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足音

 私の所属する研究室は、大学の所有する実験研究棟の最上階、五階東棟の一番奥にある。

 大学生三年の前期末に研究室に配属されて以来、私は毎日足繁く研究室に通っていた。四年生の先輩方が卒業研究を忙しそうに進行させている間の暇を縫って実験をさせてもらったり、四年生の実験の補助に入って実験の方法や説明を聞いたりしていた。

 先輩方が卒業し私が進級する頃には、一日の三分の二以上を研究室で過ごすようになっていたほどであり、ときには夜通し研究室で過ごすこともあった。一人で夜を明かすこともあれば、友人と駄弁ったりして明かすこともあったが、そのうちの八割はただ遊んでいるだけであった。要するに、家に居ても暇なので、研究室に居ただけなのだ。

 そんな中、最初にそれに気づいたのは、私が四年生になってすぐの四月中旬だった。


 その日は一度研究室に寄った後、私が所属している委員会の会議があったため、午後五時頃に研究室を出てその会議へと向かったのだが、思った以上にその会議が長引き、研究室に戻ってきたのは午後十一時を回っていた。戻ってきてみると、当然のことながら研究室には誰も居なかった。

 私はこの後にやらなければならない実験が控えていたが、晩御飯を未だ食べていなかったため、まずは食事を取ることにした。

 研究室にはカップラーメンやカップ焼きそばが常備してあった。車を持っている者たちが、定期的に大型ディスカウントショップや安売りを行っている薬局等に行って大量に買い込んでくるのだ。その購入費用は研究室費と呼ばれる共同のお金から捻出されており、カップラーメン等を食べる場合には、その研究室費が入っている専用のボックスに所定の金額を支払って購入する。私を筆頭に研究室のほとんどの者、ときには別の研究室の友人や後輩等も、このシステムのお世話になっていた。

 カップラーメンを食べるため、お湯を沸かす。ガスコンロでお湯が沸くまでの間、暇だったのでPCでインターネットを立ち上げ、有名動画サイトのページを表示させた。最近よく見ている、シリーズ化された動画のまだ見ていないパートを再生させる。素人が、あるテレビゲームを実況しながらプレイしている動画がPCのディスプレイに流され始めた。

 ほどなく湯が沸いたので、カップラーメンに湯を注ぎ、動画を見ながら胃の中にかき込んだ。

 スープまで全部飲み干した頃には、その動画もちょうど終わった。そこで区切りをつけて実験を始めればよかったのだが、私は動画の続きが気になり、結局その後二時間以上動画を見続けてしまった。はたと気づいたときには、すでに午前一時半を回っていた。

 さすがにこれ以上実験を引き延ばしにするのは駄目だと思い、私は白衣を着て実験の準備を始める。

 私の所属する研究室は部屋が二つ与えられている。部屋の約半分は実験スペースで、残りの半分は食事したり研究室メンバーが団欒したりPCを使用したりできる「居住部屋」と、試薬や器材等が並び完全に実験・研究のみを行う「実験部屋」だ。この二部屋は廊下を挟んで真向かいにあり、私が先ほどまで食事をし、PCで動画を見ていたのは居住部屋である。

 実験を行うため実験部屋へを移動し、培養細胞の継代を行うため、クリーンベンチを起動させる。

 細胞の継代とは、一本の培養フラスコ内に増殖した培養細胞を複数の新しい培養フラスコに移し替える作業のことである。この作業は、空気中に漂うほこりや細菌・ウイルス等の微生物が培養フラスコ内に混入しないよう無菌的に行う必要があり、そのために使用する器材がクリーンベンチである。

 細胞継代の作業を開始して少しした頃、開けっ放しにした部屋のドアの外、廊下から足音が聞こえてきた。ペタペタとサンダルかスリッパで歩くような足音だった。

(こんな時間に珍しい。警備員か?)

 手を慎重に動かしつつも、頭の隅で考えた。時刻は午前二時前。さすがにこの時期のこの時間に、研究室にやってくる学生がいるとは思えなかった。

 私の大学では、毎晩警備員が午後十一時頃に巡回し、学生が残っていないか、残っている場合は時間外実験の許可を取っているかを確認して回っている。今までは気づかなかったが、その警備員がこの時間も巡回しているのかもしれない。もし巡回なら、開けっ放しのドアから顔を覗かせるだろう。

 しかし、足音はするものの、一向にその足音の主は顔を覗かせなかった。そしてその足音は、二分ほどで去って行った。

 私は多少の疑問を感じていたが、何事も無かったかのようにそのまま継代作業を続けた。


 その後も、そんなことがたびたびあったが、結局足音の主を特定することはできなかった。

 研究室の先輩方に聞いて驚いたのだが、どうやらその足音が聞こえるのは私だけではないらしく、聞いたことがあると答えた先輩が数名いた。また、すでに卒業した先輩の何人かも聞いたことがあるらしく、この件はけっこう有名な話なのだと知った。

 そして、最初に足音を聞いてから一ヶ月ほど経った日のこと。

 その日も午前一時を過ぎてからようやく実験を始めたのだが、その日は培養細胞にウイルスを接種する実験を行ったため、いつもより長く時間がかかる日だった。

 実験室の方でいつも通り実験を進め、それらが中盤に差しかかった頃、例の足音が廊下から聞こえてきた。私はもはやその現象にも慣れ、特に何とも思わずに作業を続けていたが、この日はいつもと違った。

 いつも開けっ放しにしているドアとは反対側のもう一方のドアが開かれる音が、微かに、でも確かに聞こえた。少し遅れて、部屋の中に置いてあるキャスター付きの安い丸椅子に座ったときに鳴る「キィ」という音が、確かになったのだ。

 私は実験中の手を止めて後ろを振り返り、音の鳴ったと思われるあたりを見回したが、棚や薬品、器材等が邪魔をしてよく見えなかった。

「誰?」

 呼びかけてみたが応答はなかった。

 音から判断するに、その足音の主は私が今いる部屋のドアを開けて中に入り、椅子に腰かけたといったところだろう。

 私は、もしこれが悪さをする霊だったら厄介だが、今までから察するに特に悪さはしないだろうと当たりをつけ、実験を再開した。案の定、私の予想通りその後は何事もなく、無事に実験を終えた。  


     ◇ ◇ ◇


 私が大学院一年生の夏、私の一つ上で大学院二年生の石川(いしかわ)先輩が研究室に泊まり込んで実験を行うということになり、実験補助として私も泊まり込むこととなった。泊まり込むメンバーは石川先輩と私の他にもう一人、私と同期で大学院一年生の方西(かたにし)の三人だ。

 午後十一時に開始する実験を終わらせて一息ついたのは、午前〇時を少々回った頃だった。次の実験は午前二時から開始で、そのまま午前八時までは三時間おきに、その後は六時間おきに同様の実験を行う経過実験だった。一回の実験にはだいたい一時間前後かかる。

 石川先輩には三十分ほど休憩をとってもらい、私と方西で実験に使った器材の補充や洗い物を分担して行った。

 私は洗い物を終えて水道の蛇口を閉めた。水の流れる音が止んだそのとき、例の足音が聞こえるのに気がついた。

 方西はそうでもないが、石川先輩は怖がりである。石川先輩もこの足音のことは知っているが、今これを報告してもよいものかどうか、少しだけ逡巡した。結局、石川先輩には報告せずに、方西にだけ報告することにした。

「にっしー、例の足音聞こえる」

「マジで? 俺、今まで聞いたことないわ」

 私を始め、研究室の人たちは方西のことを「にっしー」「にっしー先輩」と呼んでいる。

「今もまだ聞こえる?」

「うん、まだするはず」

 私と方西は声を潜め、耳をすませた。五秒ほどの静寂の後、廊下からペタペタと足音が聞こえてくる。

 私は目だけで「な、聞こえるだろ?」と同意を求めた。その考えは方西に伝わったらしく、方西は無言で頷いた。

 私は音を立てないよう、ゆっくりと廊下に通じる開けっ放しのドアへと近づいた。方西も私の行動の意味を理解したのか、同様にゆっくり後についてくる。

 廊下の足音はまだ聞こえる。

 私と方西は、同時に廊下に飛び出した。その瞬間、足音がぴたりと止んだ。

 私たちの研究室のすぐ隣にある非常階段のドアに背を向け、エレベーターホールの方に続く廊下に目を向けるが、何も見つけることができない。方西の顔を見るが、方西も何も見えないようだ。

 十秒ほど、二人とも黙って廊下に目を向けていた。しかし、何の変化もなく、諦めて部屋に戻ろうとしたそのとき――。

 ――ペタペタペタ。

 相変わらず何も見えない。だが、目の前からエレベーターホールに向けて、足音だけが歩いて行った。

 その足音はそのまま直進して廊下の丁字路に突き当たると、どちらにかは分からないが曲がって、やがて聞こえなくなった。

 少しして、感慨深げに方西が呟く。

「俺、心霊体験初めてだ。凄いね」

 その後、この体験を休憩中の石川先輩に話した。石川先輩はいつも通り恐怖に慄き、その怖がる様子を見て私と方西は笑いあった。

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