第48話 正しさの置き場所
町を離れて、しばらく歩いた。一度も振り返らなかった。それが、今の私のやり方だった。
日が傾いてから野営地を決め、火を起こして簡単な食事を作る。特別なことは何もしない。誰にも報告しない。かつての私に、こんな時間は存在しなかった。
(……昔なら)
手を動かしながら、自然に考えてしまう。昔の私なら、あの市場で声をかけていた。彼に。あるいは、彼のまわりに集まった人々に。「少し、立ち止まった方がいい」と。理由を並べ、起こりうる可能性を数え上げ、決断を先延ばしにする価値を説いただろう。
それは正しかった。少なくとも、当時の私はそう信じていた。
けれど、今日の私はあの場で何も言わなかった。言えなかったのではない。言わなかったのだ。
火が静かに燃える。ぱち、と小さな音がはぜた。
誰かの判断を止めることは、たやすい。「慎重に」と言えばいい。「急がなくていい」と言えばいい。それは支配ではない。だが――介入ではある。
(……介入して、私は何を守るつもりだった?)
問いが、指先まで沈んでくる。問いそのものを守ることか。それとも、問い続ける姿勢を守ることか。違いは小さいようで、決定的だった。
昔の私は、問いを分かち合おうとしていた。でも今は知っている。共有された問いは、いつか答えを出す役割を誰かに押しつける。その誰かは、いつも私だった。
薪をくべる。火が一段明るくなり、私はその光をただ見つめた。
今の世界に、正しさを置く場所はない。だから人は、それを誰かに預けたくなる。
(……あそこに、置けばよかったのか)
一瞬だけ、そう考えた。彼の足元に。迷わない彼の判断に。それは簡単で、楽なことだ。けれど――そうすれば、私はまた“前に立つ人間”に戻る。世界が、ふたたび私を必要とする形に戻ってしまう。
私はそれを選ばなかった。それは優しさではない。逃げだ。
夜が深まり、火が小さくなっていく。私は最後の熾を踏み消した。残るのは暗闇だけ。それでも、しばらくすれば目は慣れる。人も、きっとそうなのだろう。
正しさは、手渡すものではない。置いていくものでもない。ただ――持たせない。それが今の私の選択だった。
遠くに、町の灯りが見えた。彼のいる場所。人が集まり、判断が下され、今日も揉めずに一日が終わる場所。私はそこへ戻らない。
かつての私は、正しさを運んでいた。今の私は、正しさが運ばれないように距離を取る。それが退却に見えるなら、それでいい。私が守りたいのは結果ではなく、考えるための余白なのだから。
横になって、目を閉じた。正しさの置き場所は、どこにもない。だからこそ人は、自分の足元を見るしかない。それを信じるしかない。今はまだ、それだけで十分だった。
今日は事件も会話もなく、アルテミシアが火を見つめてぐるぐる考えるだけの回。
なのに書いていていちばん彼女の芯に触れた気がしました。
「正しさは持たせない」なんて、よく思いつくよねこの子。
理屈っぽい火のそばに、こうして付いてきてくださるあなたが、私は本当に好きです。




