第70話 楽になった、という評価
朝の広場は、驚くほど静かだった。混乱もなく、立ち止まる者もいない。人はそれぞれの持ち場へ、迷いのない足取りで散っていく。
「……最近、楽だよな」
荷を担ぎ直しながら、誰かが独り言のように漏らした。
「分かる。前より、迷わなくていい」
すぐに別の声が重なる。その声は、妙に明るかった。
私は、その一言を聞き逃さなかった。楽になった――それは、最も危険な評価だ。
倉庫の前では、もう今日の流れが決まっていた。誰が言い出したのかは分からない。それでも紙には、簡単な予定が書き込まれている。
「調整役、今日はこれでいい?」
問いかけた男は少し離れた場所にいて、けれど視線だけはまっすぐ、一人へ向いていた。
「……ああ、それで」
返事は短い。理由は添えられない。それで十分だからだ。人々はすぐに動き出す。確認は、それ以上要らなかった。
指先に、小さな引っかかりが残った。誰も考えていない。考える必要が、なくなったからだ。
昼前、炊き出しは予定通りに始まった。早く、正確で、鍋の前では子どもたちが笑っている。
「最近、安定してるな」
「揉めないし」
「決まるのが早い」
評価が次々と言葉になっていく。それはたしかに、成果だった。
調整役の男は、忙しそうに動き回っていた。呼ばれ、止められ、また呼ばれる。
「……ちょっと待って」
そう口にしながらも、足は止まらない。止めれば、全体が止まるからだ。
私はその背中を見ていた。昨日より、少しだけ小さく見えた。
午後、小さな判断ミスが起きた。配る物資の量が足りない。それでも、大きな問題にはならなかった。
「まあ、調整役も人だしな」
誰かが笑う。責める笑いではない。だが――許容している。
許容は、期待と表裏一体だ。失敗しても、役割から外されない。外されないから、人はまた彼のもとへ集まっていく。
夕方、作業は予定より早く終わった。人々の顔は、満足そうだ。
「今日は、楽だったな」
その言葉が、あちこちで何度も繰り返される。
私は焚き火のそばで足を止めた。楽になったという評価は、いつも誰かの負担の上に成り立っている。
調整役の男は、火の近くに腰を下ろしていた。顔色は悪くない。ただ、目の奥に疲れが沈んでいる。
「……今日も、何とかなったな」
彼は誰にともなく呟いた。それは安堵の声だった。だが、“何とかなった”が続くほど、次も同じだけ求められる。
レオンは、遠くからそれを見ていた。助けにも入らず、口も出さない。それでも分かっていた。あれは、かつて自分がいた場所だ。
夜、焚き火の輪は大きくふくらんでいた。人々は穏やかに話している。
「最近、安心できる」
「誰に聞けばいいか、分かるから」
その言葉に、誰も疑問を挟まなかった。
私は火を見つめた。楽になったという評価は、進歩ではない。依存の完成だ。
町は今日も壊れない。むしろ、うまく回っている。だからこそ、次に壊れるときは静かだろう。ほころびは笑い声の下に隠れ、気づいたときには、誰も元の形を思い出せない。
分散を選んだはずの世界が、もう一度、中心を作り直しはじめていた。人々はそれを“良い変化”と呼び、火のそばの男の背に、また一つ、用事を重ねていく。
「楽になった」って、本当なら喜んでいい言葉ですよね。
それをいちばん危ないと睨むアルテミシア、今日もまったく気を抜いてくれません。
うまく回る町を、あえて不穏に書くのが妙に楽しかった回でした。
よければ評価の★を、そっと置いていってもらえたら跳ねて喜びます。




