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第23話 段々畑とインカの石積み

 泥だらけの湿地に打ち込まれた無数の杭と石の土台により、拠点予定地の地盤は盤石なものとなった。足元が沈み込む不快感から解放され、建設作業は順調に進んでいる。だが、インフラの整備は建物を建てるだけで終わりではない。


 右目の測量用モノクルを調整し、拠点予定地の背後にそびえる東掩蓋連峰の急峻な斜面を見上げる。隣に立つ案内人のカイトが、山の表面を観察しながら静かに口を開く。

「雨季の雨、山を激しく洗う。土、全部下に持っていく。そのままじゃ、種まいても流れる」


 カイトの直感的な警告は、僕のモノクルが弾き出す表土流出のシミュレーションと完全に一致している。雨季の激しい降水がこの急斜面を襲えば、豊かな表土はあっという間に洗い流され、作物は育たない。


 そこへ、立派な身なりの男が護衛を連れて歩み寄ってくる。王都からこの未開の地への物流を担う御用商人、ハンスだ。彼は手元の帳簿を苛立たしげに叩く。

「ドルト曹長。基礎が固まったのは結構ですが、問題は食糧です。王都からここまで荷馬車を回す物流コストは、既に予算を圧迫しています。今後、本格的な入植者が増えれば、食糧の輸送だけで破産しますよ。至急、この地での自給自足体制を確立していただきたい」


 ハンスの要求は、商人として極めて真っ当な経済的合理性に基づいている。遠方からの補給に頼り切った都市は、いずれ干上がる。

「おっしゃる通りです、ハンスさん。長距離輸送によるコストの増大は、僕も懸念していました。早急に、入植者が自活できる生産基盤を構築します」


 ハンスに丁寧に答えながら、視線を再び急斜面へと戻す。

 ただ土を平らにするだけの開墾では、自然の猛威に耐えられない。脳内のスイッチが切り替わる。


 雨水によって土が洗い流されるなら、斜面そのものの形状を作り変えればいい。急峻な斜面を水圧に耐えうる堅牢な構造へと。


 ――――13世紀から16世紀にかけてアンデス地域で発展したインカの石積み。

 接着剤モルタルを一切使わずに巨石を隙間なく噛み合わせる高度な建築技術だ。

 鉄器や車輪を持たない文明でありながら、数トン〜数十トンの巨石をカミソリの刃も通らないほど精密に削り、パズルのように組み合わせた建造物群として知られている。インカ帝国の権威を示す王宮や神殿、要塞、そして急峻な山肌を開墾するための段々アンデネスの土留めとして国中で大規模に整備されたのだ。

 地震の揺れに合わせて石がわずかに動き、衝撃を逃がして元の位置に戻る柔軟な構造で、壁全体をわずかに内側に傾け、窓や出入り口も上部が狭い「台形」にすることで、重心を低く保ち倒壊を防いでいる。運搬や建設時のテコとして使われたと推測される「コブ」が、石の表面にあえて残されているのも特徴的だ。

 階級によって石積みの使い分けもされていたようで、宮殿や神殿は完全に四角く磨かれた石を規則正しく並べる最高級の「布積み」、要塞や重要な壁は不規則な多角形の巨石を噛み合わせる「多角形積み(12角の石など)」、一般住居や段々畑は自然石を泥で固めた簡易的な「野面積み(ピルカ)」と分かれている――――



「ハンスさん、単に木を切り倒して土を耕すだけの開墾では、次の雨季が来ればすぐに豊かな表土が流されてしまいます。それどころか、保水力を失った山が斜面崩壊を起こすリスクすらあります」


 俺は手元の図面を広げ、ハンスとカイトに新たな支持を行う。


「遠方からの補給に頼らない恒久的な食糧生産基盤を構築するには、山肌そのものを物理的に安定させる必要があります。等高線に沿って斜面を階段状に切り拓き、その段差を強固な石積みで土留めする『段々畑』を造成するんです」


 右目のモノクルを調整し、斜面の起伏を精密にスキャンして等高線を割り出していく。

 ただ土を平らにするのではない。斜面の形状を階段状に再定義し、水圧と重力に耐えうる巨大な構造物へと変貌させる合理的なアプローチだ。かつてアンデス山脈の厳しい環境下で、高度な文明を支えたアンデネスと呼ばれる石積みテラスと同じ理屈である。


「これが完成すれば、雨水による表土の流出を防ぎながら、限られた斜面で最大の収穫量を得ることができます。物流コストの削減どころか、いずれは入植者の増加を支える強固な生産拠点になりますよ」


「ほう……。自給自足の基盤が確立すれば、私が運ぶ荷馬車には食糧ではなく、別の有益な物資を積めるというわけですね。それは商人として、非常に合理的な展望です」


 ハンスが手元の帳簿から顔を上げ、満足げな笑みを浮かべる。


 初期投資として斜面の掘削と石積みの手間はかかるが、長期的な維持管理を考慮すれば最も確実で安全な選択だ。


「バルカさん、ボルドーさん、出番ですよ。まずは俺が魔照機で示す等高線のラインに沿って、斜面を階段状に削り出します!」


 等高線に沿って斜面が階段状に削り出されると、古参石工のボルドーが指揮を執り、切り出した石材を組み上げ始める。


 彼の手際により、重厚な石が隙間なく積まれ、強固な擁壁の輪郭が斜面に現れる。だが、俺は作業の途中でボルドーに声をかける。


「ボルドーさん。ただ石を積んで、その裏にすぐ土を被せるのは待ってください。石積みと土の間に、砕石や粗い砂利の層を厚く敷き詰めるんです」


 ボルドーが積んでいた石から手を離し、怪訝な表情を浮かべる。

「土留めの壁だろう? 土がこぼれねえように隙間なく積んでるのに、わざわざ裏に隙間だらけの砂利を入れるってのか」


「ええ。土を留める擁壁で一番怖いのは土の重さじゃありません。雨季に降り注ぐ『水』です」


 右目のモノクルを調整し、斜面に雨が降った際のシミュレーションを展開する。

 土の中に大量の水が入り込めば、土粒子を押し広げようとする間隙水圧が発生する。水がパンパンに詰まった土風船を力任せに石の壁で押さえつけても、いずれ内側から壁ごとへし折られてしまう。


「水を通しにくい土が直接石積みに密着していると、水圧の逃げ場がなくなります。壁の裏側に砂利の層――『裏込め砕石』を厚く設けることで、雨水だけをその隙間に通し、速やかに下部へ排出させるんです」


 力で自然をねじ伏せるのではなく、水に的確な逃げ道を用意してやる。水圧さえ抜ければ、土の粒子は勝手に噛み合って引き締まり、斜面は自らの力で安定する。


 俺の意図を理解したボルドーは、泥だらけの顔にニヤリと笑みを浮かべる。

「なるほどな。力尽くで水と喧嘩するんじゃなく、通り道を作って山を落ち着かせるってわけか。……おいお前ら! 監督の指示通り、石の裏に砕石をたっぷり流し込め!」


「おうよ! 砂利ならいくらでも運んでやるぜ!」


 バルカと工兵隊がすぐさま砕石を運び込み、石積みの背後に厚い透水層が形成されていく。見えない部分に施された理屈が、斜面全体を水圧から守る堅牢な防壁へと変えていく。


 等高線に沿って、透水層を備えた強固な石積みのテラスが次々と形成されていく。だが、堅牢な器が完成しただけでは農地とは呼べない。ここからが、農学・土壌改良専攻としての本領発揮だ。


「バルカさん。次は土入れです。以前の導水路工事で川底から浚渫したあの泥と、ガリクに集めさせた肥料をこのテラスに運び込んでください」


「おうよ、監督! 砂利を敷いたと思ったら、今度は上に泥を被せるんだな!」


 バルカが工兵隊を率いて、重い泥と肥料をテラスへと運び上げる。この泥は東掩蓋連峰の鉱山地帯から流れ出たもので、リンやカリウムなどのミネラルを大量に含んでいる。本来なら実家の畑に撒きたかった最高級の土だ。


「ただ重ねるだけじゃダメです。バルカさん、力一杯全体をかき混ぜてください」


 バルカたちが鍬やスコップで泥と肥料を混ぜ合わせるのに合わせ、俺は地面に手を当て、自身の微細なマナを土中へと流し込む。

 単に土を細かく砕くだけでは、激しい雨が降った際に再び流動的な泥濘に戻ってしまう。土の粒子同士を魔法で適度に結合させ、小さな塊を作ることで、水や空気が通り抜ける隙間を意図的に確保するのだ。


 マナを介して粒子の結びつきを調整し、水はけと保水性を両立させた団粒構造へと土質を変換していく。

 力任せに耕すのではなく、土の性質そのものを土壌改良の理屈で最適化する。無骨な石積みに囲まれた段々畑の中に、空気を含んだ柔らかな土壌が形成されていく。


 テラスの土を一掴みし、その感触を確かめる。握れば適度に固まり、指で軽く押せばほろりと崩れる。作物の根が健やかに伸び、雨季の水分を適切に保ちながら、余分な水は背後の砕石層へと安全に逃がす構造だ。


「……よし。これで、実家の畑にも欲しかったフカフカの土の完成ですよ」


 手についた泥を払い、俺は斜面一帯に広がる新たな生産基盤、斜面一帯を見渡す。


 そこには、等高線に沿って整然と重なる堅牢な石積みと、豊かな黒土を備えた巨大な階段状の農地が広がっている。


 試しに工兵隊に上段から大量の水を撒かせてみる。水は柔らかな土壌にスッと吸収され、やがて作物の生育に不要な水分だけが、石積みの隙間と背後に設けた砕石層を通って、斜面の下へと速やかに排出されていく。


「ハンスさん、確認してください。この構造なら、雨季の激しい降水に見舞われても、表土が洗い流されることも、間隙水圧で斜面の擁壁が崩壊することもありません」


 商人のハンスが帳簿を閉じ、満足げに頷く。

「ええ、素晴らしい。これで遠方からの食糧輸送に頼る必要はなくなります。いずれ入植者が増えても、この自給自足の基盤が彼らを支えるでしょう。物流の最適化という私の要望を見事に叶えてくれましたね」


 案内人のカイトも、石積みの表面を静かに撫でている。

「山、落ち着いてる。水、素直に下へ逃げる。もう土、流れない」


 俺はテラスの土を軽く踏みしめる。適度に沈み込み、しっかりと反発する。実家の畑を理想とした、作物にとって最良のフカフカの土壌環境が整っている。

 だが、感傷に浸っている暇はない。農業生産の基盤が完成しただけで、インフラ整備が終わるわけではないのだ。


「バルカさん、ボルドーさん、次の工程に移りますよ。この畑で採れた作物を貯蔵するための施設群、そして本格的に入植者を迎えるための居住区画の基礎工事です」


 俺は泥を払い、すぐさま次なる都市整備の図面を広げる。

「ハンスさん、居住区の建材と加工設備の手配を至急お願いします。工期が惜しいんで、立ち止まっている余裕はありませんよ」


 見上げるような急斜面は、自然の猛威に怯える脅威から、都市の胃袋を強固に支える生産拠点へと生まれ変わった。俺は新たな図面に魔照機の赤い光を落とし、未開の荒野に文明の土台を築き上げるための指示を絶え間なく飛ばし続ける。

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