第2話:魔境という名の、手つかずの超優良物件
第2話:魔境という名の、手つかずの超優良物件
翌朝、冷たい山の空気と鳥のさえずりで目が覚めた。夜露をしのぐために昨晩張った粗末な筵をめくると、目の前には朝靄に煙る広大な荒野が広がっていた。足元は泥濘で、一歩踏み出すたびに草履がズブズブと沈む。冷たい風が吹き抜けるたび、濃厚な硫黄の臭いが鼻先をかすめた。源助が焚き火の跡の前で痩せた体を縮こまらせて震えており、その隣では十兵衛が腰の関節をさすりながら、途方に暮れたように湿地を見つめていた。
「うう……寒い……。若殿、お怪我はございませぬか」
源助の声は細く、夜の冷え込みが体に染み込んでいる様子だった。十兵衛が低く続けた。
「若殿……改めて見渡してみましたが、ここはやはり人の住める土地ではござらん。地面は底なし沼のようで小屋の柱も立ちませぬ。山から木を切ろうにも、ぬかるみに足を取られて運ぶことすら叶いませぬ……」
二人の老僕の顔には、昨晩以上の絶望が張り付いていた。着の身着のままで放り出され、食料も数日分しかない。普通なら凍死か餓死を待つだけの極限状態である。だが一馬の視点は、全く違っていた。彼はしゃがみ込み、足元の泥を手で一握りすくい上げた。指先でこすり合わせ、鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
(表面は水浸しだが、粘土分が多い。腐った草や落ち葉も混じっている。ただ、これだけじゃ良い土かどうかは分からないな)
一馬は泥をもう一度指で潰した。表面だけを見て「最高の黒土だ」と決めつけるのは危険だ。土は何層にもなっている。水を抜いたあとで少し深く掘り、何層になっているかを確認しなければ、排水方法も変わってくる。粘土が厚いなら工夫が要るし、砂が多いなら水が抜けすぎるかもしれない。前世の現場監督として、彼は「知らないまま始める方が怖い」ということを身をもって知っていた。
次に視線を遠くの岩山へ向ける。山肌の裾野にはブナやクヌギ、スギの原生林が生い茂っていた。建築用の構造材、薪、炭の原料が豊富にありそうだ。岩山の石も使えそうだが、花崗岩か安山岩か、実物を割って確認した方がいい。そして風に乗って漂う濃厚な硫黄臭。山の斜面の中腹、冷たい朝の空気の中で、一箇所だけ白く立ち上る湯気があった。
(湯気が出ている。硫黄の臭いも強い。これはかなり期待できる。……でも、源泉の位置はちゃんと探さないとな。温泉は逃げない。まずは安全な場所を確保しよう)
一馬はパンパンと手の泥を払って立ち上がった。
「源助さん、十兵衛さん。ここはやっぱり、最高の手つかず優良物件だよ」
「「……は?」」
二人が同時に間の抜けた声を上げた。一馬は続けた。
「少なくとも、今のところ俺たちに年貢を取り立てに来る人はいない。誰にも邪魔されず、木も石も水も、ちゃんと管理すれば自分たちの暮らしに使える。……切りすぎたら山が死ぬし、水も使いすぎれば下流が困る。そこだけは気をつけよう。自分たちの手で、最高の街を作れるじゃないか」
「ま、街……!? この泥沼にでござるか!?」
十兵衛が目を丸くする。一馬は湿地の端に横たわる太い枯れ木を指差した。
「ああ。まずは雨風を完全に防げる丈夫な仮小屋を建てよう。木材を切り出したいんだけど……十兵衛さん、あそこの倒木なんて太くて良さそうじゃない?」
十兵衛が足を引きずりながら近寄り、持参した金槌で幹をカンカンと叩いた。音の響きを確かめ、皮を少し剥いで中を覗き込む。
「若殿、これは駄目でござる」
「え? 太いのに?」
「外側は立派に見えますが、中はすっかり虫に食われてスカスカになっております。これを柱に使えば、雪が積もればひとたまりもなく圧し潰されますぞ」
「あ……本当だ。穴だらけだ」
前世で現場監督をしていたとはいえ、加工されていない生の木材の見極めは、長年現場で木を削ってきた十兵衛の方が遥かに上だった。一馬は素直に頷いた。
「木と土のことなら、この十兵衛にお任せくだされ」
十兵衛が少し誇らしげに胸を張った。
「あっちの斜面に生えている若いスギを伐り出しましょう。細身ですが粘りがあり、小屋の骨組みには最適でござる」
「頼もしいな! じゃあ十兵衛さん、木の伐採と加工の指揮をお願いできる? 俺と源助さんで運ぶよ」
「は、ははっ! お任せを!」
現場監督の仕事は、すべてを自分でやることではない。職人の専門技術を信じ、適材適所で最大の力を引き出すことだ。一馬は懐から、実家を出るときに持ち出してきた帳面と炭を取り出した。前世の工事現場には、必ず全体を把握するための掲示板と工程管理表があった。自分の頭を整理し、二人に目標を示すためにも、記録は不可欠だった。さらさらと、帳面の最初の頁に文字を書き記す。
――――――――――――――――――――
【鳴神開拓記録:一日目】
・開拓人口:3人(一馬、源助、十兵衛)
・食料備蓄:米 約二日分、味噌 約三日分、干物 約三日分
・飲料水:要確保
・居住区:なし(仮設小屋・設営中)
・農地:0町
・温泉:未確認(有望な湯気を確認)
・薪:不足
・医療:応急処置のみ
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【現在の目標:安全な仮小屋を建て、生活拠点を確保せよ】
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「若殿……その帳面は何でござるか?」
源助が不思議そうに覗き込んできた。
「ただの開拓記録だよ。俺たちが今どれだけのものを持っていて、次に何をすればいいのか、一目で分かるようにね」
「記録……」
源助と十兵衛が顔を見合わせ、息を呑んだ。二人の目には、一馬が「死の魔境を前にして全く取り乱さず、冷徹な計算のもとで新たな領国の礎を刻んでいる」ように見えていたらしい。いや、ただ現場監督の職業病が出ただけだった。
「そうだ、源助さん」
「はい?」
「食料はあと何日分ある?」
源助が少し考えて答える。
「米が二日、味噌が三日ほど。干物は……大切に食べれば三日ほどでしょうか」
「分かった」
一馬はすぐに帳面へ書き足した。
「若殿……なぜ、そこまで細かく記録されるので?」
「街を作るなら、まず腹が減らないようにしないとね」
一馬は当たり前のことのように答えた。
「家が立ってても、食べ物がなければ人は住めない。水がなければもっと困る。だから、建物より先に暮らしを見るんだよ」
源助は目を見開いた。
「……暮らしを、見る」
「うん。俺は立派な城を作りたいわけじゃない。俺たちが明日も飯を食えて、暖かく眠れて、風呂に入れる場所を作りたいんだ」
それは一馬にとって、ごく当たり前の話だった。だが源助にとっては、その言葉こそが、この土地で初めて聞いた「未来」の話だった。
「十兵衛さん、伐採を始めよう! 源助さんは足場になる平らな石を河原から集めてほしい。俺は小屋を建てる高台の草刈りをする!」
「「ははーーっ!!」」
二人は昨晩の絶望が嘘のように、力強い返事をして駆け出していった。だが一馬は、すぐに彼らを呼び止めた。
「ただ、家を建てる前に一つ確認しよう」
一馬は小屋を建てる予定地の周囲を歩いた。
「雨が降ったとき、水がどこから来るかを考えないと」
十兵衛が眉を寄せる。
「今日は晴れておりますが?」
「だから今のうちに見るんだよ」
一馬は地面に残った泥の跡を指差した。
「ここ、少し草が倒れてるだろ。たぶん雨水がこっちへ流れてる。こっちは地面が低い。水が集まる場所だ」
「……なるほど」
「家は水の通り道に建てない。これは一番大事なことだから。建ててから直すより、最初から避けた方が楽だからね」
さらに一馬は二本の棒を地面に立て、紐を張った。
「十兵衛さん、こっちより向こうが少し低いね」
「……それだけで分かるのでござるか?」
「水は高いところから低いところへ流れるからね。家を建てるなら、水が家の下を通らない場所を選ばないと」
十兵衛が深く頷いた。家を建てる前に水を見る。それが、後の鳴神都市計画の原点となる最初の一手だった。
作業が始まると、十兵衛の斧が小気味よい音を立てて木を切り倒し、源助がせっせと石を運び、一馬が土地を均す。泥だらけになりながら作業を進めるうち、太陽が天頂へ昇り、冷え切っていた荒野が少しずつ温まってきた。だが、途中で小さな失敗が起きた。十兵衛が切り出した木を運ぶ途中、湿地の端で足場が崩れたのだ。
「若殿! 止まれ!」
十兵衛の声に、一馬は慌てて足を止めた。危うく泥に足を取られるところだった。
「……危なかった」
一馬は帳面に素早く書き込んだ。
【反省:湿地の端を運搬路に使用しない】
現場監督とは「失敗しない人」ではない。「失敗を記録して二度と繰り返さない人」である。この一行が、後の鳴神規格の原点の一つとなることを、この時点で知る者はいなかった。
夕暮れ時、高台の上には、十兵衛の巧みな木組みによって、大人三人が手足を伸ばして眠れる頑丈な仮小屋が姿を現していた。
「……ふう! できた!」
一馬は腰に手を当て、完成した小屋を見上げて笑った。
「十兵衛さん、素晴らしい腕前だよ。隙間風も少ないし、これなら今夜は凍えずに眠れる」
「若殿の地均しと土台の石組みが見事だったからでござる。……まさか一日で、これほど立派な寝床ができるとは」
十兵衛が感激したように小屋の柱を撫でる。源助が沸かしてくれた薄い粥をすすりながら、三人は小屋の縁先から沈みゆく夕陽を眺めた。茜色に染まる泥湿地。昼間はただの泥沼に見えた大地が、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。
「源助さん、十兵衛さん」
「は、はい」
「明日はね、あの泥沼に手をつけるよ」
「……泥沼に、でござるか?」
「うん。一晩で畑にするんじゃないよ。まずは水の通り道を作って、どこまで水が抜けるかを見るんだ。土が良ければ畑になるし、悪ければ土も入れ替える。まずは、この土地が何者なのか調べないと」
「「……!?」」
二人が息を呑んだ。常識ではあり得ない言葉。だが、今日の作業を見た二人の瞳には、もはや疑いの色など微塵もなかった。
(若殿は……本当に、この死の魔境を造り替えるおつもりなのだ……!)
夜の帳が下りる中、遠くの岩山から硫黄の香りが微かに漂ってくる。一馬は帳面を閉じた。今日できたのは、小さな小屋が一つ。開拓人口は三人。農地はゼロ。食料は数日分。温泉も、まだ見つけただけだ。それでも、不思議と不安はなかった。
「明日は、まず水の流れを調べよう」
「はい、若殿」
「それから、少しだけ泥を掘ってみる。どこまで水が抜けるか試してみよう」
十兵衛が頷く。
「では、明日は排水の工事でござるな」
「うん」
一馬は空を見上げた。
「奇跡じゃないよ。ちゃんと調べて、ちゃんと作るだけだ」
それが、一馬にとっての街づくりだった。誰かが一晩で魔法のように豊かにするのではない。水を調べる。土を調べる。木を選ぶ。食料を数える。危険を一つずつ潰す。そして、昨日より少しだけ暮らしを良くする。その小さな積み重ねが、やがて「鳴神」という街になる。だが今はまだ、そんな未来を知る者はいない。ただ三人の男が、泥湿地の片隅で小さな火を囲んでいるだけだった。
「……待ってろよ、俺の源泉掛け流し温泉」
一馬は小さく呟いた。明日もまた、仕事が始まる。そして本人だけは、それを「仕事」だと思っていなかった。
「のんびり暮らすための準備なんだから、仕方ないよな」
そう言って、一馬は笑った。三人の小さな開拓団が刻んだ第一歩。明日、鳴神の地で最初の排水試験が始まる。奇跡ではない。ただ、水の流れを見て、土を掘り、試してみる。一馬にとって、それが街づくりの第一歩だった。




