第28話 正しさは、静かに歪む
連合の朝は、忙しい。
王都のように鐘で始まるわけではない。誰かの号令が響くわけでもない。それぞれの土地が、それぞれの都合で動き出す。その雑音めいた始まりこそ、この場所が健やかである証だった。
「……南部第三領から、正式な照会です」
マリアンヌが書類を差し出し、表紙の一行を指先で示した。
「“循環効率向上計画”について」
私は受け取り、頁をめくる。内容は想像の通りだった。供給量の再配分、人員の整理、補助役の削減。行儀よく整った数字が並んでいる。
「効率は、上がりますね」
マリアンヌの眉が、わずかに寄った。
「……ですが」
「ええ」
私は書類を閉じ、机の上を指の背で軽く叩いた。
「必ず、どこかに無理が出ます」
数値上は正しい。論理としても間違っていない。だからこそ厄介だった。
「王都の時と、何が違うのでしょう」
マリアンヌの問いは率直だった。
「中心を作らない、という点では、同じ轍を踏まないはずですが」
私は少し考えてから答えた。
「“中心がない”だけでは、足りません」
人は、必ず別の中心を作る。効率。正しさ。善意。名前を替えるだけで、中身は同じものだ。
昼過ぎ、南部第三領の代表が拠点を訪れた。
若い男だった。自信を湛えた目に、焦りの色はない。
「我々は、誰かを犠牲にするつもりはありません」
椅子に浅く腰かけ、彼ははっきりと言った。
「ただ、合理的に回したいだけです」
その言葉に嘘はなかった。嘘がないからこそ、聞き覚えがある。
「結果として、誰かが外れる可能性については?」
問い返すと、彼は間を置かなかった。
「それは、全体の利益のためです」
部屋が静まった。窓の外で、遠くの荷車が石畳を鳴らして通り過ぎていく。聖女の部屋で聞いた、あの声とよく似ている。喉の奥が、ざらりとした。
「……分かりました」
私は立ち上がった。男の表情が、ぱっと明るくなる。
「では、承認を?」
「いいえ」
首を横に振ると、彼の笑みが止まった。
「判断は、こちらではしません」
男が戸惑いに口を開きかけたところで、私は机の抽斗から薄い冊子を取り、彼の前に置いた。
「連合の設計思想を、もう一度お渡しします。これを読んだ上で、再設計してください」
指先を冊子から離し、続ける。
「それでも同じ結論になるなら、我々は止めません」
男は目を見開いた。
「……止めない、のですか」
「はい」
私は声を落として答えた。
「止める権利を握った瞬間、私は――別の王都になります」
男は、返す言葉を探しあぐねていた。
夕方。応接室を出ていく彼の背中を、私は廊下の窓辺からしばらく見送った。
「……放っておいて、大丈夫でしょうか」
マリアンヌの声が、細く、不安げに揺れる。
「大丈夫ではありません」
私は即答した。
「ですが、経験しなければ分からない歪みもあります」
連合は、正解を配る場所ではない。間違える自由を、残しておく場所だ。
夜。机に向かい、報告書をまとめる。赤い印をつけた箇所が、頁の上で少しずつ増えていった。
(……始まったな)
派手な崩壊から始まるのではない。もっと静かに、もっと善意に満ちた形で、歪みは芽を出す。正しさは、いつも声を荒げない。だから、見逃されやすい。
ペンを置き、窓の外へ目をやる。灯りは今日も安定していた。けれど、安定は保証ではない。
完璧であることをやめた私は、今日もまた「答えを出さない」という判断を選んだ。それが世界を壊さないための次の試練だと、承知の上で。
あの若い男は、冊子を抱えて南部へ帰っていった。同じ結論を携えて戻ってくるのか、それとも――報告書の赤い印は、答えが出るまで増え続けるだろう。
「全体の利益のため」――正しい言葉ほど、書いていて背筋がひやりとします。
ここでアルテミシアが選んだのは、承認でも却下でもなく「決めない」こと。
止める権利を握った瞬間に別の王都になる、と言い切る彼女に、私はまた惚れ直しました。
答えを配らない優しさに付き合ってくださって、ありがとうございます。




