誤算
「うわぁぁぁぁぁぁぁッ! うわぁぁぁぁぁぁぁッ!」
1分……1分まではどうにか耐えることができた。だが、それ以上は文字通りの地獄だった。直接的な痛みもなければ、恐怖もない。だが、耳元数センチの空間で永遠に鳴り続ける「プーーーン……」という狂おしい羽音は、人間の精神を内側から破壊する耐えがたい拷問だった。最初は両耳を固く塞いで耐え忍び、次は頭を激しく振って不快音が消えるのを祈るが無駄だと悟る。今度は全身を高速で回転させて不快音から逃れようと無意味な努力を重ね、最後には爪で己の皮膚を強くかきむしった。爪が肉を裂く激痛によって、あの狂いそうな羽音の苦痛を上書きしようとしたのだ。痛むほうが、あの羽音よりはるかにマシだった……!
10分間。
死ぬほど長い時間だった。こんなもの、B級魔法などと嘲笑されるような代物ではない。使い方によっては究極魔法と呼んでも差し支えないほどの脅威だ。俺は全身をかきむしり、自らの血で染まりながら、身をもって【|モスキート・シンフォニー《不快なる羽音》】の恐ろしさを証明してみせたのだった。
「キャハハハハハハ! なんて素晴らしい魔法なの! 本当に最高だわッ!」
俺が床でのたうち回り、苦しむ姿を見下ろしながら、プラタは歓喜に身を震わせてほくそ笑んでいた。そう……これこそが、残念エルフ・プラタの本性。相手が苦しむ姿にこの上ない快感を得る、筋金入りのサディストなのだ。
ゲームでは、過度な痛みの再現はコンプライアンス的に禁止されていた。ダメージを受ければ動きが鈍くなったりステータス異常になるだけで、腕を切り落とされようが苦痛はなかったのだ。その代わり、死亡時に所持金やアイテムが消失するペナルティでゲームバランスを取っていた。だが、ここは現実の世界。俺はゲーム時代には決して味わえなかったB級魔法の本当の恐怖を、本日2度も身体に刻み込まれる羽目になった。
「ガマちゃんッ! 大丈夫っすか!?」
10分間の地獄を耐え抜き、床に倒れ伏す俺の元へ、クロエが真っ青な顔で駆け寄ってくれた。
「ふふ、キャハハハハ! 君は最高の実験台よ! 本当に素晴らしいわ! ……とりあえず、その綺麗な自傷痕を治してあげるわね。ヒール」
プラタはB級魔法にしか興味はない。だが、それは他の魔法が使えないことを意味しない。そもそも彼女は、この世界でも指折りの最強の天才魔法士なのだ。使えない魔法など存在しない。彼女が細い指先をかざすと、俺の全身を覆っていた引き裂き傷が一瞬で綺麗に塞がっていった。最強の格闘家・クロエと、最強の魔法使い・プラタ。俺がこの過酷な異世界で生き抜くために、手に入れなければいけないパートナーだ。
「……はぁ、はぁ。本当に素晴らしい魔法だったよ、プラタ。これからも……俺でB級魔法を試してくれて構わないからね」
(嫌だ! もう二度とあの苦痛は味わいたくない……!)心が悲鳴を上げる。だが、ダメだ。レアスキルもなくイケメンの容姿もない俺がこの世界で生き抜くには、プラタの戦闘力が絶対に不可欠なのだ。
「キャハハハハ! 余は幸せ者よ! こんなに優秀なモルモットが見つかるなんて最高だわ!」
少し冷酷な光を宿したプラタのサディスティックな笑みは、背筋が凍りつくほど美しかった。
その美貌に一瞬見惚れてしまった俺は、(まあプラタのためなら、喜んでモルモットになってやるのも悪くないか……)なんて毒されていた。
「キィィィィィィィッ! キィィィィィィィッ!」
突然、クロエが猫のように威嚇の声をあげてプラタを睨みつけた。俺を守ろうとして、全身の毛を逆立てているのだ。
「あら、子猫ちゃん。余に噛みつくつもりかしら?」
プラタは冷ややかな瞳でクロエを見下ろす。またしても最強同士の再戦が勃発しそうだ。
「クロエ、やめるんだ。プラタは俺たちのパーティーに必要な大切な仲間だ。仲良くしてくれ」
「きゅ〜〜〜ん……」
俺が言い聞かせると、クロエは一転して猫のように寂しげな瞳になり、背中を丸めて殺気を消した。
「わかってくれてありがとう、クロエ」
「……僕を救ってくれたのはガマちゃんっす。ガマちゃんは、その残念エルフのことも救うつもりなんすね!」
眼を輝かせるクロエ。彼女の中で、俺はどこまでも優しく高潔なヒーローとして変換されているようだ。実際は欲望と生存本能だけで動いているクズな自分には眩しすぎる言葉だが……まあ、利用できる好意は存分に利用させてもらおう。
「……ふん、面白いことを言う子猫ちゃんね」
クロエの言葉を聞いたプラタも、不敵な笑みを浮かべつつ、どこか毒気を抜かれたようだった。
「よし、プラタ。ここを片付けて、一緒にギルドへ行こう」
引きこもりのプラタが大図書館の外に出るのは、目当てのB級魔導書の情報を得た時くらいだ。俺の手で、この不法占拠の引きこもりエルフを外界へと連れ出す時が来たのだ。
「嫌よ」
「……え?」
あっさりと断られた。
「お、俺のパーティーに入ってくれるのじゃないのか……!?」
「そうよ? パーティーには入ってあげるわ。でも、常にモンスターと一緒に過ごすなんてごめんだわ。余が必要だと感じた時、余の判断で、余に利益がある時だけ力になってあげるわよ」
「ええっ!?」
「ガマちゃんに向かって失礼っす! ……でも、残念エルフが僕たちと同行しないっていうなら、それは大賛成っす!」
プラタのモンスター呼ばわりに、クロエは一瞬猫のように髪を逆立てて怒りの眼光を向けた。しかし、プラタが一緒について来ないと理解した瞬間、「やったー!」とばかりに顔を輝かせて大ジャンプした。
だが、興奮して身軽になりすぎた彼女は勢い余ってガツンッ!と地下倉庫の頑丈な天井に頭から突き刺さってしまった。天井からポッカリと足だけが生えた状態で、クロエはバタバタと虚しく悶え続けていたのだった。




