第68話 善意の代表者
朝の空気は、昨日より柔らかかった。広場には早くから人が集まっている。理由ははっきりしていた。昨日、やり方が決まったからだ。そして、それが楽だったからだ。
「……今日は、どうする?」誰かが問いを口にした。だが、昨日までとは声の色が違う。もう誰も迷ってはいない。ただ、口にする順番を待っているだけだ。
「昨日みたいにさ」若い女が、遠慮がちに、それでもはっきりした声で言った。「誰かがまとめた方が、やっぱり早いよね」否定は出ない。それどころか、数人が小さく頷いた。
倉庫番の男が、少し困った顔で頭をかいた。「……俺は、今日は無理だな。昨日で、結構来てるんだ」弱音ではなく、正直な申告だった。
すると、別の声が上がった。「じゃあ、俺がやるよ」炊き出しを手伝ってきた中年の男だった。特別な権限も、肩書きもない。
一瞬、広場の空気が止まる。次に流れてきたのは、安堵だった。「助かる」「それでいこう」「じゃあ、今日はあなた中心で」その言葉が出た瞬間、男の肩がわずかに強張った。
「……いや、中心ってほどじゃなくて」彼は慌てて手を振った。「決めるのは、皆でだ。俺は、まとめるだけ」誠実な言葉だった。善意そのものだった。だからこそ、誰も疑わなかった。
作業が始まる。「炊き出しは、昨日と同じ時間で」「水は順番だけ整理する」「修繕は、屋根を優先で」判断は速く、昨日と同じくらい滑らかに流れていった。「やっぱり、楽だな」今度は、誰かがはっきりと口にした。それは評価であり、期待でもあった。
男は、何度も呼び止められた。「これ、どうする?」「次は、どっち?」「さっきの話、まだ同じ?」彼は、そのすべてに答えた。「いいよ」「それで」「大丈夫」断らない。断る理由が、どこにもなかった。
私は少し離れた場所から、それを眺めていた。昨日と同じ構図だ。だが、決定的に違う点がある。彼はレオンではない。私でもない。それでも、いつの間にか代表になっていた。
昼になると、作業は滞りなく進み、人々の表情は穏やかだった。「今日は、助かるな」「やっぱり、誰かいると違う」その言葉が、何度も交わされる。男は笑って応じたが、昼食を取る時間はなかった。「後ででいい」そう言って、また呼ばれていく。
午後、小さな意見の衝突が起きた。「水は、こっちを先に」「いや、あっちだろ」周囲の視線が、自然と男に集まる。彼は一瞬だけ迷い、それから口を開いた。「……今日は、こっちで」それで決まり、それで終わった。誰も反論しない。空気そのものが、彼の決断を支持していた。
私は、その瞬間を見逃さなかった。善意の代表者は、争いを収めるために選ばれ、そしてその役割を疑われない。
夕方、男は少し疲れた顔をしていた。「……今日は、流石に多いな」そう呟くと、すぐに声がかかる。「ありがとう」「助かった」「明日も、頼める?」最後の言葉は笑い混じりで、けれど、昨日よりも一歩近かった。「……明日は、分からない」男はそう答えた。その声は弱くはない。だが、確信もなかった。
レオンは、遠くからそれを見ていた。何も言わず、何も奪わない。だが、彼には分かっていた。あれは、かつての自分だ。
夜、焚き火のそばで、誰かが言った。「代表がいると、助かるよな」「交代制なら、問題ない」その言葉に、誰も反対しなかった。“交代”という響きが、安心を連れて広がっていく。
私は火を見つめた。善意の代表者は、悪者にならない。だから、長く続いてしまう。中心は権力で生まれるのではなく、助けたいという気持ちから生まれるのだ。
町は、今日も壊れなかった。だが、“今日は誰がやるか”という問いは、少しずつ、“次もあなたでいいか”へと形を変え始めていた。明日の朝、広場に立つあの男へ、真っ先に「頼める?」の声が飛ぶだろう。その一言が積み重なった先まで、まだ数えている者はいない。
悪人が一人も出てこない回でした。
むしろ善い人ばかり。
なのに書いていて背中がひやりとするのは、たぶん私自身、何度も「助かる」の側に立ってきたからだと思います。
火を見つめて黙るアルテミシアの横顔が、今日はいちばん彼女らしくて、少しだけ手を止めてしまいました。




