第53話 善意の譲り合い
午前中の集会は、短く終わった。
議題はいくつかあったはずだ。だが、どれも深くは扱われなかった。
「この件は、誰か意見ある?」
問いかけたきり、一瞬の沈黙が落ちる。誰も顔を上げない。視線は互いを避けるように、それぞれ手元へ、床へと散っていく。
「……急ぎじゃないしな」
誰かがそう言って、軽く笑った。
「そうだな」
別の誰かがうなずく。それで話は次へ進んだ。進んだというより、流された。
私は輪の外に立って、その様子を眺めていた。誰も責任を押しつけていない。むしろ、押しつけまいと避けている。相手を困らせないために。
昼になった。
炊き出しの準備が、少し遅れている。
「……手伝おうか」
一人が声をかける。
「大丈夫、こっちでやるから」
すぐに返事が返る。そのやりとりが、鍋の前で何度も繰り返された。結果として、誰の手も動かない時間だけが生まれていく。
「じゃあ、自分が――」
そう言いかけた若者が、言葉の途中で口をつぐんだ。周囲の目を、一瞬だけうかがったのだ。出しゃばりに見えないか。勝手に決めたと思われないか。ためらいが顔をよぎり、彼はそのまま一歩下がった。
それを誰も責めない。そして、誰も気づかない。
午後。住居の補修は、再開される気配がなかった。木材や道具は、広場の端に積まれたままだ。
「……今日は、やめとこう」
「うん、無理しなくていい」
交わされる言葉は、どこまでも優しい。だが優しさは、判断の代わりにはならない。
私は焚き火のそばに腰を下ろし、彼らの話に耳を傾けていた。
「ここは、争いがなくていい」
「誰も、人に命令しないしな」
「居心地がいいよ」
その評価は正しかった。否定のしようもない。
「……だからさ」
誰かが、ぽつりと言葉を落とした。
「何をするにも、人の顔を見るようになった」
一瞬、火のはぜる音だけが残って、空気が止まる。
「それ、悪いことか?」
すぐに別の声がかぶさった。
「いや……悪くない」
その場は、それで終わった。
けれど私は気づいていた。人の顔を見るという行為が、いつのまにか判断の代わりになっている。自分で決める代わりに、空気を読む。それも一つの秩序ではある。ただ、ずいぶんと遅い秩序だ。
夕方、一人の年配者が倉庫の前で立ち尽くしていた。
「……どうしましたか」
声をかけると、彼は少し困ったように笑った。
「いや、誰か使うかなと思ってね」
道具を使っていいのかどうか、自分では決められなかったのだ。私は何も言わなかった。ここで「使っていい」と口にすれば、それは私の判断になってしまう。それは、今この町では許されていない。
夜。町は今日も静かだった。怒号もなければ、衝突もない。
ただ、譲り合いが積み重なりすぎている。誰も一歩前に出ない。そして、それが優しさとして皆に共有されている。
私は広場の向こうに、レオンの姿を見た。疲れた顔をしている。それでも誰かに頼られれば、彼は応えてしまう。
善意の譲り合いは、最終的に一人のもとへと流れ込む。誰かの野心でもなければ、誰かの失策でもない。全員の優しさが一点に集まった、それだけの結果だった。
この町は、今日も壊れない。けれど、自分で決める力は、レオンひとりに寄りかかったまま、少しずつ痩せていく。
善意は人を守る。同時に、人を立ち止まらせもする。それを誰も、悪だとは思っていない。だからこそ、止めにくい。
悪人がひとりも出てこないのに町が少しずつ傾いていく回。
書くのがいちばん難しくて、いちばん書きたかった種類の話です。
アルテミシア、今日は口を出したくてうずうずしていたはず。
でもぐっと堪えた彼女を、私は少し誇らしく見ていました。
「優しさって難しいな」と感じてもらえたら、そっと感想で教えてください。




