第1話 完璧な婚約者
王太子の婚約者であるということは、
常に「正しく」あることを求められるということだった。
感情を抑え、
規則を守り、
誰よりも冷静に振る舞う。
それが、
公爵令嬢アルテミシアに与えられた役目。
――それでも。
正しさだけでは、
人は救われないのだと、
この時の彼女はまだ知らなかった。
王立学院の正門前は、今日も静かな緊張に包まれていた。
貴族の子女たちは皆、同じ制服を身にまといながらも、それぞれの家格や立場を無言のうちに示し合っている。
挨拶は微笑と会釈で十分。深く頭を下げる必要はないし、馴れ馴れしく声をかけることもない。
その空気が、一瞬だけ張り詰めた。
「……おはようございます、アルテミシア様」
誰かが小さく声をかけた。
私――アルテミシア=フォン=ルーヴェンは、歩みを止めずに視線だけを向ける。
「おはよう。今日も早いのね」
それだけ告げると、相手はほっとしたように息を吐いた。
礼を尽くした対応。声色も穏やか。何一つ、問題はない。
それでも、彼女は私から距離を取ったまま、友人たちの輪へと戻っていく。
(……いつものことね)
私は気にしない。
正確には、気にしないと決めている。
公爵令嬢として、王太子の婚約者として、私は常に「正しく」あらねばならない。
感情で人に近づくことも、無用な親しみを見せることも、すべて避けるべきだと教えられてきた。
――完璧であること。
それが、私の役目だった。
「アルテミシア」
聞き慣れた声に、私は足を止める。
「おはよう、レオナルト殿下」
王太子レオナルト=ルミナス。
私の婚約者であり、この国の未来を背負う人。
彼は柔らかな笑みを浮かべていた。
学院内で見せる、誰にでも分け隔てない表情だ。
「今日も変わらずだね。体調はどう?」
「問題ありません。殿下こそ、昨夜は遅くまで政務補佐をなさっていたと伺いましたが」
「はは、もう噂になっているのか。君は本当に情報が早い」
そう言って、彼は少しだけ困ったように笑った。
――この人は優しい。
それは、誰もが知っている事実だ。
だが、その優しさは、時として曖昧で、境界を引くことが苦手でもある。
「今日の予定ですが、午後は礼法の合同講義があります。平民特待生も参加すると聞いています」
「ああ、その件か」
彼は少しだけ言葉を濁した。
「柔軟に対応してあげたいと思っている。彼女たちにとっては慣れない環境だから」
「……殿下」
私は一瞬、言葉を選んだ。
「配慮は必要ですが、規則を曖昧にすることは、かえって彼女たちの立場を危うくします」
王立学院は、貴族社会の縮図だ。
特例は、必ず反感を生む。
それを説明するのが、私の役目だ。
「分かっているよ。でも――」
レオナルトはそこで言葉を切り、視線を逸らした。
「君は、いつも正しいな」
その言葉に、胸の奥がわずかに軋んだ。
それは称賛でも、信頼でもある。
けれど同時に、「理解しようとしない」宣言にも聞こえた。
「正しさは、王太子の婚約者として当然です」
私は淡々とそう返す。
それ以上の感情を、表に出す必要はない。
「……そうだね」
彼はそれ以上、何も言わなかった。
鐘の音が鳴り、登校の時間を告げる。
私たちは並んで校舎へ向かう。
けれど、その間に流れる沈黙は、どこか以前よりも重かった。
(問題は、まだ起きていない)
そう、私は理解している。
だが――
起きる前に防ぐのが、私の仕事だ。
それがどれほど嫌われる役目であっても。
王立学院の白い校舎が、朝日に照らされて輝いていた。
その光が、どこか眩しすぎるものに思えたのは、きっと気のせいではない。
この場所で、私は“悪役”になる。
――まだ、誰も気づいていないだけで。
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