第28話:絶望の夜襲と、唐辛子煙幕
第28話:絶望の夜襲と、唐辛子煙幕
草木も眠る丑三つ時。
月が厚い雲に隠れ、山間が深い暗闇に包まれた、その瞬間。ザッ、ザッ、ザッ……! 鳴神の外郭・白亜防壁の足元に、息を殺した数十名の影が忍び寄ってきた。先頭に立つのは、抜刀した宗馬と、飢えと寒さで死兵と化した橘家の精鋭たちだ。
「……正面突破が無理でも、夜の闇に乗じて壁を越えれば勝てる! 門の閂を内から外せ! 食糧を奪い、飯を喰らうのだ!」
宗馬の飢餓に狂った囁きと共に、先頭の武者たちが水堀の浅瀬を渡り、防壁の死角へと取り付こうとした。
――その時だった。
「予定より、十五分早いね」
防壁の上から、穏やかな声が静かに響いた。
「……え?」
宗馬たちが息を呑み、見上げた瞬間――。カッ……!! 見張り台に据え付けられた反射板付きの篝火が一斉に焚かれ、防壁の足元が白く照らし出された。侵入者たちの姿が、影の一つまで完全に暴かれたのだ。暗いところから明るいところに出てきたら、人間は目が慣れない。だからこっちから照らす。
「ひ、光が……!? なぜだ、夜襲が読まれていたのか!?」
「予測したんじゃないよ」
壁の上から見下ろす作務衣姿の一馬が、湯呑みを手にしたまま言った。
「兵站から逆算したんだよ。夕食を抜いた兵は、予定より早く動くと思ってた。夜襲は、空腹と寒さが一番厳しくなる時間帯に来ると思ってたんだ。三日もろくに食べてない人間が、夜明けまで我慢できると思う?」
「き、貴様ぁぁぁっ! 小賢しいわァ! 突撃せよッ!」
宗馬が狂乱して叫び、兵たちが鉤縄を投げて壁に取り付こうとした。だが――一馬は動じず、手元の小さな木札を上げた。
「風向は?」
篝が答える。
「北東から南西。鳴神側へは流れません」
「住民避難完了!」
「防壁上の兵は?」
「全員、風上へ退避済み!」
「捕縛班は?」
「待機完了!」
「診療所は?」
「受け入れ準備済みです!」
「鉄心さん、送風筒を!」
「へっ! とびきりの特製だぜッ! 逆止めも入れてある!」
「作業員の退避確認! 風向確認! 鳴神側への逆流なし! 放水班、待機! 負傷者搬送班、診療所へ! よし。じゃあ始めよう」
鍛冶工房の地下送風装置が唸りを上げる。乾燥させた鳴神特産の唐辛子と山椒を細かく砕いた粉末が、竹筒から夜風に乗ってふわりと舞った。高炉の熱風で気化させるような危険な方法ではない。送風機と乾燥粉末と風向制御を組み合わせた、侵入を断念させるための防御設備だ。
「ゲホッ……!? ゴホッ! ゴホッ、ゲホッ!!」
「め、目がぁぁぁっ!? 息が……息が整えられぬッ!!」
吸い込んだ兵たちが目から涙をボロボロと流し、激しい咳き込みと共に後退する。刃物で斬られたわけではない。だが、激痛と涙と鼻水で、刀を握ることすらできず、全員が武器を取り落として後退した。さらに、十兵衛たちが手動ポンプで消火用水槽の冷水を一斉に放水。ずぶ濡れになった侵入者たちは完全に戦闘能力を奪われ、誰一人として壁を越えることはできなかった。
「な、なんだこの妖術は……!?」
宗馬が悲鳴を上げ、後方の兵たちと共に命からがら逃げ惑う中、防壁の下には武器を落としてうずくまる十数名の足軽たちが残されていた。
「若殿、縄を! 首を刎ねますか!?」
駆け寄った鳴神の自警団が槍を構えようとした――その時。
「待って」
一馬がスッと手をかざして制した。
「その人たち、もう戦ってないよ」
一馬は防壁の階段を駆け下りると、泥と唐辛子で目を真っ赤にして震える一人の若い足軽の前に、静かにしゃがみ込んだ。
「……ヒッ! こ、殺せ……! 敵の情けなど……!」
足軽が歯を鳴らして怯える。だが、一馬が差し出したのは、刃ではなく――。木桶に汲まれた、透き通った冷たい井戸水と、清潔な手拭いだった。
「これで目を洗いな。痛いのはすぐ治まるから」
「……え?」
「ほら、水も飲みなよ。喉が焼けるように痛いでしょ」
足軽はおずおずと、震える両手で水桶を受け取った。目を洗い、冷たい水を喉に流し込む。ゴクゴク、ゴクゴクと喉を鳴らし、乾き切っていた五臓六腑に染み渡っていく命の水。
「……な、なぜ……」
足軽の目から、唐辛子の涙ではない、本物の涙が溢れ出した。
「なぜ……殺さぬのだ……? 俺たちは……お前たちの街を奪いに来た、敵だぞ……!」
一馬は優しく微笑み、足軽の泥だらけの肩に手を置いた。
「殺す必要、どこにあるの? ……だってお腹空いてるんでしょ。故郷に残してきた家族がいるんでしょ。もう戦わなくていいよ。……怪我してる人はあっちの診療所へ運んであげるから。まず水を飲ませて、傷を洗って、身体を温めよう。温泉は?」
千代が驚く。
「敵兵を温泉に?」
「だって三日も山で野営してたんでしょ。身体が冷え切ってるよ」
足軽は泥の中に額を擦り付け、子供のように号泣した。その光景を見ていた他の侵入兵たちも、次々と武器を放り出し、泥の中に崩れ落ちていった。彼らは理解してしまったのだ。この鳴神という街は、自分たちを殺すために強いのではない。「自分たちを殺さなくても、誰一人死なせずに勝てるほど、圧倒的に強く、そして温かいのだ」と。
防壁って、敵を殺すためにあるんじゃないよ。街の中に入れないためにあるんだ。一馬は、敵を倒すための防壁を作ったのではない。敵が防壁の向こう側へ入らなくても、生きて帰れる道を残すために作ったのだ。見張り台、夜間照明、水堀、防壁、非殺傷刺激煙、放水、自警団、捕縛、医療、水と食事――侵入者を殺さずに止める都市システムだ。
――やがて。
手当てを受け、水を飲んだ最初の足軽が、一馬の許可を得て敵陣へと戻っていった。彼が橘本軍の野営地に戻った瞬間、飢えと絶望に震えていた兵たちがワッと群がった。
「おい……! 生きて戻ったのか!?」
「鳴神の奴らは……どんな拷問を……!?」
「違う……! 拷問なんかじゃない……!」
足軽は震える声で、全軍に向かって叫んだ。
「鳴神の一馬様は……俺たちを殺さなかった……! 冷たい水をくれて、目を洗う手拭いをくれて、怪我人を立派な診療所へ運んでくださった……! 『もう戦わなくていい、お腹が空いているんだろう』と……笑いかけてくださったんだ……!!」
ザワッ……と、三千の陣中に巨大な地鳴りのようなざわめきが広がった。
「本当か……? 敵を治療したのか……?」
「水をくれたのか……?」
「俺たちは……何のために戦っているんだ……?」
「……俺、帰りたい」
誰かが呟いた。
「俺もだ」
「家に子供がいる」
「俺の母親も……待ってる」
その瞬間、宗馬が力づくで縛り付けていた「三千人の軍隊」という呪縛が、音を立てて砕け散り始めた。命令に従って飢え死にする「兵士」ではない。温かい水を飲み、美味い飯を食って、生きて故郷へ帰りたいという――「三千人の一人の人間」へと、ほどけていく。
本陣の天幕で、宗馬が青ざめた顔で叫んだ。
「騙されるな! 飯で兵を買収するなど卑怯者の策だ!」
しかし兵士たちが、返す。
「じゃあ殿は俺たちに何を食わせてくれる?」
もはや誰も、彼の号令に即座に従う者はいなかった。指揮系統に動揺が走り、脱走・投降者が増加し始める。
夜明けの光が、東の空を白く染め始める。血を一滴も流さぬまま、三千の軍勢は内側から崩壊を始め、最後の瞬間を迎えようとしていた。
「千代さん。明日の朝、大鍋を三つ……いや、足りないな」
「……何個必要ですの?」
「三千人分」
一馬は帳面を開き、炭を走らせた。
――――――――――――――――――――
【鳴神開拓記録:三百五十六日目】
・現在人口:340人(常住者)+各国滞在者約30人
・都市機能:夜間防衛・医療救援体制が稼働
・夜襲迎撃:非殺傷トラップにより制圧(死者0名・軽傷12名・重傷0名・診療所へ収容)
・敵軍状況:橘本軍三千、夜襲失敗。脱走・投降者が増加。指揮系統に動揺
――――――――――――――――――――
【本日の反省:非殺傷防衛の目的は敵を倒すことではない。敵兵を『生きて帰りたい一人の人間』に戻すことである】
【現在の目標:城門を開放し、飢えた三千人に『大鍋の豚汁とおにぎり』を振る舞え】
――――――――――――――――――――




