第47話 名前を呼ばれない正しさ
町の外れに、即席の市場が立っていた。
常設のものではない。人が集まったから自然に生まれた、それだけの場所だ。荷を下ろし、情報を交換し、また散っていく。今の世界らしい、緩い結節点だった。
私はその人混みの中を歩いていた。特別な用があるわけではない。誰かに呼ばれたわけでもない。ただ流れを見るために、ここに立っている。
「……あの人だ」
背後で、誰かがそう声を落とした。
「どの?」
「ほら、あそこ」
指差す先を、私も追った。人の輪の中心に、一人の男が立っている。声を張るでもなく、身振りを大きくするでもない。それでも、人の視線が自然にそこへ集まっていた。
噂の人物なのだろう。名前は、まだ知らない。
彼は何かを説明しているわけではなかった。問いを受け、短く答えているだけだ。
「今は、その形でいい」
まわりの誰かがうなずく。
「無理に合わせなくていい」
彼の口調に力みはない。むしろ、疲れた相手をなだめるような静かさがあった。
「決めきれないなら、今日は決めなくていい」
どれも強い言葉ではない。だからこそ、誰も逆らわなかった。
その時、一瞬だけ彼と目が合った。ほんの一呼吸、視線が交差する。彼はすぐに目を逸らした。驚きも警戒もない。ただ、理解だけがそこにあった。
喉の奥が、小さく詰まる。――この人は、知っている。肩書きも役割も脱ぎ捨てた、今の私を。
それでも彼は何も言わなかった。呼び止めもしない。私もまた、声をかけなかった。理由ははっきりしている。今は、話すべき時ではない。
彼はこの場の中心にいる。私が言葉を挟めば、それだけで空気が揺れてしまう。彼も、そのことを分かっているはずだった。
市場のざわめきの中で、人々は安心した顔をしている。決めてもらえたわけでも、命じられたわけでもない。それでも方向が見えた。ただそれだけのことが、どれほど人を楽にするか。私はもう、知っていた。
市場を離れ、少し高い場所から町を見下ろす。彼はまだ人に囲まれていた。私がいなくても、場は問題なく回っている。むしろ、私がいない方が滑らかなくらいだった。
置き去りにされたのは、私ではない。指先で袖の端をつまみながら、そう思う。置き去りにされているのは、問いのほうだ。問いを抱えたまま立ち止まる余白が、この場にはなかった。
夕方になり、人が散り始める。彼は一人になった。一瞬、こちらを見る。だが、何も言わない。私も何も言わなかった。名前を呼ばない。呼ぶ必要が、まだないからだ。
日が傾き、影が長く伸びる。私と彼の影は交わらない。それでも、同じ方向へ伸びていた。それが、今の距離だった。
私は町を出た。彼は町に残る。どちらも、自分で選んだ立場だ。
二つの正しさは、まだ衝突していない。けれど、同じ方向へ伸びたあの影が、いつか一本の道の上で鉢合わせる日が来る。彼が「決めなくていい」と言い続けるかぎり、決めて先へ進もうとする私と、遅かれ早かれぶつかる。名前を呼び合わないまま、私たちはもう、その場所へ向かって歩き出していた。
言葉をひとつも交わさないのに、書いているこちらは胸がいっぱいでした。
目が合って、それだけで通じてしまう二人。
アルテミシアの「決めて進む」と、彼の「決めなくていい」、どちらも間違っていないのがいちばん厄介です。
袖の端をつまむ彼女の癖、今日はうまく書けた気がします。




