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第27話:要塞都市の威容と、届く匂い

第27話:要塞都市の威容と、届く匂い


 山道を抜け、西街道の出口に到達した橘本軍三千の視界が開けた時、そこに広がっていた光景に、誰一人として声を上げる者はいなかった。


 「……な、なんだ……あれは……」


 先頭に立つ宗馬が、愛馬の上で引きつった声を漏らした。三日間にわたる見えない兵站戦により、兵たちは泥にまみれて痩せこけ、馬はあばら骨を浮き立たせ、全軍が極限の空腹と疲労に喘いでいた。


 彼らが奪い取ろうと目指していたのは、追放された三男坊が泥をこねて作った「みすぼらしい開拓村」のはずだった。


 しかし――。彼らの目の前にそびえ立っていたのは、夕陽を浴びて神々しく輝く巨大な都市だった。夕陽を受けた石灰漆喰と白っぽい石積みが、山間の光を反射していた。遠目には白く輝いて見える。馬の突進を拒む、深く澄んだ水堀と直角の進入路。三和土とスギの丸太で隙間なく組み上げられた堅牢な防壁。整然と区画された石畳の街路と、力強く煙を吐き出す高炉の煙突。見張り台には、白金、武藤、神杉、織部、そして鳴神の旗印が悠然と翻っている。


 「……なぜだ」


 宗馬は呟いた。


 「なぜ、あの街は……戦時なのに煙が止まっていない?」


 高炉が動いている。水車が回っている。市場では人が荷を運んでいる。大浴場から湯気が上がっている。住宅区画では夕食の支度をしている。敵が目の前にいるというのに……街が、いつも通り動いている。それこそが、宗馬にとって最も理解不能な光景だった。


 そして――何よりも敵兵たちの心を根底からへし折ったのは、風に乗って城壁の向こうから漂ってきた「匂い」だった。


 ふわぁぁぁぁ……。


 夕暮れの心地よい風が、山間に立ち込める。それは――。一粒一粒が輝く、炊き立ての鳴神米の暴力的なまでに甘い香り。炭火でじっくりと焼き上げられた、脂の乗った魚と肉の香ばしい匂い。出汁に熟成味噌を溶かし込んだ、具沢山の温かい味噌汁の湯気。城壁の向こうから、白い湯気がゆっくりと夜空へ昇っている。


 「……風呂まで入っているのか」


 誰かが呟いた。


 「俺たちは三日、身体を拭いてすらいないのに……」


 さらに、壁の向こうからは、労働を終えて温泉に入り、温かい飯を囲む住民たちの楽しげな笑い声が響いてくる。


 「……ぐぅぅぅぅぅぅ……」


 三千人の兵たちの腹が、一斉に悲鳴のような音を立てて鳴り響いた。


 「へ、飯の匂いだ……」


 「新米だ……! 魚を焼く匂いがする……!」


 「あんなに煙が上がっているぞ……。あいつら、俺たちが攻めてきているというのに、まだ普通に夕飯を食っているのか……!?」


 足軽たちが槍を杖代わりにし、喉をゴクリと鳴らしてへたり込んだ。自分たちは三日間泥水をすすり、冷え切った生の雑穀をわずかにかじって飢えと寒さに震えている。それなのに、目の前の都市の住民たちは、温かい温泉に浸かり、湯気の立つ極上の白米と味噌汁を腹一杯食って笑っている。戦う前から、「人間としての生活水準の圧倒的な格差」を五感のすべてで見せつけられてしまったのだ。


 「……俺、腹が減ってるんじゃない」


 隣の足軽が呟いた。


 「何だと?」


 「……あの飯を見たら、思い出しちまったんだ」


 「何を?」


 「家に帰れば、母ちゃんが味噌汁を作って待ってるはずだったってことを……」


 「……おのれ、怯むなァッ!!」


 宗馬が血走った目で抜刀し、怒狂ったように叫んだ。


 「総攻撃の準備をせよ! あのような薄っぺらい壁、数で押せば一刻と持たん! 城内になだれ込み、食糧も鉄も財も、すべて奪い取れ! 兵が飢えている! このままでは戦う前に崩れるぞ! 何としても城門を破れ!」


 だが――。誰一人として喚声を上げる兵はいなかった。命令された武者たちすら、重い足取りで顔を見合わせ、槍の切先は地面を向いたまま動かない。兵たちの心に、言葉にならぬ戦慄が広がっていた。


 (この街は……力づくで奪えるような砦ではない。自分たちとは住む世界が違う、遥かに巨大で強大な『生き物』なのではないか……?)


 ――その頃。


 白亜の防壁の上。城壁の狭間から敵陣を見下ろす一馬の隣で、千代が刀の柄を握りしめていた。


 「……一馬殿。敵は三千。飢えているとはいえ、あの宗馬という男、狂気に駆られて力任せの突撃を命じておりますわ。門を破られれば乱戦になりますぞ……!」


 千代の声には張り詰めた緊張があった。しかし、一馬は手元のおにぎりをもぐもぐと頬張りながら、穏やかな瞳で敵陣を見つめていた。


 「千代さん、大丈夫だよ」


 「な、何が大丈夫なのですか! あれほどの大軍が目の前にいるのですぞ!」


 「うん。でもね、もう問題は『三千人いること』じゃないんだよ」


 一馬は最後の一口を飲み込み、温かいお茶をすすって静かに言った。


 「『あの三千人が、あの場所で何日生きていられるか』だよ」


 「……え?」


 「見てごらんよ。陣地に薪がないから火が焚けてない。夜露で体温が奪われてる。上流の水路は鳴神側で管理している。だから、敵軍が使える水場は限られている。敵は普段使われていない水場から泥水を汲むしかない。だから浄水も時間も必要になる。……あそこにいる三千人は、軍隊じゃない。『補給が止まった、三千人の遭難者』なんだよ。軍隊としての生命維持装置が、一本ずつ切られている。食料。水。薪。飼料。睡眠。移動。医療」


 「…………っ!!」


 千代の背筋に、電撃のような戦慄が走った。一馬の目には、敵軍の槍の数も、騎馬の突進力も映っていない。映っているのはただ一つ――「三千人の肉体が生命を維持するためのエネルギー収支」。戦わずして、すでに相手の生命維持装置は一本ずつ切られている。あとは、物理法則と人体の限界が、勝敗を決してくれるのだ。


 「源蔵さん、篝ちゃん」


 「ははっ」


 「……はい」


 一馬は二人の守護を振り返り、優しく微笑んだ。


 「今夜、敵が自暴自棄になって夜襲をかけてくるかもしれない。でも、絶対に殺しちゃ駄目だよ。防壁の罠と唐辛子煙幕で無力化して、怪我人は診療所へ運んであげてね。今夜は来ると思う」


 「なぜ分かりますの?」


 「昼間は、あの三千人がまだ『軍隊』だと思っていられる。でも夜になれば寒くなる。腹も減る。眠れなくなる。人は、寒くて腹が減ると、判断を間違えるからね。それにね、三千人を殺したら、鳴神には三千人分の死体と怪我人と憎しみが残る。でも、生きたまま降りてもらえば、三千人分の働き手になる。農地を広げる人もいる。道路を作る人もいる。鍛冶を覚える人もいる。家族を呼ぶ人もいる。だから……殺さない。鳴神に来た人は、敵でも人だからね」


 「……御意。御屋形様の慈悲、しかと心得ましてござる」


 源蔵が深々と頭を下げた。


 その夜。鳴神では、いつもと何一つ変わらない夕食が始まっていた。


 「いただきます!」


 子供たちの声。茶碗に盛られる白米。味噌汁の湯気。焼き魚の香ばしい匂い。そして大浴場から聞こえる笑い声。城壁の外では、三千人の兵が凍えている。城壁の内側では、三百四十人の民が温かい飯を食べている。その差は、わずか数十メートルだった。


 「……なあ」


 一人の足軽が隣の男に呟いた。


 「俺たちは、何を奪いに来たんだ?」


 誰も答えなかった。目の前にあるのは、ただの城ではない。「人が普通に生きられる場所」そのものだった。


 夜の帳が下りる。白亜の神都・鳴神は、真昼のような篝火と湯気、そして芳しい飯の匂いに包まれていた。その光の前に立ち尽くす、飢えと寒さに震える三千の影。乱世の古い権力者が信じる「暴力」と、一馬が創り出した「新しい都市システム」。その決着の時は、一滴の血も流さぬまま、静かに、確実に訪れようとしていた。都市っていうのはね、敵が来ても普段通り飯が食える場所なんだよ。


 一馬は帳面を開き、炭を走らせた。


――――――――――――――――――――

【鳴神開拓記録:三百五十五日目】

・現在人口:340人(常住者)+各国滞在者約30人

・都市機能:主要機能を維持・平常稼働中(夜間警戒態勢)

・敵軍状況:橘本軍三千、鳴神正面に布陣。極度の疲労・飢餓状態。脱走兵が散発的に発生

・敵軍兵站:主力備蓄ほぼ枯渇。現地調達も困難

――――――――――――――――――――

【本日の反省:大軍を迎撃する際、武力ではなくエネルギー収支を見よ。補給の止まった軍隊は遭難者と同じである】

【現在の目標:夜襲を非殺傷で無力化し、敵軍の完全降伏を受け入れよ】

――――――――――――――――――――

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