的には事故にしか見えないから、遺族が検死解剖に同意するはずもなく、結局、解剖もできないまま、事件の三日後には葬儀が行われ、遺体は火葬されてしまった。佐久間が打った偽装の大博打は、まんまと功を奏してしまったわけだね」

「とにかく、被害者が若い女性ということもあって、遺体の服を脱がすことすらできませんからね。衣服の袖をめくりあげて、皮膚の表面に付けられた傷の度合いを確認するしか、検死の手立てがなかったみたいです。それでも、現場へ駆けつけた検死官が、とっさに機転を利かせて、胃カメラを突っ込んで、胃の内容物まで調べてくれたことは、実にあっぱれで、結果的にこいつが犯人を特定する決め手となりましたね」

 千田が口をはさんだ。

「そうそう。おかげで、事件の容疑者が三人に完全に絞り込まれたのだからね」

 恭助と千田が和気あいあいとしゃべっているのを、沢渡が強引に制止した。

「ちょっと待ってください。翌朝に遺体を動かすことができたのは、なにも佐久間だけではありませんよね。高遠や飯田にだって同じ手段でできなくはないでしょう」

 顔色も変えずに、恭助が即答する。

「高遠の場合は、翌朝になってから遺体を移動させるメリットが、そもそも存在しない。事件当日に小和田を突き落せる立場にいたのだからね。

 飯田については、事件当日に小和田を殺すチャンスがあった。その場所は東の覗きで、時刻は二時半頃となる。飯田はとりあえず遺体をどこか見つからないところへ隠しておいて、翌朝に東の覗きへやって来て、遺体をナイフリッジまで運んで突き落す。机上の理論では、佐久間と同じシナリオで犯行ができたはずだけど、現実的には無理だな。なぜなら、飯田には小和田の遺体をかついで移動させる体力が、そもそもないし、小林集落からの酷道を車で走行することや、グミンダ峠からの山道を迷うことなく頂上へ行くことも、ナイフリッジを通り抜けることも、すべて彼女の能力の範疇を越えてしまっているのだからね」

 ドヤ顔に浸っている恭助に、沢渡が最後の抵抗を試みる。

「なるほど、本件が殺人事件と決まれば、論理的な推論を重ねることで、佐久間阿智夢が唯一無二の犯人となってしまう。それに関しては納得いたしました。

 されど、まだ事故の可能性が残っていますよね。本件がもしも単なる事故に過ぎなければ、佐久間の逮捕は誤認逮捕となってしまうのです。

 佐久間の車に付けられた傷ですけど、必ずしも六月十二日に付けられた傷だなんて断定できませんよね。もしかしたら、もっとあとになってから、佐久間は再度平山明神を訪れて、その時に付けた傷かもしれないのです。いや、少なくとも、佐久間は、我が身を守るために、そのように主張してくることでしょう。

 いったいどうして、本件は事故ではなかった、と断言できるのですか?」

 沢渡の渾身の反論に対して、少しも動じる様子を見せずに、恭助は笑みを浮かべた。

「ふふふっ……。それはね、山蛭のせいなのさ」

「山蛭ですか……?」

 沢渡は狐につままれたような顔をした。すると、恭助の声がひときわ響きを増してきた。いよいよ議論が核心へと入って来たのだ。

「覚えているかい。被害者の小和田桜子の顔には、いくつもの蛭に食われた傷跡が残されていた」

「ええ、覚えています」

「さらに、噛み付いている蛭を、爪で強引に引き剥がした痕跡も見つかった」

「誰だって、そんな気味の悪い生物に血を吸われていると気付いたら、引き剥がそうとしますからね」

「分からないかなあ……。そいつがおかしいんだよ――。

 じゃあ聞くよ。小和田桜子は、顔面を何匹もの蛭に噛まれるまで、いったいなにをしていたのさ?」

「質問の意味がよく分かりませんが……」

「仮にさ、顔に一匹でも蛭が付いているのを見つけたら、普通はどうする? 女の子なんだし、きっと大声を張りあげて、ところかまわず騒ぎまくるよね。ところがなぜか、何匹から血を吸われるまで、彼女は一切の抵抗をしなかった」

「なるほど、たしかに妙ですね。もしかしたら、木の枝からいっぺんにたくさんの蛭が落ちてきたのかもしれませんよ」

「まさか。ジャングルを歩いていたわけじゃないし、時期だってまだ六月の前半だ、木の枝から蛭がたくさん落ちてくるような状況は、まず考えられないよ」

「じゃあ、一匹に気付いた時に、ショックで声も出せなくなってしまい、その間に、次々と蛭が襲い掛かって来たとか」

「そもそも蛭ってさ、どこから人間に襲い掛かって来るんだろう?」

「それは……」 

「答えは地面からだ。地面から靴底にへばりついたのち、靴の側面を這い上がってくる。やがて、人間の皮膚までたどり着いたら、そこで吸血行為に走る。つまり、山蛭から血を吸われる身体の部分って、必然的に、足とかふくらはぎになってしまうんだよ。通常の山登りをしている最中に、顔まで蛭がよじ上ってくることは、まずあり得ない」

「じゃあ、小和田桜子はどうして顔面を蛭に食われてしまったのですか?」

 沢渡が必死に食らいつく。

「それはね……。彼女が長時間、地面にうつぶせて、倒れていたからさ――」



  (三)


 沢渡巡査部長の赤ら顔から、血の気がさーっと引き失せた。

「小和田桜子が、一瞬地面に倒れていた。つまり、気絶をしていたのですか」

「一瞬ではないよ。なにせ、何匹もの蛭から噛まれているからね。相当に時間が経っていたはずだ。そして、それは気絶ではなかった。

 小和田が佐久間に小鷹大明神で殺されたのは、二時半だ。直前まで飯田と一緒にいた小和田の顔面には、その時点で、蛭が食いつく時間的余地はなかった。つまり、小和田の顔面に食らいついた大量の蛭は、小鷹大明神の段差の下で、うつぶせに死んでいた彼女に、一晩かけて取り付いたものだったと考えられる」

「なるほど、いわれてみれば、その説明が自然ですね」

「ここで奇妙な問題にぶつかる。小和田の顔には、血を吸っている蛭と、血を吸われた傷跡と、それ以外に、蛭を引き剥がした爪痕も残されていたんだよ。

 いったい誰が、彼女の顔の蛭を引き剥がしたんだい? 少なくとも、それは彼女自身ではなかった。だって、蛭が顔にたかり切った頃には、彼女はすでに死んでいたのだからね。

 というわけで、小和田の顔面から蛭を剥がしたのは、翌朝に遺体を移動させた人物、すなわち、佐久間阿智夢に決まりだ――。

 事件の翌朝に佐久間は、小和田の遺体をナイフリッジへ運ぼうと、小鷹大明神までやってきた。でも、遺体をかつぎあげた時に、その顔面には、蛭がびっしりこびりついていた。そいつを背中に背負って移動をすれば、自分のシャツの中にも、蛭が滑り込んでくるかもしれない。佐久間はとっさに、小和田の顔に付いた蛭を爪で引き剥がした。そして、その爪痕が遺体に残ってしまった、というのが真相だ。

 誰だって、蛭が身体に付くのは気持ちが悪い。佐久間の取った行動は心情的には同意できるけど、死後ある程度の時間が経過したのちに、何者かが遺体に触れていた、という致命的な手掛かりも、同時に残すこととなってしまったんだ!」

「ちょっと待ってください。山蛭の痕跡から、佐久間の犯行説が説明できることは分かりました。でも、事故死の可能性が否定される理由は、まだ理解できません」

 ようやく落ち着きを取り戻した沢渡が、必死に食い下がった。

「そうかい。でも、もう分かるよね。

 小和田が事故死だったと仮定してみよう。検死結果から、小和田の死亡時刻は遅くても四時でなければならない。一方で、蛭を引き剥がした痕の説明をするためには、二時二十分に最後に目撃された小和田が、その直後に、仲間の三人が彼女を探索しなかった場所へ瞬間移動をして、なぜかそこで、顔面を下にした状態で居眠りをした。さらに、そのわずか一時間後に目を覚ました小和田が、地面から起き上がると同時に、顔面に付いている蛭に気付き、気持ち悪くて、爪で剥がした。それから彼女は、仲間の三人が下山したのをこっそり見届けてから、おもむろにナイフリッジへ近寄り、ご丁寧に、ピンク色のリュックサックを手前の岩場に置いてから、足を滑らせて滑落した。

 時間的にも無理があるし、心理的にも極めて不可解な行動だよね。さすがに、こいつはあり得ない」

 そういって、恭助は一息入れた。

「次は、高遠の単独犯行と仮定してみよう。高遠が三時半過ぎに小和田をナイフリッジから突き落したとする。

 突き落す時に、小和田の顔に蛭がたくさん付いていたから、高遠は爪で引き剥がした。それから彼女を突き落した。この珍シナリオも、事故死説と同様に、小和田が顔面を下にしたまま、しばらく居眠りをしていなければ成立はしない。こいつも却下だね。

 高遠の単独犯行説のもう一つの可能性が、ナイフリッジで突き落した瞬間には、小和田の顔面は蛭に犯されていなかったけれど、転落したナイフリッジの崖下で、遺体の顔面に、一晩を費やして蛭がたかったという仮説だ。こいつなら、蛭が顔面に付いた理由はきちんと説明できる。でも、そうすると肝心の遺体は崖下にあるのだから、小和田の顔面に付いた蛭を、誰も爪で引き剥がせなくなってしまうよね。

 突き落した高遠本人が、突き落したのちに、自らナイフリッジの崖下へ降りて、また崖をよじ登って戻ったなんて、とてもじゃないけどあり得ない。

 でも、もしかしてと思って、捜索隊の兄ちゃんには、あとから確認しておいたよ。ヘリコプターで遺体を崖上へ運ぶ途中、遺体の顔面に付いた蛭を勝手に引き剥がしたりはしなかったか、とね。そしたらさ、そんなことは絶対にするはずがない、って即答されちゃたよ。あははっ」

 沢渡が大きくうなずいた。

「ようやく理解できたような気がします。顔を地面につけた状態である程度の時間が経過しないと説明ができない山蛭を、爪で引き剥がした痕跡があったために、事故説と高遠の単独犯説の両方の可能性が、ものの見事に、否定されてしまうわけですね」

「その通りさ。さすがの佐久間も、まさか山蛭から足が付くなんて、思ってもみなかっただろうね」


 佐久間阿智夢は、このあとすぐに逮捕された。いくつかの状況証拠を提示されると、彼はあっさりと犯行を自供した。取調室から出てきた千田警部補を、恭助と沢渡巡査部長が待ち構えていた。

「やれやれ、相当な自信家ですね。あの佐久間という青年は……」

 そういって千田は大きくため息を吐いた。

「佐久間と小和田は、実は同じ高校出身で、高校時代には付き合っていたそうです。まあ、そんなに長続きはしなかったそうですがね。やがて二人は別々の大学へ進学して、ずっと疎遠だったみたいです。ところが、今回のダブルデートで、偶然にも、佐久間と小和田が顔を合わせます。事件当日になって初めて、佐久間は、高遠の恋人がかつて付き合っていた小和田だったことを知ったそうです。当然のごとく、この時の二人は、ともに驚き合ったわけですが、互いに初対面のふりをよそおってその場を取り繕いました。ところが、佐久間は小和田の姿を見た途端に、よりを戻したいという欲望が湧き起こりました。飯田よりも小和田の方がタイプでしたからね。登山中に、高遠の目を盗んで、佐久間は小和田に話しかけたりして、こっそり二人きりになる機会をうかがったそうです。そして、飯田と小和田が東の覗きへ行った時に、飯田の目を盗んで合図を送り、小和田と二人きりになることに、まんまと成功しました。

 小鷹大明神のところで、佐久間は小和田にもう一度付き合おうと申し出たそうです。でも、小和田はあっさりとそれを断ります。小和田には美人特有のちょっと意地悪な性格があったみたいで、佐久間の呼びかけにわざと従って、思わせぶりな態度で、佐久間の方から告白させてから、そこで拒否をする。もともと、彼女に佐久間とよりを戻す気持ちなどなかったわけです。

 ところが、佐久間は直情型の人物です。かーっとなって、彼は衝動的に小和田をうしろへ突き飛ばします。運悪く、その先が段差となっていたから、小和田は背中から下へ落ちてしまったそうです。そこで大怪我を負った小和田は、下へ駆けつけてきた佐久間に向かって、人殺し、絶対に許さないからね、とわめき立てたそうです。冷静さを失った佐久間は、小和田を黙らせようと、そばに落ちていた小岩を手に取って、彼女の後頭部を殴ってしまいます。小和田はそこで絶命してしまいました。

 あとは、我々の推理した通りの展開だったようですね」

 そういって、千田は一息入れた。

「翌朝、佐久間は大鈴山荘良心庵の空き地までやって来ます。六月初旬の愛知県の日の出時刻は、ほぼ四時半です。佐久間は五時ちょっと前に、大鈴山荘良心庵の登山口から出発をして、一時間ほどで平山明神山頂まで到達したそうです。小鷹大明神から小和田桜子の遺体を抱えて、ナイフリッジまでの急坂を下るのは、さすがの佐久間でも、相当に骨を折ったみたいですね。ただ、佐久間はアメフト選手のような肉体の持ち主だし、小和田は小柄で軽量な女の子ですから、どうにかそれもできたそうです。

 最後に、佐久間は訊ねてきました。いったいどうして、警察は翌日の近道トリックに気付くことができたのかと。自分は、警察からの捜査を警戒して、移動中に登山アプリを立ちあげなかったから、GPSの記録ログは絶対に残っていないはずなんだけどなあ、と悔しそうにうつむいていましたよ」

 千田が含み笑いをすると、代わって、精神的にまだ大人になり切れていない如月恭助が、得意げにまくしたてた。

「徒歩のGPSを切っておくのなら、ついでに車のGPSも切っておくべきだったよな。翌朝の佐久間は、高速道路で現場まで駆けつけているけど、その時にGPSゲートもくぐっていたんだよ。全く、お笑い草だよね。それでゲートの通過時刻がおおやけの記録ログにしっかりと刻まれてしまったってわけ。

 まあ、得てして、殺人事件の犯人なんて、どんなに頭のいい奴でも、くだらないミスの一つや二つはおかしてしまうものなのさ」

 そういって、如月恭助は口元を緩ませる。

「なにせ、奴らのたいていが、殺人は初心者なのだからね……」


挿絵(By みてみん)


 容疑者を三人まで絞り込んだ犯人当てミステリー、平山明神山殺人事件、でした。

 今回は、命がけの現地取材(作者本人談)を経て、ようやく完成することができた作品で、それだけに、喜びもひとしおです。

 思い返せば、本作ですが、舞台設定を先に考えてから、書いている最中にメイントリックがひらめきました。通常は逆パターンをたどることが多い私としましては、当初の期待より、はるかに重厚で楽しい作品に仕上がってくれて、とても感慨深いものがあります。

 みなさんは、どうお感じになられたでしょうか。ご意見・ご感想をお待ちしております。


   iris Gabe


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― 新着の感想 ―
[良い点] やられました(苦笑)西と東を勘違いしてるとは……空間把握能力の低さが露呈しましたね(苦笑) (自称)半分くらい合っていた気がしましたが、やはりiris様には考えがはるかに及びませんでした…
[良い点] 今回も完敗でした。 犯行のあとに即興でトリックを組む、という発想がなかったのが敗因でしょうか。 (以降ネタバレ) 山中であれば防犯カメラはないし、鑑識も街中の犯罪と比べて動きにくい…
[一言] 愛理です。感想欄では二度目の投稿です。 活動報告のコメント欄にするか、こちらにするかで迷いましたが、こちらの感想欄に書くことにしました。 以下の文にはネタバレの箇所がありますので、本編未読の…
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