第23話 聖女の決断
その夜、王城は静まり返っていた。物音ひとつ立たず、まるで何も起きていないかのように、廊下の灯りだけが規則正しく並んでいる。
エリナ=ミルフォードは自室の椅子に腰かけ、膝の上で震える指先を見つめていた。爪の先まで血の気が引いている。
(……できない)
先ほど口にした言葉が、頭の中で何度も跳ね返る。――もう、無理です。あれは拒否だった。生まれて初めて、はっきりと口にした拒否。
扉の向こうでは、低い声が交わされていた。
「聖女様の体調が……」
「だが、代替はない」
「説得を続けろ」
説得、という一語に喉の奥が締まる。(……説得じゃない)これは選択肢のない命令だ。呼び方を変えただけの。
エリナはそっと立ち上がり、部屋の隅に置かれた小さな鞄へ手を伸ばした。学院を卒業するとき、記念に渡されたものだ。中身はわずかしかない。着替えと、身分証。そして――一通の、返事のない便箋。
あの日、王都の外へ出した手紙。助けを求めて綴った、たった一行。
(……届いたのかな)
封の折り目を指の腹でなぞる。返事はまだ来ていない。それでも、もう戻らないと決めていた。
エリナは深く息を吸った。
(私は、聖女じゃなくてもいい)
そう思った瞬間、視界がにじんで、涙が頬を伝った。怖い。何の保証もない。膝が今にも笑い出しそうになる。
それでも――(……壊れるよりは)
ノックの音がした。
「聖女様」
司祭の声だ。
「お話を」
エリナは扉を見つめ、それから答えた。
「……今夜は、お話しできません」
沈黙。扉の向こうで、気配が硬くなるのがわかった。
「それは、許可できません」
声から、優しさが抜け落ちていた。
エリナは鞄を握りしめる。もう、待たない。部屋の奥にある、使用人用の小さな扉へ目をやった。学院時代、道に迷ったときに教えられた――正規ではない道。
(……アルテミシア様なら)
きっと、規則を破る理由のほうを選んだだろう。
扉を押し開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。振り返らない。振り返れば、また“聖女”に戻ってしまう。
エリナは走った。石畳を抜け、影から影へ。背後で、王城の灯りが遠ざかっていく。
夜明け前。王都を囲む結界の外で、一台の馬車が止まっていた。御者は顔を覆い、言葉少なに頷く。
「……行き先は?」
エリナは一瞬だけ迷い、それから答えた。
「連合へ」
それだけで十分だった。馬車がゆっくりと動き出し、王都の尖塔が少しずつ後ろへ流れていく。
エリナは喉元にそっと手を当て、自分の呼吸を確かめた。魔力はまだ、ざわついている。だが、さっきまで喉を塞いでいた、あの息の詰まる感覚はもうなかった。
(……選んだんだ)
誰かに決められた道ではなく、自分で選んだ道。その選択がどんな結果を招くのかは、分からない。それでも、エリナは初めて思った。生きたい、と。
一方、王城では。
「……聖女が、いない?」
司祭の声が、わずかに震えた。
「捜せ!」
「結界を確認しろ!」
だが、遅かった。王都の魔力観測値が大きく揺れ、主流路が不安定化していく。それは、崩壊の始まりだった。
王都は選んだのだ。人ではなく、仕組みを。そして今、その仕組みだけが残される。
エリナに「逃げていい」と言えるまで、23話もかかってしまいました。
便箋の折り目を指でなぞる場面で、書いてる私の手まで止まって。
誰かに決めた道を降りる背中を、当人のいないところでアルテミシアが押していたのが、ちょっと嬉しいんです。
今夜のエリナに、そっと拍手を。




