彼岸と此岸の境界線
月日は流れ、私は二十八歳になっていた。
此処に来るのは約四年ぶりだ。
四年前まで学生として通っていた大学。その大学の敷地内に建っている施設の内の一つである実験研究棟は五階建てで、この建物内には様々な実験室と研究室があった。私の所属していた研究室は五階の西側最奥にあり、すぐ脇には非常階段、一つ階を上ると屋上があった。私を含めた研究室の喫煙者はそのどちらかでよく煙草を吸っていた。
目の前の実験研究棟には、人の気配が全く無かった。ただ、入口の扉がまるで私を誘っているかのようにぽっかりと口を開けている。
私は迷わず入口から中に入り、中央ホールにあるエレベーターへ向かう。棟内の電気は消えていて薄暗かった。エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。エレベーター内の明かりは点いており、光が薄暗いホールに漏れ出てくる。
エレベーターに乗ると五階のボタンを押す。扉が閉まり、エレベーターが上昇する。
五階に到着して扉が開く。五階も明かりは点いておらず、薄暗い廊下に足を踏み出した。そのまま今度は階段へ向かう。
薄暗い階段を上り、屋上の扉を開けた。そのまま屋上に出て、一度深呼吸する。とても懐かしい感覚だ。
この建物の屋上の縁は膝くらいの高さのでっぱりがあるだけで、落下対策はなされていなかった。そのため、屋上の敷地は部分的に柵で囲まれており、全体の四分の一ほどに行動範囲が制限されていた。しかしその柵も腹くらいの高さまでしかなく、容易に乗り越えられる。はっきり言って、ほとんど意味が無い。
屋上をぐるりと見回すと、北側の端っこに人影が見えた。その人影が見えた方へ、柵を乗り越えて向かう。
私はその人影が誰のものなのか、ほぼ見当がついていた。もはやそれは確信に近かった。
私に背を向けて立っている人影の一メートルほど手前まで歩み寄り、私は声をかけた。
「お久しぶりです」
その人影はゆっくりと振り向くと、懐かしさを滲ませた笑顔を浮かべて話しかけてきた。
「久しぶり。待ってたよ。『約束通り』とは言えないけど、また会えたね」
一拍の間を置き、その人は言葉を続けた。
「顔を合わすのは一年ぶり、私の葬式以来だね」
その人物――佐々木聖海さんはにんまりと笑った。
◇ ◇ ◇
私の大学時代の二つ上の先輩に、佐々木聖海さんという先輩がいた。
聖海さんは非常に霊感が強く、その影響で私も霊感を持つようになった。
聖海さんは、霊感意外でもいろいろ変わった性格の持ち主で、そして私と馬があった。聖海さんの在学中は、よく一緒に煙草を吸いながら駄弁ったり、深夜にドライブに連れて行ってもらったりしていた。聖海さんは卒業後も、たびたび前触れなく私に連絡を寄こし、その都度会って適当に遊んでいた。
「死を恐れ、死に憧れる」
聖海さんはよくそう言っていた。
死は怖い、死にたくないという感情を持ちながらも、どこか死というものに惹かれていた。おそらく、幼少期から幽霊という死の向こう側の住人を当たり前のように認知していたことが、一つの要因なのではないかと私は考えている。
そんな聖海さんは、昨年の三月に起きた大震災に不運にも巻き込まれてしまい、そのまま帰らぬ人となった。
聖海さんと最後に遊んだのはさらにその前年、一昨年の九月だ。聖海さんの最後の言葉は、「また会おうね」だった。
◇ ◇ ◇
「此処に来たのは四年ぶりです。あ、此処っていっても、研究棟のことじゃなくて、この空間というか。今回は中にいるのが誰なのか、すぐに察しがつきました」
私は、今までに何度かこの空間に来ている。いつもと変わらず就寝したのに、何の予兆も無く、気づいたらこの空間にいるのだ。夢のようで夢ではない、しかし現実でもないこの空間に。
この空間には、建物が一つだけある。その建物は来るたびに変わるが、必ず私が知っている場所だった。その場所の周りは何も無い、真の意味で無の空間が広がっている。そして、その建物の中には死んだはずの者がいる。
四年前に私がこの空間に来たときは、そこにあった建物は私の実家であり、その中には亡くなった飼い猫のゴン太がいた。今回は、私の通った大学の実験研究棟があり、その中には聖海さんがいる。
「へえ、今までにも此処に来たことがあるんだ。私は初めてだわ。こんな世界があるなんて知らなかった」
聖海さんは私から視線を外し、北の方を見つめながら言った。
聖海さんが何を見ているのか、彼女と並んで立ってみたら理解できた。聖海さんの横に並んだ途端に、目の前に景色が現れた。その景色は学生時代に何度も見た、屋上から見渡せる景色――しかも夜景――そのものだった。無の空間に何かが出現するのは初めてだった。
「そうなんですか。俺はこれで五回目ですね。此処がどういう場所なのかは未だに分からないですが」
私も夜景を見ながらそう答えた。久しぶりに見る屋上からの景色に、懐かしさが込み上げる。
「けっこう来てるね。私は初めてだけど、この世界がどういう世界なのかは何となく分かるよ」
「え?」
聖海さんはたった今、この場所は初めてだし知りもしなかったと言っていたはずだ。
「此処はね、何ていうんだろう。境界とでもいうか」
「教会?」
「境界っていうか、狭間っていうか。現世と常世の境目的な場所だね。彼岸と此岸でもいいけど」
そちらの「きょうかい」かと自身の思い違いを正すが、言葉にはしない。代わりに確認をする。
「死んだ人が彼岸に向かう前に立ち寄る場所、みたいな感じですか」
「うーん……、立ち寄るというより、偶然迷い込むって方が近いと思う。私は気がついたら此処にいたんだけど」
「へえ、そうなんですか。でも、偶然迷い込んだ場所がたまたま知ってる場所って、かなりの低確率ですよね」
それは違うと聖海さんは訂正して、解説を続けた。この感じが私には凄く久しぶりに感じられた。
「この建物も景色も、私の生前の記憶が作り出したものだよ。だから、この建物にしても私が立ち入ったことがない場所は入れないか何もない空間になってるはず。たぶん、生前最も印象の強かったところや思い入れの強い場所が具現化されてるんじゃないかな」
この話は私にとって目から鱗だった。今まで、てっきりこの空間にある建物は私の想像が作り出したものだと思っていたからだ。しかし、そう考えてみると、過去にこの空間に来たときに感じた違和感にも納得がいった。この空間に現れた建物の構造等が、私の記憶と多少ずれていたり異なっていることがあったからだ。
「……そんな場所に俺なんか来ちゃって、何か申し訳ないですね」
「またそういうことを言う。むしろ、○ちゃん来ないかなって思ってたぐらいなんだから。まさか、本当に来るとは思わなかったけどね」
聖海さんは苦笑した。私もつられて苦笑しつつ、新たな疑問をぶつけてみた。
「でもそうなると、何で俺は此処に来てるんですかね。ひょっとして、眠ってる俺が死にかけてるとか?」
「それは、一部の霊感を持っている人には霊が見えるってのと一緒で、極一部の人は死ななくてもこの世界に来れるっててことだろうね。理屈とかじゃなくて」
聖海さんが話すこの手の話には、基本的に根拠や論拠がない。それにもかかわらず、不思議な説得力があった。学生時代には聖海さんのこういった話に、幾度となく納得させられ感心したものだった。
「でも、この世界良いね! ずっと此処に居たいくらいだよ」
聖海さんは笑顔で私に言ってきた。この聖海さんの顔は、暗に私に同意を求めている表情だ。
「俺はこの場所、嫌いです。此処は感情がやたらと高ぶるんで」
聖海さんは一瞬だけ、私の同意が得られないことに不服そうな顔をしたが、すぐに表情を崩した。
「あはは、○ちゃんらしいや。まあ、いわば此処は、魂というか感情というか、そういうのがむき出しの状態だからね。そりゃ、感情も高ぶるよ」
ですね、と私は同意した。
「最近はどう、元気にしてる?」
「はい、元気ですよ、無意味に」
大学を卒業後、聖海さんと会うたびに交わされるお決まりの会話だった。しかし今回はそれに加え、一つ大事な報告があったことを思い出し、付け加える。
「あ、そうそう。今年の一月に入籍しました、自分。式は五月に挙げる予定です」
「へえ~……………………、え?」
たっぷりの時差をもって驚愕の表情に変わる聖海さんを見て、私は吹き出してしまった。予想以上に良いリアクションをいただき、私はご満悦だった。
「え、嘘……、ええ!?」
「本当ですよ」
「だって、そんな、今までずっと恋愛に全く興味なかった○ちゃんが?」
「はい、自分でも吃驚ですよ」
これは本心だった。まさか自分が誰かを好きになり、交際し、結婚までするなど、私自身学生の頃では考えられなかった。
聖海さんはその後もずっと、信じられないと言わんばかりにいろいろと質問をしてきた。こうなることは予想できていたため、そつなく応答する。
「相手は誰? 私の知ってる人?」
「いえ、うちの大学の人ですが、俺の三つ下なので聖海さんは知らないと思います。ただ、苗字は聖海さんと一緒で、佐々木さんといいます」
「そうなんだ。えー、馴れ初めとか聞きたい!」
「いえ、それはさすがにご勘弁を。まあ、いろいろとありました」
聖海さんは露骨に「えー」と不満そうにしたが、私の性格を比較的把握してくれているためか、それ以上突っ込んで聞いてこなかった。
「まあ、だろうねえ。○ちゃんだもん、普通にことが運ぶ訳ないよね」
聖海さんの当を得た台詞に、私は「ええ」と同意した。
その後も、近況報告や思い出話に花が咲いた。どれくらい時間が経ったのか分からない。ただ、学生時代のときのように駄弁っていた。
途中、聖海さんと交際していた山田先輩の話にもなった。
聖海さんと山田先輩は、三年弱交際を続けたが、山田先輩が大学院を卒業して半年ほど経った頃に別れてしまった。原因は、山田先輩の浮気である。
「聖海さんの死は山田先輩にとって、とてもショックだったみたいですよ。この間会ったとき、そう言ってました」
私のその報告を聞いて、聖海さんは「そっかそっか」と満足げに笑っていた。
その後も話題は尽きず、気がつくと、夜空はいつの間にか、夜明け前の黒と青と朱と紫色を混ぜ合わせたような色へと変わっていた。
急に、聖海さんは「そろそろ」と言って悲しそうな顔をした。
「そろそろ、時間だよ」
「え? ……ああ、もうそんな時間ですか」
「あんまり名残惜しそうじゃないね」
「そうでもないですよ」
聖海さんが名残惜しそうな顔をする。私はかけるべき言葉を探す。
「また、会えますかね?」
「たぶん、もう無理」
「そうですか」
予想通りの回答が返ってきた。
「死んだら会いに行くって、明け方の貯水湖の畔で話したの覚えてる? あれ、果たされたし、たぶんさよなら」
「………………」
それは覚えていた。あのときは私と聖海さんで、もし自分が死んだら幽霊になるかどうかという話をしていた。そして最後に聖海さんは「もし幽霊になったら私に会いに来る」と言っていた。
――『約束通り』とは言えないけど、また会えたね。
(……そういうことか。確かに、約束とは少し違う形ではあるな)
つい思考に耽ってしまい、沈黙が訪れた。それに気づき、慌てて聖海さんの様子を窺うと聖海さんと目が合った。暗い表情をした聖海さんの顔は、次の瞬間伏せられた。頭を下げたのだ。
「ごめんね、○ちゃん。私のせいで霊感持つことになっちゃって。いろいろ迷惑かけちゃったよね」
予想外の台詞と行動に、私の動きが止まる。何と返答しようかと取り急ぎ考えるが、答えが纏まるより早く、勝手に言葉が私の口から紡がれた。
「……いえ、お気になさらず。たぶん、聖海さんと出会って仲良くなってなかったら今の俺はいないでしょうし、今こうして此処で会えてませんから」
自分の口から出た台詞を頭の中で反芻して見る。言葉が足りてないようにも思うが、本心ではあった。
「……ありがとう」
「いえいえ。それに、佐々木さんと出会えたのも聖海さんの……、霊感の御蔭ですし」
「そうなの?」
「そうなんですよ、実は」
聖海さんの表情が少しだけ明るくなった。物理的に陽が聖海さんの顔に差しているようにさえ感じた。
そう思った瞬間、本当に夜明けの陽が差してきた。思わず、光の差す方へ目を向けるが、眩しさに目が眩み、慌てて朝日に照らされる町並みの方へ視線を向ける。朝焼けの中で朝日に染まるその景色は、今まで実験研究棟の屋上から見てきたどのそれよりも鮮やかで美しかった。
「○ちゃんの役に立ったんだ。それなら良かった」
「はい、ですから、感謝こそすれ、迷惑に感じることはありません」
そっかそっか、と独り言のように呟き、聖海さんはにっと笑顔を作った。
「これで、本当に心残りが無いよ。さよなら」
「さ……、いろいろ、ありがとうございました」
聖海さんにつられて「さようなら」と言ってしまいそうになるのを寸前で堪え、逆に感謝の言葉を口にした。一拍の間を空けて、聖海さんも私に倣った。
「こちらこそ、今までありがとう」
◇ ◇ ◇
目が覚めると、案の定私は泣いていた。
(……あーあ、ったく)
心の中で舌打ちをし、布団の中で涙を拭いつつ鼻をできるだけ静かにすする。横で寝ている佐々木さんに見られる前に平常心に戻らなければと、心を落ち着かせる。
少しずつ冷静になっていく思考の中で、つと聖海さんのことを考えた。彼岸に行くことを望んでいた聖海さんは、無事に行けるだろうかと。
やがて、泣きやんだ私は布団から這い出ると、低血圧で朝に弱い佐々木さんを起こしにかかる。
今日もまた、此岸を生きる私の一日が始まる。




