第90話 守られている町
一か月と十日が過ぎた。
町は、これまでで一番落ち着いていた。交易は滑らかに回り、防衛報告は迅速に上がってくる。連合からの評価も悪くない。
「悪くない。むしろ、いい」
倉庫を検分しながら、倉庫番がそう言った。誇張ではなかった。冬の備蓄は棚を埋め、外縁部からの報せも以前より早く届く。
代表の机には、今日も書簡が山積みになっている。次回会議は三日後、追加人員の可能性を検討――どれも文字は整然と並んでいるのに、封を切る手はなぜか重かった。
広場では、子どもたちが声を上げて走り回っている。守られている、という実感は確かにそこにあった。
「悪い選択じゃなかったよ」
通りかかったマルタが、洗い物の手を止めずに言う。誰もそれを否定しなかった。
だが。
その広場に、代表の姿はない。畑にもいない。焚き火のそばへも、このごろは時々しか顔を出さなくなった。
二週前に派遣された若者の一人が戻ってきた。腕に軽い傷を巻いている。
「大したことない」
彼は笑ってみせる。
「本当に?」
出迎えた家族の声が震えた。
「防衛線は安定してる。連合は強いんだ」
強い。その一語が、集まった人々の肩からそっと力を抜いていく。
三日後、連合から新たな提案が届いた。恒常的防衛参加への移行――。
「まだ三か月だ」
書簡を置いて、代表が低く言う。
「評価が高い、と書いてある」
誰かが紙面を指でなぞった。評価。町はいつのまにか、連合にとって“優秀な単位”として数えられている。
夜になった。焚き火の炎はいつもより小さい。代表は皆より遅れて、輪の端に腰を下ろした。
「どうだ」
隣からレオンが問う。
「悪くない」
「だが?」
返事の代わりに、しばらく沈黙が落ちた。薪の爆ぜる音だけが続く。
「戻る道が、細くなっている」
その言葉に、誰も笑わなかった。
速さは正しかったし、守りも機能している。それでも――集中というものは、放っておけば自然に恒常化していく。
火を見つめた。守られている町は静かで、揺れも少ない。ただ、揺れが減るのと同じだけ、口に出される問いも減っていた。
「三か月後、どうする」
輪の誰かがつぶやく。答える者はいなかった。
町は今日も壊れていない。むしろ、強い。けれど強さが積み上がるほど、この暮らしを手放して元へ戻るという選択は、確実に難しくなっていく。
三か月の期限は、まだ先だ。それでも連合は、移行への返答をもう待ちはじめている。代表がその問いにいつ、どう答えを出すのか――焚き火を囲む誰もが、それをまだ口にできずにいた。
守られてぬくぬくの町、なのに代表だけ焚き火の輪の端っこに。
「戻る道が、細くなっている」――強くなるほど手放せなくなる、というこの理屈、書いていて背筋にきました。
みんなが安心しきった夜にひとりだけ気づいてしまう性分、少し心配です。
今日の静けさ、感想でそっとつついていってもらえたら。




