第86話 交渉の境界線
六日目の午後、クラウスは再び現れた。今度は迷いのない足取りで、広場の中央まで進んでくる。
「決まりましたか」
穏やかな問いだった。
「まだだ」まとめ役の男が答える。「だが、提案がある」
広場に人が集まり、空気が張りつめていく。
「代表は固定しない」まとめ役がそう言うと、ざわめきが波のように広がった。
クラウスの目が細くなる。「それでは連合規約に合致しません」
「代わりに」私は一歩前に出た。「緊急時即断権限を、期間限定で置く」
クラウスが初めて私を正面から見た。「期間限定?」
「三か月」私は続ける。「防衛関連のみ。交易や内政は除外」
「責任の所在は」
「町単位」私は答えた。「個人責任ではなく、町責任」
短い沈黙のあと、クラウスは手にしていた巻物を閉じた。
「あなた方は、分散を守りたい」
「ええ」
「しかし防衛は集中したい」
「必要な部分だけ」
クラウスがゆっくりと息を吐く。「甘い」
再びざわめきが起きたが、彼はそれを気に留めなかった。静かな声のまま続ける。「戦時に“期間限定”はありません。攻撃は、期限を守らない」
「なら、連合は永久に集中するのか」レオンが問う。
「有事が続く限り」
「有事は、誰が決める」
一瞬の沈黙。
「連合評議会」クラウスの答えは即座だった。
「つまり、代表者たちだ」
その一言で、空気が固まった。分散を嫌ったはずの町が、別の形でまた集中へ引き戻されていく。
「あなたは」クラウスが私へ視線を移した。「なぜ戻らない」
直球だった。「戻れば、早い」彼は言う。「あなたなら、代表として適任だ」
広場が静まり返る。
「戻らない」私は言った。
「なぜ」
「一度固定すれば、二度と戻らないからです」
クラウスがわずかに眉を上げた。「理想だ」
「ええ」
「理想は守れません」
「現実も、万能ではありません」
沈黙が落ちる。
「外縁で衝突が起きています」クラウスが言った。「小規模ですが、確実に広がる」
ざわめきが起きる。「連合に入らなければ、次は支援が間に合わない」
マルタの拳が固く握られた。
「守るための集中を拒むのですか」その声に責める響きはなかった。ただの確認だった。
私は答えた。「守るために、壊れる構造を選ばないだけです」
「壊れるかどうかは、試さなければ分からない」
「壊れたら、遅い」
視線が正面からぶつかった。
まとめ役の男が口を開く。「町単位責任で、三か月。それが限界だ」
クラウスは沈黙した。長い沈黙だった。
「……持ち帰ります」ついに彼は言った。「保証はしません」
「それでいい」レオンが答える。
クラウスは背を向け、広場を去っていった。
六日目が終わる。決定はまだない。それでも、町は完全な集中を選ばなかった。
夜、焚き火の炎が揺れていた。
「通るのか」誰かが言う。
「分からない」
私は火を見つめた。答えの見えないまま、それでも選び続けている。
残り一日。町はまだ壊れていない。次にクラウスが連合評議会の返答を携えて戻るとき、その一言で町の未来が決まる。
今日はほとんど言葉の殴り合いで、書きながら私まで肩に力が入りました。
「戻れば早い」と正面から言われても「戻らない」と即答するアルテミシア、相変わらず損得では動いてくれません。
この強情さに何度ため息をつき、何度救われたことか。
理屈っぽい回に付き合ってくださるあなたが、私は本当に好きです。




