第20話:巨大商人の買い占め工作
第20話:巨大商人の買い占め工作
春の陽射しが市場の屋根を照らす頃、鳴神の中央広場はいつにも増して人の熱気に包まれていた。
「――一馬殿。大黒屋の手代と名乗る者が、ご面会を求めております」
千代が帳面を抱えたまま、静かに報告した。堺屋の文蔵とは違う、黒く光る絹の羽織をまとい、腰に重い銀の下げ緒を下げた中年の男が、門前で丁寧に頭を下げている。
「大黒屋……? ああ、遠方の豪商の人?」
一馬は手を拭いながら出て行った。男は伊三郎と名乗った。背後には、荷車を引く屈強な従者が十数名控えている。
「一馬様。当主より、謹んで申し入れがございます。貴地の米、蕎麦、鉄器、木工品、温泉石鹸――すべてを、向こう三年に渡り、市場価格の二倍で独占的に買い取らせていただきたい。その代わり、他商人への販売は一切お控え願いたい。……さらに、貴地が必要とする鉄鉱石、塩、薬、木材なども、大黒屋を通じてのみご購入いただく形で如何かと」
伊三郎の声は穏やかだったが、内容は明確だった。高値で買う代わりに、売る相手も買う相手も、すべて大黒屋一社に握らせる契約。
「全部、大黒屋さん一社に売るの? うーん、駄目だよ。危なすぎる」
一馬は即座に首を横に振った。
「それ、売る相手と買う相手を全部一社にするってことだよね? それじゃ大黒屋さんが止まった瞬間、鳴神も止まるじゃん。高値で買ってくれるのは本当にありがたいよ。でも、誰か一人に頼るのは怖いからね」
伊三郎の眉が、わずかに動いた。
「……では、上限枠いっぱいまで買い尽くしてやろう」
市場が大きくなったら、誰か一社に買い占められたら困る。だから一社が扱える量には上限を決めよう、と一馬は以前から言っていた。千代が「では、全流通量の二割を上限といたしましょう。二割なら、その商人が撤退しても市場全体が止まらない」と制度化した。それが今、機能している。
大黒屋は、市場に出回っていた今期分の在庫を、上限枠いっぱいまで買い占めた。一馬殿、現在市場に出ている米の在庫は、今期収穫分の一部にすぎませぬ、と千代が説明した。棚から一時的に米と鉄器が消えた。だが倉庫には備蓄がある。次の出荷が始まる。大黒屋の買占め効果が薄れる。
「困ったね」
一馬は帳面を開きながら、むしろ嬉しそうに呟いた。
「高値で売れたってことは、お金が入ったってことだ。このお金を使って、もっと作ればいい」
冬の間に人手と資材を整えておいたおかげで、春の資金投入は一気に形になった。実は冬の間に、水車の設計図だけは作ってあった。鉄心が一月前から炉体の耐火煉瓦を焼いていた。新入りの鍛冶職人には送風、破砕、選鉱、炭入れを分担させていた。人材と設備と資金が揃ったので、以前から準備していた第二高炉を稼働させた。大型水車精米所、製材所の拡張、農地の第二期開墾も同時に進んだ。
三町歩への拡張は、すべてを水田にしない。水田、蕎麦畑、大豆畑、野菜畑、飼料作物を分ける。大豆は第十四話で文蔵から入荷予定になっていたものを、本格的に畑に植える。味噌や醤油や豆腐への道が、ここで開かれた。
一か月後。第二高炉からもうもうと煙が上がり、精米所の水車がガタゴトと回り始めた。市場の棚に、再び米と鉄器と木工品が並ぶ。量は以前の倍近くに増えていた。大黒屋が買った二十パーセントは、鳴神全体の生産能力の二十パーセントではない。在庫を空にしても、次がすぐに出てくる。
「……なるほど」
千代が市場を見渡しながら、静かに言った。
「貴方が守っているのは、米でも鉄でもありませんのね」
「ん?」
「誰か一人に握られたら、街そのものが死ぬ。その状態を貴方は最初から嫌っている。……うん。誰か一人に頼るのは怖いからね。だから商人を分散させ、倉庫を分け、仕入れ先を増やし、生産設備まで自分たちで持つ。……これが、鳴神の『自立』なのですね」
一馬は少し考えてから、頷いた。
「最初は、余った米を売って足りないものを買えればいいと思ってたんだけどなぁ。今じゃ、売る相手も買う相手も、ちゃんと自分たちで選ばないといけないんだね」
大黒屋の第一段階の買占め工作は、ここで阻止された。分散物流網が機能した。だが老商人は、まだ諦めてはいなかった。
「鳴神そのものを買う必要はない。あの街が必要とする鉄、塩、薬、木材の流れを押さえればいい」
老商人はそろばんを弾きながら、冷たく命じた。高値買い、買占めの次は、仕入れの妨害、運送業者の囲い込み、鳴神の商人への高額融資による債務縛り――。だが鳴神側には、複数の商隊と、自前の倉庫と、自前の道路と、自前の生産設備がある。一つずつ潰されても、別ルートを作ろう、と一馬は考える。
大黒屋との高額取引を聞きつけた職人・商人・農民の移住希望が増加し、人口は百二十六人に達した。だがその中に、身元の知れぬ者が数名混じっている、という報告が、大黒屋の手代から老商人のもとに届いていた。
「旦那様。もう一つ、報告がございます」
「何だ」
「鳴神への移住希望者の中に……身元の知れぬ者が数名おります」
老商人の目が細くなる。
「……商人か?」
「いいえ」
「では何者だ」
「それが……誰も彼らの過去を知りませぬ」
一馬は帳面を開き、炭を走らせた。金が増えたことで、土地を買いたい商人、倉庫を建てたい豪商、商業独占を狙う者、労働者を囲い込む者、高利貸し、賄賂――そんな影が、これから街の中に入り込み始めるだろう。敵は、もう三十騎の騎馬隊ではない。経済と制度の中に入り込んでくる人間そのものだ。
「……戦争って、始まってから考えるんじゃ遅いんだよね」
一馬は市場の賑わいを見ながら、静かに呟いた。誰かが怪我する前に、怪我しない仕組みを作る。誰かが飢える前に、食料を備える。誰かが攻めてくる前に、攻めても得しない街にする。安全な暮らしは、偶然ではなく設計する。
その夜も、鳴神の温泉からは湯気が立ち上り、長屋の灯りが静かに揺れていた。一馬の関心は、すでに次の防火水槽と、堆肥場の配置と、春の大豆の生育に向いていた。
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【鳴神開拓記録:二百四十日目】
・人口:126人(常住)+白金領滞在15人
・都市区画:長屋五棟、職人街、商業街、宿場区画、中央市場
・公共施設:鳴神温泉・共同大浴場、共同便所、井戸・給水設備、市場管理所、警備詰所
・産業:鍛冶工房(第二高炉稼働)、製材所拡張、炭焼き窯、陶工房、石鹸工房、大型水車精米所
・農業:水田・蕎麦畑・大豆畑・野菜畑など約3町歩規模へ拡張開始
・商業:大黒屋による第一段階の買占め工作を阻止。分散物流網が機能。銀・銭による現金取引が定着
・特産品:鳴神米、新蕎麦、規格農具、檜工芸品、温泉成分を利用した石鹸
・新たな懸念:火災対策、食料供給能力、商人による独占・融資による債務縛り、身元不明の移住者
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【本日の反省:誰か一人に依存する経済は脆い。商人を分散させ、倉庫を分け、仕入れ先を増やし、生産設備を自前で持つことが自立の道】
【現在の目標:百人超都市に見合う公共インフラを整備し、依存しない経済圏を周辺地域へも広げよ】
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