第67話 代わりに決めてほしいという声
朝の広場は、少しだけ冷えていた。
寒さのせいだけではない。空気の中に、まだ口にされない言葉が混じっている。昨日から続くあの疲れは、どこかが壊れたわけではないのに、じわじわと人を削っていた。うまく説明できないから、人はそれを別の形で口にする。
「……今日は、誰が決める?」
倉庫の前で、若者が言った。昨日と同じ問いだ。なのに、今日は響きが違った。
「決めるっていうかさ」別の男が軽く笑った。その笑いは、逃げ道でもある。「とりあえず、誰かがまとめてくれた方が早いよな」
その一言で、周囲の視線が一瞬だけ揃った。誰も怒らず、誰も反論しない。否定できないからだ。
「……昨日、遅れたしな」
「並び直し、二回もやった」
「悪いことじゃないけど、疲れる」
言葉が重なるたび、“分散は正しい”という前提の上に、“でも、しんどい”が静かに積み上がっていく。そして、次の言葉が生まれた。
「誰か、今日だけでも……」
“今日だけ”。責任を固定しないふりをして、そのくせ役割だけをこしらえる、便利な言葉だ。
倉庫番の男が、困ったように頭をかいた。
「昨日みたいに、俺がやるか?」
言い方は軽い。だがその瞬間、周囲の顔がほっと緩んだ。安堵が、そのまま彼への圧に変わる。
「助かる」
「それが早い」
「じゃあ、お願い」
誰も命令していない。誰も押しつけていない。なのに役割だけが決まっていく。
私は少し離れた場所から、その光景を眺めていた。中心というものは、悪意で作られるわけではないらしい。疲れと善意が、勝手にそれを生む。
倉庫番の男は咳払いをして、順に告げた。
「じゃあ、まず炊き出しは……昨日より少し早めに始めよう」
「水は、順番だけ整理する。中身を変えるのは後だ」
「修繕は、雨の前に屋根を優先で」
短い判断が三つ。それだけで町は動き始めた。不思議なほど、滑らかに。
人々の足取りが軽くなり、会話が増え、作業が進んでいく。そして、誰かが言った。
「やっぱり、決まると楽だな」
その“楽”が危ういのだと気づく者は、少なかった。楽は、中心を呼び続ける。
昼前には、倉庫番の男はもう二度、呼び止められていた。
「これ、どうする?」
「こっちは先でいい?」
「さっきの判断、今も同じ?」
確認と相談の形をした、小さな依存だった。彼は笑って返す。
「大丈夫、大丈夫。今日は俺が見てる」
その言葉に周囲が安心し、安心がまた新しい問いを彼のもとへ集めていく。
私は、喉の奥が少しだけ冷えるのを感じた。昨日は分散で疲れ、今日は中心で楽になった。人は楽な方へ戻る。それは弱さではなく、ただ自然なだけだ。
午後、レオンは広場の端にいた。誰にも囲まれず、誰にも呼ばれていない。そのはずなのに、人の視線は時折、彼の方へ流れていく。“いつもの中心”が消えたことを、皆の体がまだ覚えているのだ。
倉庫番の男が、ふとレオンの方を見た。助けを求める目ではない。これでいいのか、と問う確認の目だ。レオンは何も言わなかった。言わずにいることが、今日の彼の判断だった。
夕方。作業は昨日より早く終わり、誰も疲れた顔をしていない。その代わりに、倉庫番の男だけが肩を落としていた。
「……今日は、流石に多かったな」
自嘲気味の笑い。しかし周囲は、それを労いとして受け取った。
「助かったよ」
「ありがとう」
「明日も、頼める?」
最後の言葉は、冗談の形をしていた。だが、冗談は本音の衣だ。
倉庫番の男は、笑ったまま返事をしなかった。否定はできず、肯定もしたくない。その沈黙に、周囲の空気が少しだけ硬くなった。
中心を持たないために選んだ不完全さが、疲れを生む。疲れが、中心を呼ぶ。呼ばれた中心は、また疲れを一人に集め始める。この循環を、誰もが悪意なく繰り返していた。
夜。焚き火のそばで、誰かが小さく言った。
「……毎日じゃなくていい」
「交代なら、いいよな」
「決める人を、回せば……」
希望のように聞こえる言葉は、同時に、新しい固定の始まりでもあった。
私は火を見つめた。分散と中心。どちらも完璧ではなく、どちらにも必要になる瞬間がある。問題は、いつも“楽”の方が勝ってしまうことだ。
町は、今日も壊れなかった。けれど焚き火の向こうで、倉庫番の男はまだ「明日も」への返事をのみ込んだままだ。次の朝、誰かがもう一度「今日だけ」と口にすれば、その声はまた、迷わず彼のもとへ流れていくのだろう。
人はしんどくなると、つい「誰か決めて」に戻ってしまう。
悪意じゃなく、疲れと善意が勝手に中心を作るんですよね。
書きながら身に覚えがありすぎて、ひとりで唸っていました。
答えを出さず、ただ黙って見ているアルテミシア。
今日はそんな静かで少し理屈っぽい回に、付いてきてくださって嬉しいです。




